空っぽの言葉

今日、私たちは「山上の説教」を締めくくるという、素晴らしくもどこか寂しさを覚える特権を与えられています。素晴しいと言うのは、この説教がクライマックスを迎えるのを目にするからであり、寂しいと言うのは、語り尽くせたとは到底言えないのではないかという恐れがどこかにあるからです。しかし、主のお導きのままに進んでいきましょう。

聖書を開き、マタイによる福音書の第7章をご覧ください。本日、つまり今朝とそして今夜の私たちのテキストは、21節から29節までです。マタイの福音書7章21節から29節です。今日の学びに向けた情景として、ここをお読みします。神の御霊が、この素晴らしい真理を通して私たちに語りかけてくださるようにとお祈りいたします。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御こころを行う者が入るのです。その日には、多くの人が私に言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行わなかったでしょうか。』しかし、その時、私は彼らに決定的に告げます。『私はあなたがたをまったく知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。』

ですから、私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけましたが、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

また、私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、家は倒れました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として彼らを教えておられたからである。

さて、「山上の説教」全体を通して、すなわち第5章、6章、7章において、主はご自身の御国の神聖な基準を提示してこられました。油注がれたメシア、キリスト、王として、主は御国に入りたいと望む者に要求される特定の原則を定められたのです。それらの原則がこの説教の主眼を占めていますが、それらはすべて一つの言葉に要約することができます。御国に入るための条件、それは「義」であること、すなわち正しいことです。したがって、説教全体は5章20節に要約されています。

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天の御国に入ることはできません。」

 

天の御国とは、神の領域であり、神の統治、救い、永遠のいのちのことです。そして、その御国に入ることができるかどうかは「義」にかかっています。では、私たちはどれほど正しく(義で)なければならないのでしょうか。私たちは、律法学者やパリサイ人よりも正しくなければなりません。では、彼らはどれほど正しかったのでしょうか。彼らは、人間が自力で達し得る限りの正しさに達していました。宗教における人間の到達点、その極致にまで至っていたのです。彼らは宗教的な行いに没頭していました。周りの人々から見れば、彼らはきわめて深い義の存在でした。祈り、施しをし、断食をするといった正しい行為をすべて行っているように見えました。また、殺人を犯さず、姦淫を犯さず、律法の「一点一画」に至るまで細かく守るという、正しい基準をすべて備えているように見えました。彼らこそがこの上なく正しい者たちであるかのように思われましたが、キリストが要求される義は、彼らの義をはるかに超えるものなのです。実際、私たちの主は人間の能力を超えた義、すなわち神から来る神聖な義、人間自身では絶対に到達できない基準を要求しておられます。

実のところ、どれほど正しくなければならないかを知りたいのであれば、5章48節を見るだけで十分です。ここで私たちの主はこう言われています。

「それゆえ、あなたがたは完璧でなければなりません――」どれほど完璧なのでしょうか。「――あなたがたの天の父が完璧であられるように、完璧でありなさい。」

私たちは義でなければなりません。どれほどでしょうか。最も正しい人たちよりも正しくなければなりません。私たちは完璧でなければなりません。どれほど完璧なのでしょうか。神が完璧であられるのと同じくらい完璧でなければなりません。

もしあなたがこのメッセージを本当に聞くならば、ある一つの事実に直面することになります。それは、自分にはこの基準に従って生きることはできないということです。自分だけの力で、最も正しい人々よりも正しくなることなど不可能です。なぜなら、最も正しい人々というのは、人間が自力で到達できる極限まで正しい人々だからです。人間はそれ以上正しくなることなどできません。また、あなたは人間である以上、神と同じように完璧になることなどできません。

ですから、この説教全体を通して、イエスは神の御国に応じるための人間自身の力(リソース)がいかに不十分であるかを人々に示そうとされています。彼らには自力でたどり着くことができません。したがって、この説教の狙い全体は、私たちの主が冒頭で語られたまさにその地点へと人々を連れて行くことにあるのです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。へりくだった(柔和な)者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」

