エノク:信仰の歩み

さて、この素晴らしい主の日を終えるにあたり、再び神の尊い御言葉をともに開く機会が与えられました。私たちはヘブル人への手紙の第11章にある、信仰の偉大な英雄たちに目を留めています。どうぞその箇所を開いてみてください。今夜私たちが目を向けるのは、エノクという名前の人物です。名前には聞き覚えがあるかもしれませんが、エノクについて詳しいことはご存じないかもしれません。そこで今夜は、その空白を少し埋めていきたいと思います。これは非常に実践的でダイナミックな方法で語られ、あなた自身の生活に直接かつ大きく適用できるものとなるでしょう。ヘブル人への手紙 第11章5節と6節です。

「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなりました。彼が天に移される前に、神に喜ばれていたという証が得られていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在することと、神をご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」

ここで思い出していただきたいのは、名実ともに数多くの信仰の英雄たちに満ちたこの章の目的です。それは、この手紙の宛先であるヘブライ人、つまりユダヤ人たちに対して、神に近づく唯一の道は信仰であると納得させることにあります。彼らは何世代にもわたり、歪められたユダヤ教にさらされていました。そのユダヤ教は、自らの力や儀式、行いや道徳心によって神に至る道を勝ち取り、救いを得るのだという結論に至っていたのです。ヘブル人の手紙の著者は読者たちにそのことを思い起こさせています。読者の多くは信仰者であり、救いのために自分の信仰に完全に信頼してよいのだと知る必要がありました。また、彼らと行動をともにしながらも福音を知りつつ、未だキリストを受け入れていない人々もいました。したがって、彼らにとっては信仰への招きとなっているのです。

第10章の終わりを見ると、38節に旧約聖書からの引用があります。ハバクク書2章4節の親しみ深い御言葉です。

「わたしの義人は信仰によって生きる」

あるいは私たちがよく言うように、「義人は信仰によって生きる」のです。義とされること、神との関係が正しくされること、神との和解は、行いではなく信仰のみによって与えられます。それこそがメッセージなのです。 旧約時代は行いによる救いであったが新約時代からは信仰による救いになった、というような神の計画の変更ではなく、普遍的な真理であることを示すために、誰であるかは不明なこの手紙の著者は過去にさかのぼり、アベルに至るまでの信仰によって特徴づけられた霊的な英雄たちを挙げています。これによって、信仰による救いが決して新しいものではないことを証明しているのです。

最初の例がアベルであったことを思い出してください。アベルは、人がどのようにして信仰の生涯に入るかを示してくれました。人は自らの罪を認め、自分の罪のために生け贄が必要であることを受けいれることによって、信仰の生涯に入ります。それは、神が命じられたとおりにアベルが神の前の祭壇に血の生け贄をささげた際、非常に明確に示された証でした。このように、信仰の最初の例はアダムとエバの息子であるアベルであり、彼は行いによってではなく、自らの罪を告白し、自分は不適格であり神に近づく前に生け贄が必要であることを自覚するという信仰によって神に来ることを示しました。

続いて二人目の例がエノクです。アベルが「どのように信仰の生涯に入るか」を教えてくれるとすれば、エノクは「どのように信仰の生涯を生きるか」、あるいは「どのように信仰によって歩むか」を教えてくれます。さて、エノクの物語を知るためには創世記の第5章に戻る必要があります。それは実に驚くべき、素晴らしい物語です。創世記の第5章をお開きください。今夜はこれらをできる限り要約してお伝えしたいと思います。うまくいけば最後まで進むことができるでしょう。創世記の第5章は非常に興味深い章です。もし私がこの創世記第5章にタイトルをつけるとすれば、「そして彼は死んだ」の章と呼ぶでしょう。「そして彼は死んだ」の章です。

その視点から見ると、非常に興味深い章です。この章を読み進めると、アダムの子孫が列挙されており、彼らが生きた年数が記されています。しかし、たとえば5節の終わりでアダムの記録が締めくくられる際、「こうして彼は死んだ」とあります。8節でセツの記録が締めくくられる際も、「こうして彼は死んだ」とあります。消して同じように続いていきます。エノクとは異なるエノシュの11節にも、「こうして彼は死んだ」。ケナンも、「こうして彼は死んだ」。それから17節のマハラレルは895年生き、「こうして彼は死んだ」。20節では、「ヤレドの全生涯は962年であった。こうして彼は死んだ」。これが、私がこの章を「そして彼は死んだ」の章と呼ぶ理由です。

 

しかし、21節になると突然その傾向が破れます。

「エノクは六十五歳になって、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年神とともに歩み、息子、娘たちを生んだ。エノクの生涯は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」

これは異なります。ヘブル人への手紙第11章5節と6節で読んだように、エノクは死にませんでした。

ここで、エノクにはメトシェラという息子がいたという点について、簡単に注意を向けておくと面白いかもしれません。ちなみにメトシェラは、彼よりもはるかに長く、約700年も長く生きました。メトシェラという名前はヘブライ語で「遣わされる者」、あるいは「放たれた者」を意味します。そしてそれは、神から与えられた預言のための、神から与えられた名前でした。神がメトシェラの名前を通して示しておられたのは、さばきが遣わされるまで彼は死なないということでした。その名前が示していたのはそういうことです。メトシェラはさばきが来るまで生きることになっていました。さて、「こうして彼は死んだ」の章において、メトシェラは他の誰よりも長生きしましたね。彼は地上で誰よりも長い年数、969年を生きました。

生まれた時から、彼の名前そのものがさばきの預言でした。悪人たちは来るべきさばきについて警告されていました。彼らはまた、エノクからも来るべきさばきについて警告を受けており、ユダ書でもそのことに言及されています。これについては後ほど見ていきます。私にとって興味深いのは、メトシェラという名前に「さばきが来る」という預言が含まれていることです。しかし、メトシェラが他の誰よりも長生きし、その結果彼の警告が969年間にわたって続いたという事実に、神の恵みが見られます。では、そのさばきとは何だったのでしょうか。メトシェラが死んだその年に、洪水がやって来ました。洪水が来たのです。神はさばきに対する警告のメッセージが届くように、彼を他の誰よりも長生きさせられました。これは神の恵みによるものです。そして彼が死んだ時、洪水が来ました。

さて、彼の父エノクは、書かれているとおり365年しか生きず、神とともに歩んだ者として特徴づけられています。22節には「エノクは神とともに歩んだ」とあり、24節にも「エノクは神とともに歩んだ」とあります。そして彼が300年間神とともに歩んだ、つまり300年間敬虔な人であったことが語られています。これを個人的な問いに置き換えることもできるでしょう。もしあなたが地上に300年間残されたとしたら、あなたの証はどのようなものになるでしょうか。この社会の退廃に耐え、敬虔な生活を送り、300年の終わりに「神と忠実に歩んだので、神が文字通り彼を天に上げ、彼は死を経験しなかった」と言われるような生き方ができるでしょうか。

「でも、エノクは私たちが住んでいるような腐敗した世界には住んでいなかったのでは」と言うかもしれません。本当にそうでしょうか。私はエノクが非常に腐敗した世界に住んでいたと考えています。あまりに腐敗していたため、神は文明全体を水で滅ぼされたほどです。そして洪水の前、人の思いの測りごとが「いつも悪に傾く」ばかりであったと書かれています。神は人を造ったこと自体を悔やまれました。人の没落の後、殺人が起きるまでにそれほど時間はかかりませんでしたね。姦淫が起きるまでにも時間はかからず、あらゆる想像し得る罪へと広がっていき、地球全体を荒廃させました。そしてわずか約1000年の歴史の後に、神は全地球を水で沈められたのです。ですから、ある人が300年間生き、神とともに歩んだということは、驚くべきことです。私たちの多くは、3世紀どころか、ごく短い期間でさえ忠実であり続けることを難しく感じています。

エノクの物語にあるのは、洪水前の太古における霊性のレッスンです。そして覚えておいていただきたいのは、旧約聖書が主張していると一部の人々が想定するような、厳しい律法主義ではないということです。旧約聖書ではすべてが律法主義だった、というわけではありません。神は生け贄や儀式、道徳によってなだめるような、遠く離れた要求の厳しい神などではありませんでした。

 

原初における霊性とは、まさに神とともに歩むことであり、神は遠い存在ではなく身近な存在でした。アダムとエバが園で神と交わりを持っていたように、エノクもまた和解し、神と親密な交わりの中を歩む者でした。ギリシャ語訳(七十人訳)では、彼が神と歩んだのではなく、神を喜ばせた(神にかなった)と訳されており、これはヘブル人への手紙の記述とも一致しています。

アベルと同様に自らの罪を認め、生け贄の必要性を理解し、神を純粋に信頼して救いを求めたエノクは、神に喜ばれる人生を送りました。旧約聖書の初期から、律法的なシステムによるのではなく、人格的な交わりや個人的な親しみが重視されていたことが分かります。創世記には、ノアやアブラハムといった人物たちも同様に神とともに歩んだことが記されています。

「歩む」という言葉は、日々の歩みにおける段階的な交わりや和解を意味しています。ノアはさばきを逃れ、アブラハムは祝福を受け、エノクは死を免れる特権を与えられました。神はエノクを通じて、この世を離れて神の永遠の臨席へと入る永遠のいのちの存在をあらかじめ示されたのです。ペルシャの時代を生きるヨブも復活や死後の世界についての確信を持っていたように、エノクは救いの大いなる約束である、この涙の谷から離れて主の御前に至る姿を体現する存在となりました。

 

そして、365年目のとある日、彼は姿を消しました。いなくなり、遺体も何も見つかりませんでした。アダムの死からおよそ57年後、ノアの誕生の69年前、世界の歴史が始まって約1000年が経った頃、彼は天へと引き上げられました。「神が彼を取られた」とある時、ヘブライ語でその言葉は突然の説明のつかない消失を表しており、その消失に対する説明が「神が彼を取られた」という言葉なのです。彼は神とともに歩む信仰の模範であり、神とともに歩んだゆえに永遠のいのちという報いを受けました。

さて、それが創世記に記されている物語です。それでは、ヘブル人への手紙第11章にある私たちのテキストに戻り、その言及を取り上げてみましょう。ちなみに、この神とともに歩むということは新しい概念です。アダムとエバはそのように歩みましたが、追放されてしまいました。しかし、エノクにおいて人間の真の運命が回復されました。人間の真の運命とは、神との個人的で親密な交わりなのです。そして親愛なる皆さん、これこそが神が常に望んでこられ、常に備えてこられたものです。神は決して遠いお方ではなく、要求ばかりする超越したお方だけでもありません。神は、ご自身を間近に感じさせる個人的なお方でもあるのです。