言い換えるなら、主は冒頭でこう言われたのです。「わたしの御国に入る者とは、自分自身の義では到底及ばないことを知っている者、全き完璧さという基準が自分の能力をはるかに超えていることを知っており、それゆえに霊において乞食(貧しい者)となっている者たちである」と。自力で勝ち取ることはできないため、乞い求めなければならないのです。彼らは自らの中に見出す徹底的な罪深さゆえに悲しみます。神の基準からあまりにかけ離れていることを知っているため、へりくだり、柔和であり、自分では決して到達できない義に飢え渇くのです。

したがって、「山上の説教」の目的は、旧約聖書における神の律法の目的と全く同じです。神がシナイ山で律法を与えられたとき、それは人間がいかに善良でなければならないかを示すためではありませんでした。律法が与えられたのは、人間がいかに善良になれないか、いかに悪であるか、そしていかに神の基準に届いていないかを示すためだったのです。パウロは次のように述べて、それを要約しました。

「すべての人は罪を犯したため――」何に届かないのでしょうか。「――神の栄光に届かない。」

そしてパウロは、「律法は私たちをキリストへと導く養育係(指導員)であった」と言っています。律法とは、私たちを鞭打つものでした。そして、それこそが「山上の説教」で起こっていることの本質なのです。イエスは神の律法を擁護しておられます。実際、説教の最初の部分でイエスはこう言われました。

「律法から一点一画も消え去ることは決してありません。わたしは律法を廃棄するため、あるいは打ちこわすために来たのではなく、成就するために来たのです。」

イエスは神の律法を再確認し、「基準は変わっていない。あなたがたがいかに及ばないかを悟り、それゆえに哀しみ悼む者として霊において乞い求め、神の前で柔和となり、神の義に飢え渇きなさい」と言っておられるのです。

このことは、人間に二つの選択肢を突きつけます。自分自身の人生を生き、自作の宗教を発明するか、それとも神の道に来るかです。自分の条件で来るか、神の条件で来るかです。そして、まさにその点こそが、第7章13節と14節において説教がクライマックスを迎えるところなのです。そこで私たちの主はこう言われます。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていく者が多いからです。命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はわずかだからです。」

イエスは、その二つの道しかないと言われます。広き門があり、それは広い道に通じ、最後は滅びに行き着きます。それはイージーな(易しい)宗教の道であり、人間の自己義の道であり、律法学者やパリサイ人、そして「自分は自力で十分正しい」と思っている者たちの道です。

その一方で、狭い門と狭い道があり、それは命に至ります。それは打ち砕かれた心と痛悔する霊をもって来る者たち、自分では到底到達できないことを知っている者たちの道です。彼らは神の律法を守ることができず、その基準を満たすこともできず、神のように完璧であることもできません。だからこそ、ご自分の義を彼らに転嫁(転嫁・付与)してくださるイエス・キリストの憐れみに全幅の信頼を寄せる(身を投げ出す)のです。

存在するのはその二つの道だけであり、それこそがこの説教のクライマックスです。

狭い門から入りなさいというこの大いなる招きを告げた上で(これについては詳細に学びましたが)、主はそれがどれほど真に困難なことであるかを示されます。それは決して容易ではありません。クリスチャンになるのが簡単だと言う人の言葉を信じてはなりません。神はご自身の御子を含め、あらゆるものを支払われました。そして、あなたにとっても、自分自身を含め、同じだけのコストがかかるのです。簡単なことではありません。

 

そして、私たちに「安易な信仰主義(イージー・ビリービズム)」や「安価な恵み」を提供しようとする者たちは、私たちにとって何の恩恵にもならず、かえって私たちを欺いています。神の条件に従って神のもとへ来ることは困難です。第一に、自分自身の完全な無力を認めなければならないため困難なのです。そしてそれは「プライドの死」を意味しますが、私たちは自分自身こそが最も大切な存在であると絶えず教え込まれているため、非常に難しいことなのです。