エノクはここで、私たちにとって偉大な教師となっています。アベルが来たように、自らの罪を認め、キリストの死を予期させる生け贄の必要性を悟って神に近づくとき、自分が死に値する者であり自分の代わりに身代わりが殺されたことを知って近づくとき、カインが試みたように自分の力で道を切り開くことはできないと悟って近づくとき、人は神との間に非常に個人的な関係へと入っていくのです。エノクは罪のための生け贄を理解し、悔い改めを理解していたに違いありませんが、同時に神との個人的な交わりも理解していました。彼はキリストを指し示す生け贄の手段を通って入り、栄光の中へ入ることで終わる信仰の歩みの、古典的かつ時代を超越した模範なのです。

それでは、ヘブル人への手紙第11章のテキストを見て、神とともに歩むことが何を意味するのかについての洞察を与えてくれるいくつかの点を取り上げてみましょう。まず第一に、私が朗読した際にお気づきになったとおり、それは6節にあります。5節には、彼が見つからなかった、誰も彼を見つけることができなかったと書かれています。想像してみてください。「お父さんはどこ?」と子供たちが言い、妻は「彼はどこにいるの?」と言う。神が彼を引き上げられたので彼は見つかりませんでした。なぜなら、引き上げられる前に神に喜ばれていたという証が得られていたからです。これは、彼が神とともに歩んでいたと言うのと同じことです。

そして次に、神とともに歩むこと、あるいは神を喜ばせることが何を意味するのかについての教訓が続きます。6節にはこうあります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」これが、章全体における最初の劇的かつ動的な教訓です。神とともに歩む唯一の道、神を喜ばせる唯一の道は信仰によるのです。そしてすべてはそこから始まります。信仰なしには、神を喜ばせることはできず、神と和解することもできず、神とともに歩むこともできず、永遠のいのちの栄光に入ることもできません。それは誰もが心に下線を引くべき宣言です。信仰がなければ、神に喜ばれることはできないのです。

行いではそこに至ることはできないという聖書のすべての言葉について、私があなたに思い出させる必要があるでしょうか。あなたの宗教を当てにすることはできません。ローマ人への手紙の第2章は私たちにそう告げています。使徒パウロは、非常に信心深かったユダヤ人たちはその外的な宗教によっては何も得られなかったと言っています。外見上のユダヤ人が本当のユダヤ人ではなく、内面的なユダヤ人がそうなのだと使徒パウロは言います。あるいは、ガラテヤ人への手紙第5章6節におけるパウロの証言の親しみ深い言葉です。「キリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も、──その儀式は──何の意味も持ちません。大切なのは、愛によって働く信仰だけです。」ローマ人への手紙3章によれば、律法の行いによって義とされる肉なる者は一人もいません。信仰のみが神を喜ばせるのです。

私たちは最初に戻るのです。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たものではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」

ですから、神に近づく唯一の道は信じることです。アベルがそうしたように、エノクもそうしたことを私たちは知っています。アベルは神が言われたことを信じました。アベルは、ふさわしい犠牲のために神が与えられた命令に応じました。アベルはその犠牲をささげ、それによって自分の信仰を示し、信仰の生涯に入ったのです。そしてエノクはその物語を引き継ぎ、神への信頼を置き続けながら、その信仰の歩みを歩みました。

人間の堕落した本性は、堕落の第一世代においてさえ、非常に腐敗し、汚れているため、自分自身の力では神に喜ばれることを何一つ行うことができません。ローマ人への手紙8章8節にこうあります。

「肉にある者は神を喜ばせることができません」

神を喜ばせることができないのです。信仰だけが神を喜ばせます。エノクは神を信じました。エノクは自分の救い主、自分の神として神に信頼を置き、それによって神と和解し、神に受け入れられたのです。

それでは、これをもう少し細かく見ていきましょう。ご自分に信仰を置くとはどういうことでしょうか。まず第一に、

「神に近づく者は、神が存在することを信じなければならない」

ということです。これは素晴らしい言葉です。シンプルな言葉ですが、奥深いものです。

「神に近づく者は、神が存在することを信じなければならない。」

どういうことでしょうか。もし私がこの文脈でこの聖句を翻訳するとしたら、イタリック体でいくつか言葉を付け加えたかもしれません──時々、その聖句の中にもいくつかそのような表現が見られますが──私なら「神に近づく者は、神が『おられる方その方である』ことを信じなければならない」という小さなフレーズを付け加えたでしょう。「神」にアクセントを置けば同じ意味になります。神に近づく者は、神が存在することを信じなければならない。これは単に、「ああ、神様がいると信じているよ。ああ、神を信じている、私はとても霊的な人間だ」と言っているのとは違います。神が、おられる方その方、すなわち唯一のまことの神であると信じるということです。どんな神でもよいわけではありません。適当な神でよいわけでもありません。神という観念でよいわけでもありません。それでは不十分なのです。あなたは、神であられるその方を神として信じなければならないのです。