さて、主は13節と14節において、狭い門に入ることの難しさを明確に指摘しておられます。まず第一に、14節にはこう書かれています。

「それを見出す者はわずかだからです。」

ここで「見出す(探す)」という言葉が重要です。狭い門に入るのが難しいのは、それを見出さなければならないからであり、これには探求、模索、検証、そして努力が伴うことを意味しています。旧約聖書にこうある通りです。

「あなたがたが心を尽くしてわたしを尋ね求めるなら、わたしを見出す。」

誰ひとりとして、たまたま歩いていて思わず神の御国に転がり込むようなことはありません。それは探し求めるものであり、簡単に目に見えるものではないということを意味しています。

第二に、ただ見出さなければならない(厳しく熱心な捜索を意味する)から難しいというだけでなく、他のすべての人々が進んでいる方向とは逆の道であることを意味するから困難なのです。多くの者が広い門から入っていき、わずかな者だけが狭い道を進みます。ヤコブが次のように言った通りです。

「世との友愛は、神への敵対です。」

また、ヨハネがこう言った通りです。

「もしだれかが世を愛しているなら、父の愛はその人のうちにありません。」

言い換えるなら、狭い門に入るためには、この世のシステムから離れなければならないのです。群衆が反対方向へ向かっているからこそ困難なのです。

また、それが狭い門であるからこそ困難です。つまり、あなた自身、あなたの罪、あなたの自己義認をすべて脱ぎ捨て、素っ裸(何も持たない状態)で通らなければならないことを意味します。あなたは完全に一人で通過します。集団で通ることも、家族で通ることもできず、一人で通るのです。それは制限された道であり、狭い人生(狭い歩み)になることを覚悟し、コスト(代価)を計算しなければなりません。

さらにイエスは、見つけるのが難しく、群衆から離れており、狭い門であるから困難であるだけでなく、そこに入るために苦闘(葛藤)しなければならないから困難なのだと、ルカによる福音書で語られました。つまり、痛悔、告白、悔い改め、魂の吟味、そして心の打ち砕かれが必要なのです。

そして前回の学びで、私たちが狭い道に入ることが困難であるもう一つの理由、すなわち自分では到達できないこと、神の基準を満たせないこと、必要なほど完璧にはなれないことを認めるのが難しいもう一つの理由を見ました。それは15節にある「偽預言者たち」の存在です。15節から20節にかけて、主はこう言われています。

「偽預言者たちは障害の上にさらに困難を付け加える。彼らは道に立ちふさがり、人々を広い道へと追いやるからである。」

彼らはサタンの目的と企てのためにすべての人を惑わそうとし、自分の罪や利己心をすべて持ったまま広い門を通ることができ、大きな広い道で右へ左へとふらふら迷い歩くことができ、払うべき代価などほとんどないのだと人々に語りかける者たちです。

このようにして、主は選択と決断を促しておられます。しかし主は、正しい決断とは狭い門に入ることであり、それは決して容易ではないと言われ、こう付け加えられます。

「それを見出す者はわずかだからです。」

皆さん、この「わずか」という言葉に注目してください。多くではなく、わずかなのです。そして、その「わずか」が単にわずかでしかない理由がもう一つあります。偽預言者たちの欺きだけでなく、これを聞いてください、「自己欺瞞」です。自己欺瞞が、人々を狭い門から遠ざけているのです。

J・C・ライル司教はこう書いています。「主イエスは、心に刺さるような適用(命題)の文章をもって『山上の説教』を締めくくっておられる。主は偽預言者から偽りの告白者(告白する者)へと、健全でない教師から健全でない聞き手へと目を向けられる。」そして注解者のタスカーはこう付け加えています。「狭い道を見出すのを困難にしているのは、ただ偽教師たちだけではない。人が自分自身を著しく欺いているということも、その困難さを増しているのだ。」言い換えるなら、偽預言者だけでなく、私たち自身も「自分はクリスチャンだ」と思い込んで自分を欺くことがあり得るということです。実際にはそうではないにもかかわらず、です。