そして、神であられるその方をどのように知るのでしょうか。神の啓示によってです。神ご自身が啓示してくださったのです。人間の歴史のこの初期、歴史の最初の千年期の時点でさえ、神は何度も何度もご自身を啓示しておられました。人々は神がご自身を何者であると主張しておられるかを知っており、エノクはそれを信じたのです。神の概念、神の観念、神の現実、神の存在を信じるだけでは、誰であれ不十分です。神であられるその神を信じなければならないのです。そして私たちにとって、それはさらに明確に定義されています。アブラハム、イサク、ヤコブの神、探して私たちの主イエス・キリストの父なる神を信じなければならないのです。キリストにおいて肉をとってご自身を現された、生けるまことの神を信じなければならないのです。だからこそ、イエス・キリスト抜きで救われることはできないのです。それは神に対する不完全な見方だからです。

今日、「旧約聖書の神さえ信じているなら、持っている情報がそれだけでも十分だ」と言うのは非常に一般的です。しかし、それは十分ではありません。なぜなら、それが神ご自身を現されたすべてではないからです。その啓示の豊かさにおいて、神は三位一体の神であり、イエス・キリストにおいてご自身を現される方です。新約聖書の著者は、神はアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、私たちの主イエス・キリストの父なる神であると言っています。そして、第5節が示しているように、エノクが神と和解したという証、そのあかしはそこから始まります。彼は、ご自身を現されたとおりのまことの神を信じたのです。聖潔と義の神、罪を憎まれる神──それは非常に明確だったはずです──犠牲を、罪のための死を要求される神、人々が自分の力でその道に至ることはできないと明らかにされた神です。

彼はそのすべてを信じました。彼は神がまさにおられる通りの神であると信じたのです。今日、「神を信じるなら、神に対する概念が一神教的であるなら」──これについては私が多くの異なる環境で、人々が救われるためには神が何者であるかについての全貌を信じなければならないという考えを明確にしようと、書き、説教し、語ってきたことですが──そう言うことが非常に一般的であるのは、私を非常に悩ませます。増して私たちにとって、それはイエス・キリストとひとつであられる神をも信じなければならないことを意味します。

パウロは使徒の働き17章のアレテオパゴス(マルの丘)でそれを明確にしています。彼らはそこに「知られない神」への祭壇を建てていました。見過ごされていたかもしれない方に親切にするための、高潔な試みだと彼らは考えたのだと思います。そしてパウロは、「知られない神」についてこう語りました。使徒の働き17章24-26節です。

「この世界とそこにあるすべてのものを造られた神は、天と地の主ですから、人の手で造られた神殿にはお住みになりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられることもありません。ご自身がすべての人に命と息とすべてのものを与えておられるからです。神は一人の人からすべての国の人々を造り出して、地の全おもてに住まわせ、それぞれに定められた時代と、その居住地の境界とをお決めになりました。」

 

彼らはそのことを知っていたはずです。エノクは当然、神が創造主であり、あらゆるものを創造し、維持しておられる方であることを知っていたでしょう。彼はそのことを知っていたはずです。神が義であり、聖なる方であることを知っていたはずです。神が道徳と正義の源であり、報復とさばきの神であることを知っていたはずです。見てください、彼は自分の息子にさばきの預言を込めた名前をつけました。彼はそれらのことすべてを知っており、それらはまことの神を知ることの一部です。しかし、パウロがアレテオパゴスで彼らに語り、啓示が完全ではなかった過去の無知の時代を見過ごされたと述べたとき、その全体像が明らかになります。過去の啓示は真実ではありましたが、完全ではありませんでした。使徒の働き17章30-31節です。

「神は、そのような無知の時代を見過ごしてこられましたが、今はどこででもすべての人に悔い改めるようにと命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の人により、義をもって世界をささばくことにしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」

したがって、人間の肉体をとられた神であり、死者からの復活によってその神性が現され、証証された主イエス・キリストを信じなければ、神のもとに来ることはできません。

ですから、エノクを特徴づける第一の点は、神がご自身を啓示されたとおりのまことの神を信じたことです。繰り返しますが、啓示は漸進的です。彼以降も旧約聖書を通じて啓示が与えられていきました。そして完全な啓示は、新約聖書におけるキリストにおいてもたらされます。ヘブル人への手紙の冒頭、第1章1節と2節でそれを見ました。

「神は、昔は預言者たちによって、多くの部分に分け、また多くの模様で父祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。」

これが完全な啓示の完成です。ですからエノクは、神がご自身について真実として啓示されたことを信じました。彼は、おられる方その方である神を信じたのです。

第二に、彼は神が「ご自分を求める者たちに報いてくださる方」であることを信じました。つまり、神が救い主であり、贖い主であられるということです。彼は、神がご自分を追い求める者に報いを与えてくださると信じました。これはなんと重要な真理でしょう。彼は、神がご自分を求める者に救いを与えてくださる、個人的で、赦しに満ち、愛と恵みに溢れた神であることを信じました。報いを与える方であるとは、そういう意味です。エノクはそのことを知っていました。彼は、何処か遠くにある宇宙的な原因のようなものを信じたのではありません。個人的な交わりを持ち、関係が回復されることを望んでおられる、愛に満ちた個人的で配慮深い神を信じたのです。アインシュタインが語ったような、客観的で知ることのできない宇宙の力といった神ではありません。そのような概念は神をまったく喜ばせません。エノクは、啓示されたとおりの神であられる神を信じ、その神ご自身が、信仰によって来たり、神を求める悔い改めた者を抱きしめてくださる罪人の救い主であることを信じたのです。

ダビデは第一歴代誌28章9節で息子のソロモンにこう言いました。

「もしあなたが彼を求めるなら、彼を見出すことができる。しかし、もしあなたが彼を捨てるなら、彼はあなたを永遠に捨て去られる。」

基本的にはそういうことです。詩篇119篇10節でダビデは言います。

「私は心を尽くしてあなたを求めました。」

箴言8章17節にはこうあります。

「私は私を愛する者を愛する。私を熱心に探す者は私を見出す。」

エレミヤ書29章13節です。

「あなたがたが私を求め、心を尽くして私を訪ね求めるとき、私を見出すことになる。」

これは、キリスト教を世界の中の他のあらゆる宗教から区別する、本当に素晴らしい真理です。他のどの宗教にも、報いを与えてくださる神はいません。他のすべての宗教が持つ神は、罰を与える神であり、無関心で、冷淡で、遠く離れており、宥められなければならず、その基本的な態度が怒りであるような神です。

しかし、まことの生ける神は、罪人であり、自分自身を誇ることができず、神との和解を成し遂げるために何もできず、自分自身では神を喜ばせることができない者たちであっても、ご自分を求める者に報いを与えてくださる方です。詩篇58篇11節にあるとおりです。

「誠に、義人には報いがある。」

あるいは箴言11章18節です。

「義を蒔く者には確かな報いがある。」

言い換えれば、これは神が救い主であられると言っているのです。ヨハネの福音書3章16節の非常に親しみ深いお言葉です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」

ヨハネの福音書3章18節の言葉も付け加えるべきでしょう。

「御子を信じる者はさばかれない。」

さばかれないのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

神は本質的に救い主であられます。第一テモテ4章10節にはこうあります。

「神はすべての人々、特に信じる人々の救い主です。」

これは単に、神がご自分の救いの御意を、共通の恵みと忍耐によって、罪人が当然受けるべき裁きを直ちに下さないことで、一時的にすべての人に示しておられるということです。神は本質的に裁きを控えるお方であることを宣言しておられます。神はご自分を求める者に報いてくださる方なのです。

実際に、神は惜しみなく報いを与えてくださるお方です。マタイの福音書6章33節のあの素晴らしい言葉で、イエスは何とおっしゃったでしょうか。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

あるいは、同じように素晴らしいエペソ人への手紙1章3節の宣言もあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

神は、ご自身の条件に従って来る者たちに惜しみなく報いを与えてくださいます。赦しを与え、新しい心を与えてくださいます。聖霊、永遠のいのち、祝福、あわれみ、恵み、平安、喜び、愛、天国、悪に対する力を与えてくださり、それらすべてがそこに用意されています。

ちなみに、ヨハネの福音書6章37節にはこう書かれています。

「私のもとに来る者を、私は決して追い出しはしない。」

決して追い出されません。しかし、イエスを通して来なければなりません。ヨハネの福音書14章6節です。

「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰も父のもとに来ることはできません。」

使徒の働き4章12節は、イエス・キリストの名以外に救いをもたらす名は他にないことを教えています。ですから、信仰の歩みは、神がおられる方その方であることを信じ、ご自分を求める者に報いてくださる個人的な救い主であることを信じることから始まります。神がエノクを喜ばれたのは、彼の行いゆえではなく、神がどのようなお方であるかに対する彼の何ゆえでしょうか。信仰ゆえです。

少し前に戻って、創世記で見たことを考えると、この結果としてエノクの人生に現れたのは、彼が「神とともに歩んだ」ということでした。すでに見たように、「彼は神とともに歩んだ」と二度書かれています。そしてヘブル人への手紙第11章5節の終わりには、「彼が神に喜ばれていた」と書かれています。彼は神に喜ばれていました。これが彼の人生全体のしるしでした。素晴らしいことです!彼の人生全体です。

冒頭で申し上げたように、彼は非常に腐敗した時代に生きていました。私たちには想像もつかないような腐敗の時代だったかもしれません。堕落した存在として70年生きるだけでも十分に大変ですが、300年生きるとなるとどうでしょうか。どれほどの罪の記録が積み重なるでしょうか。どれほどのレベルで腐敗にさらされることになるでしょうか。

皆さんについてはわかりませんが、私は年を重ねるほど、天国がより甘美なものに思えてきます。金でできた街路や宝石で飾られた蝶番、真珠の門などに強く惹かれているわけではありません。それらを見るのも素晴らしいことでしょうが、天国の最大の魅力は「罪が存在しないこと」です。それこそが魅力なのです。ますます腐敗していく世界にさらされながら、300年以上も生きることがどのようなものか、私には想像もつきません。

「でも、当時が今日ほど悪かったわけではないでしょう」と言うかもしれません。いいえ、イエスが来られるときはノアの日のようになると書かれています。イエスご自身が、ご自身の再臨についての説教の中でそうおっしゃいました。本当に何の違いもありません。「自分の子供たちがこの世界で70年生き抜いていけるだろうか」と心配になるかもしれませんね。

エノクはどう感じていたと思いますか?彼は365歳で、まだ若造(ひよっこ)です。彼にはたくさんの子供がいました。彼がエノク夫人に何と言っていたと思いますか。「ああ、この腐敗した文化の中で、子供たちはあと750年もどうやって持ちこたえるのだろう。とても無理だ。世界が向かっている方向を見てごらん」と。彼らもまた、自分たちの指導者が誰であれ恐怖を感じていたはずです。私たちが現在の指導者たちに恐怖を感じているのと同じように。どの世代にも、それぞれの形態の政府と指導者が存在していたのです。

 

彼の歩みを少し分解して──もし可能なら、その歩みの要素について説明させてください──神とともに歩むことの意味を構成するいくつかの要素があります。

第一に、それは和解を前提としています。和解を前提としているのです。アモス書3章3節にこうあります。

「ふたりの者が同意せずに、どうして共に歩くだろうか。」

これは、コリントの信徒への手紙の中でパウロが「どうして二人が同意せずに共に歩めるだろうか」と述べていることにも引き継がれていますよね。神がサタンとどのように交わりを持てるでしょうか。それは不可能です。

したがって、二人が共に歩むことは同意を前提とし、調和を前提とし、和解を前提とし、それゆえに救いを前提としています。エノクは救われた人です。そのように言うべきでしょう。彼は罪から救われました。救いが与えられたのです。彼は神とともに歩んでおり、それは神がもはや彼の敵ではなく、彼がもはや反逆の中にいるのではなく、神と和解したことを意味しています。神が彼に合わされたのではなく、彼が神と和解したのです。彼は神の恵みによって神の絶対的な条件を満たし、同意のもとに歩んでいます。エペソ人への手紙4章の言葉を借りるなら、「もはや自己中心的でなく、空虚な考えを持たず、無知でなく、恥知らずでなく、神に対して死んだ状態ではない」のです。

誰かと一緒に歩むことについて話すときに思い浮かぶ第二の点は、和解だけでなく、対応する性質(共通の性質)を持つということです。対応する性質とはどういう意味でしょうか。多くの方が犬を飼っておられ、犬にとても情を寄せることは知っています。私も試してみたことがあります。しかし、私とどのような犬との間にも巨大な溝が存在します。どんな犬を選んでも同じです。私は犬と意味のある会話をしたことがありませんし、猫とならなおさらです。このような動物たちに夢中になっている人々を見かけます。本当に、完全に夢中になっているのです。私には理解できません。私には犬と共有できる対応する性質がありません。犬は単にエサと後始末を要求するだけで、それだけです。私は犬と交わりを持つことができません。

「まあ、私は犬に話しかけますよ」と言うかもしれません。いいえ、あなたは犬と会話をしてはいません。話しかけることはできても、犬はあなたが何を言っているのか全く理解していないと断言できます。対応する性質が必要なのです。私たちが共有する共通の能力を持たない限り、私は神とともに歩むことはできません。そして、それこそが救いが成し遂げる素晴らしい現実なのです。救いは私たちを神と和解させるだけでなく、その和解において神はご自身の性質を私たちに分け与えてくださいます。私たちは新しくされるのです。パウロの言葉に戻れば、光は闇と交わりを持ちません。罪人は神とともに歩むことができず、共通のいのちを持っていません。私が金魚と友達になることは不可能です。性質に違いがあるからです。それが可能性を排除してしまうのです。これらのことがすべて述べられている第二コリント6章14節から16節を読み返してみる必要があるかもしれません。

第三に、神とともに歩むことは、和解や対応する性質だけでなく、道徳的な適格性も前提としています。神は誰とでも一緒に歩むわけではありません。これもまた第二コリント6章に出てきます──何度も言及しているのでお読みした方がいいかもしれません──そこには非常に明確にこう書かれています。

「不信者と、不釣り合いな軛を共にしてはなりません。正義と不法に、どのような交わりがあるでしょうか。」

神は絶対的に義であられ、罪人は絶対的に不義であり不法です。ですから、その道徳的品性が変化するという劇的な何かが起こらない限り、不法な人や不義な人が神とともに歩むなどということは想像できません。ちなみに、神は聖さの道から外れることは決してありません。あなたが不聖さの中に生きているからといって、寄り道をしてあなたに合わせるようなことはされません。神は常に聖さの道にとどまられます。第一ヨハネにあるように、

「神は光であり、神には暗いところが少しもありません。」

神は決して悪を行われません。預言者が言ったように、神は純潔すぎて悪を見ることができないお方です。神は聖さの道から外れることがありません。ですから、もし私たちが神とともに歩もうとするなら、どうすべきでしょうか。私たちは聖さの道に入らなければなりません。

旧約聖書を読むと、神がイスラエルの陣営を通って歩まれる前に、汚れたものはすべて象徴的に取り除かれなければならなかったことを思い出されるでしょう。将来、キリストが千年王国を開始される前には、つまずきとなるすべてのものが地上から消し去られます。聖なる神は、汚れた者と同伴されることはありません。したがって、私たちが神とともに歩むことができる前に、神の前でどのような者とみなされなければならないでしょうか。「義なる者」です。転嫁された義(義認)という概念を新約聖書の概念だと考えるかもしれませんが、それは旧約聖書の概念でもあったはずです。なぜなら、エノクをはじめ、ノアやアブラハム、その他の神とともに歩んだ誰もが、義で覆われていなければ神は彼らと交わられなかったからです。神は、ご自身と同伴するすべての者がその義に服従することを要求されます。

これはもう一つのことも意味していると思います。それは交わりへの願い(渴望)を意味しているということです。交わりへの願いを意味しています。最近、ある牧師が人々から送られてきた質問に答えているのを見ていました。質問の一つは、ある女性からのもので、「私は何年も教会に行っていません。もう教会には行きません。クリスチャンではありますが、教会が好きではなく、自分にとって何の足しにもならないようです」というものでした。そして彼はそれに対して答えを与えました。彼が与えた答えには適切な応答が含まれており、それはヘブル人への手紙に導いてこう言うことでした。

「ある人たちの習慣にならって、ともに集まることをやめたりせず、愛と善行を促し合うために互いに励まし合いなさい。」

なぜ教会に行くのでしょうか。義務だからでしょうか。違います。愛と善行を促されるような環境に身を置きたいからであり、自分の人生が主への従順によって特徴づけられるなら、主との甘美な交わりを楽しむことができると知っているからです。皆さんについてはわかりませんが、私は主と対立したくありません。懲らしめの場所から出て、祝福の場所へと本当に入りたいのです。あなたもそこにいたいと思いませんか。

 

エノクは300年間、神とともに歩みました。彼はその生涯の300年間、信者であったのです。そして、彼が神との親密な交わりの中を歩んでいたことが暗に示されています。救いは永遠(永続的)なものであるため、それは当然のことと言えるでしょう。しかし、彼が神に喜ばれていたということから、私はそれ以上の意味があると考えています。神を喜ばせることは、心の中の強い願い(願望)でなければならないと思います。朝ベッドから這い出して、適当に過ごした結果として神を喜ばせることなどできません。それは意図的なものであり、自ら追い求めるものであり、情熱なのです。そこで重要になってくるのが「恵みの訓練」です。新約聖書では、これをよく「御霊によって歩む」と呼んでいます。新約聖書における私たちの歩みを細かく見ていくと、御霊によって歩むようにと命じられています。

ヨハネの手紙 第三の4節では、真理によって歩むようにと言われています。ローマ人への手紙13章13節では、品格をもって(誠実に)歩むようにと言われています。エペソ人への手紙5章2節では、愛のうちに歩むように。エペソ人への手紙5章8節では、光の子として歩むように。エペソ人への手紙5章15節では、知恵をもって歩むように。エペソ人への手紙2章10節では、聖さのうちに歩むようにと言われています。これこそがエペソ人への手紙4章1節にある「ふさわしい歩み」であり、神との甘美な交わりです。そして私たちにはその手本があります。それは他ならぬ私たちの主イエスです。第一ヨハネ2章6節にはこう書かれています。

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」

そしてイエスは、ご自身の父との完璧な交わりのうちに歩まれました。これこそが私たちの信仰の歩みであり、エノクはその模範であったのです。

さて、考えをまとめていくにあたり、エノクについて述べるべきことがもう一つあります。世界全体が滅ぼされるような破壊的な裁きへと向かって没落しつつある腐敗した社会に住んでおり、あなた自身が敬虔な人物であるなら、自分の周りで起こっていることに対して関心や懸念を抱かずにはいられないでしょう。疑いようもありません。本当に敬虔な人は、社会の悪をただ黙って受け入れるようなことはしません。そこで、私たちはエノクについて知っておくべき非常に重要な事実を、ユダの手紙の中に見出すことができます。それはヨハネの黙示録の陰にひっそりと置かれた小さな手紙、ユダの手紙です。そこにはエノクについての実に興味深い記述があります。なぜなら、彼が説教者(預言者)であったことを教えてくれているからです。これは素晴らしいことです。彼がその時代で最高の人物であったなら、彼が説教者となることは彼自身にとっても、また神にとっても素晴らしいことだったはずです。

ユダの手紙の14節において、ユダは偽教師や偽預言者たちについて書いてきました。そして14節でこう述べています。

「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言いました。『見よ、主は数千の聖徒たちを従えて来られた。すべての人に裁きを行い、不虔な者が不虔な仕方で行ったすべての不虔な行いと、不虔な罪人たちが主に対して語ったすべての暴言について、彼ら全員を責め立てるためである。』」

彼は典型的な預言者だったと思いませんか。何しろ、たった一つの文の中で「不虔(神を敬わないこと)」という言葉を4回も使っているのですから!

 

ところで、この引用は旧約聖書には登場しません。これはエノクが預言したことです。聖霊がユダを導き、エノクから出た正当な預言としてこれを書き記させたため、彼がこれを預言したことは明らかです。旧約聖書にないとしたら、彼らはどのようにしてそれを知ったのでしょうか。そこには多くの口承(口伝)が存在していました。何世代にもわたって語り継がれた多くの口承があり、エノクはユダヤ人にとって英雄でした。彼は神とともに歩んだ人物であり、そのまま天へと歩み入った人物でした。彼らはそのことを知っていたのです。彼は彼らの記録において、敬虔さの頂点に立つべき人物でした。

彼らはエノクを深く敬意をもって尊んでいました。そのため、彼の預言を定義づける彼の言葉を守り伝え、やがて何世紀にもわたって口頭で伝えられた後、文字として書き記されました。そして、それは私たちが偽典と呼ぶ『第一エノク書』という書物に書き残されたのです。ユダヤ人たちはそれをよく知っていました。ここでの裏付けは、それが正確な引用であったことを示しています。記録されたすべてが正確だったわけではありませんが、これは正確でした。では、彼の時代に対するメッセージとは何だったのでしょうか。彼が300年間にわたって語ったこととは何だったのでしょうか。彼はこう言いました。「主は来られる。数千の聖徒たちを従えて来られる。」そして「主は裁きを行おうとしておられ、それはすべての不虔な者たち、不虔な仕方で行われた彼らのすべての不虔な行い、そして不虔な罪人たちが主に対して語ったすべての暴言の上に下るのだ」と。彼は裁きを宣べ伝える説教者(預言者)だったのです。

敬虔な者の最高峰に行き着く人物とは、まさにそのような者だと私は思います。もしエノクが今日生きていたとしたら、世界にとってだけでなく、教会にとっても厄介な存在になるでしょうね。「シーカー・センシティブ(求道者配慮型)」のグループをイライラさせることでしょう。しかし、ここにいたのは、その品性と神との歩みが説教の力となって表れた人物であり、彼の説教とは裁きについてのものだったのです。なぜでしょうか。裁きが近づいていたからです。それは彼の息子であるメトシェラの名にも込められていました。そしてそれは洪水となって成就しました。しかし実のところ、これは洪水の預言ではありません。洪水についての預言ではなく、主が何千もの御使いたちとともに来られる最終的な裁きの預言なのです。これはキリストの再臨についての預言であり、人類の歴史の終わりについての預言なのです。

彼ははるかかなたの未来を見つめていたのですね。彼は裁きが来ることを宣べ伝えました。彼はその裁きを目にすることはありませんでした。洪水を見ることもありませんでした。最終的な裁きを目にすることなど勿論ありませんでしたが、それが来ることを知っており、それを宣べ伝えたのです。彼がどこか新約聖書の信仰者に少し似ていると考えるのは非常に興味深いことです。裁きは来ますが、新約聖書の信仰者は裁きが下る前に空中に引き上げられます。彼は一種の「大艱難前携挙」の雛形なのです。そしてそれは、主が来られる最後の裁きという大破滅の直前における、世界中のある世代の信仰者たちが体験することとなります。主は世界中から信仰者たちを引き上げられるのです。

この聖句、第一テサロニケ4章13節から17節を読むことで、締めくくるのに良い区切りとなるかもしれません。

「兄弟たちよ。眠っている人々については、あなたがたに知らずにいてもらいたくありません。望みを持たないほかの人々のように悲しまないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それと同じように、神はイエスによって眠りについた人々をも、イエスとともに連れて来られるはずです。」

死んだ人々のことを心配する必要はありません。彼らは栄光の中にいるからです。しかし、主の来臨まで生き残る私たちについてはこう書かれています。

「主ご自身が、号令と御天使の頭の声と神のラッパの響きとともに天から下って来られます。すると、キリストにある死者がまずよみがえり、」

すでに栄光の中にある霊と合一するために、死んだ人々の体が墓から出てきます。そして、

「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、」

まさにエノクのように引き上げられるのです。世代全体が「エノクたち」となるのです。

第一コリント人への手紙第15章でパウロが述べているとおりです。

「たちまち、一瞬のうちに」

そして大天使の声と神のラッパの響きとともに。何百万ものエノクたちが、一瞬にして地上から姿を消すのです。そしてその後、裁きがやって来ます。ですから非常に現実的な意味において、彼は天国の約束の模範であり、さらには裁きからの特別な救い(救出)の約束の模範でもあるのです。彼の中に、第一に「神とともに歩むとはどういうことか」という模範を見ることが、私たちにとっていかに重要であることでしょう。ご一緒にお祈りしましょう。

主よ、私たちはあなたの御言葉の素晴らしさを汲み尽くすことなど、到底できないように思われます。私たちは今回も驚きはしませんが、その一致性、一貫性、明瞭さにただ圧倒されるばかりです。私たちがどれほど深くそれを吟味しようとも、どれほど攻撃的にその言葉や真理に挑もうとも、どれほど関連づけ、相関させ、分析しようとも、これが一人の著者によって書かれたものであるという結論に、避けることなく導かれることを感謝いたします。その一貫性は神的なものであり、あなたとともに歩んだ一人の人間の記録を私たちに与えてくださったことを感謝いたします。

私たちはこの世界においてわずか70年ほどの時間しか与えられていないかもしれませんし、私たちのうちの何人かはそれよりもはるかに短いかもしれません。また、人生の後半になるまで、あなたを知り、あなたを喜ばせ、あなたとともに歩むに至らなかった者もおります。私たちに残されたどのような時間であれ、私たちについて「彼は神とともに歩んだ」と言われるものとなりますように。エノクの場合がそうであったように、それが繰り返して語られるほど明確なものとなりますように。イエスとともにいたことが見て取れた初期の弟子たちのように、私たちが明らかにあなたとともに歩んでいるゆえに知られる者となりますように。私たちにこの親しい交わり、この交わりを与えてくださっていることを感謝いたします。あなたの臨在の現実を楽しむことができるよう、私たちをお助けください。キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

Enoch: The Walk of Faith より翻訳