さて、まさにこの問題こそが、主が21節から27節で取り上げておられる「自己欺瞞」なのです。そして、なんとふさわしい説教のクライマックスでしょうか。すべての原則を提示し、偽預言者について警告された後、主はこう言われます。「さあ、もう一つ警告しておこう。自分が自分自身を欺いて(自惚れて)いないか確かめなさい。あなたは本当に天の御国のまことの民なのだろうか。」そして主は、二つのタイプの自己欺瞞について私たちに警告しておられます。第一は「単なる口先だけの告白」であり、第二は「単なる知性的な知識」です。

21節から23節で扱われているのは、口先だけの告白です。21節には「言う者がみな……ではない」、22節には「多くの人が私に言うでしょう」とあります。これらは口先だけの告白をする人々、自分はクリスチャンだと言っている人々のことです。そして第二の段落で扱われているのは、知性的な知識しか持っていない人々です。彼らは「聞く」のです。26節には「これらの言葉を聞いて……者」とあります。聞いてください。つまり、21節から23節には「言って行わない人々」がおり、24節から27節には「聞いて行わない人々」がいるのです。それこそが問題であり、彼らは欺かれています。

一方では口先だけの告白であり、他方では知性的な知識です。私はこれを「空っぽの言葉と空っぽの心」と呼んでいます。そしてそれこそが、本日の学びで私たちがお話ししたいことなのです。これらは自己欺瞞の問題を扱っており、ジョン・ストットが述べているように、単なる口先だけの告白や単なる知性的知識は「不従順のカムフラージュ(偽装)」に過ぎないのです。

さて、21節の終わりに重要な言葉があることにお気づきになるでしょう。

「ただ、天におられる私の父の御こころを行う者だけが入るのです。」

入るのは「言う者」でも「聞く者」でもなく、どんな者でしょうか。「行う者」です。言い換えるなら、主はこう言っておられるのです。「もしあなたが義の生活を送っていないのであれば、あなたが何を言おうが、何を聞こうが、わたしは気にかけない。あなたは欺かれているのだ。」

これは非常に、非常に強い言葉です。神の御霊が語りかけられるとき、どうぞ耳を傾けてください。締めくくりの二つの段落、すなわち21〜23節と24〜27節のどちらも、キリストの招きに対する正しい応答と誤った応答を対比させており、私たちの永遠の行き先が自らの下す選択によって決定されることを示しています。一つは、先ほど言ったように「行うこと」に対する「言うこと」を扱い、もう一つは「行うこと」に対する「聞くこと」を扱っています。

このことを心に留めておいてください。主は宗教に関心のない人々に語っておられるのではありません。主は文字通り宗教的活動に没頭していた人々に語っておられます。彼らは背教者ではなく、異端者でもなく、神に敵対する者でもなく、無神論者や不可知論者でもありません。彼らは徹底的に宗教的な人々ですが、間違った道におり、自らを惑わしているがゆえに滅びに向かっている(罰せられる)のです。彼らの自己欺瞞は偽預言者のもとに座した結果かもしれませんし、あるいは実際に真理のもとに座しながらも自分自身を惑わしたのかもしれません。彼らはパウロが「敬虔の形はあっても、その実質(力)を否定していた」と語ったイスラエルの民と大差ないのです。

 

皆さん、私はこのメッセージこそ今日語られるべきメッセージだと真に信じています。なぜなら、イエス・キリストの教会は、クリスチャンではないのに自分はそうだと思い込んでいる人々で文字通り満ちあふれていると確信しているからです。世界中で20億人の人々がクリスチャンであり、20億人がそうではないといった統計を耳にするとき、「一体全体だれがその基準を立てたのだろうか」と疑ってしまいます。聖書が言っているのはそのようなことではありません。聖書は「多く」と「わずか」と言っているのです。

ギャラップ社が世論調査に従って「アメリカの人口の52%がボーンアゲイン(新しく生まれた)クリスチャンである」と言うとき、それは聖書と整合性が取れません。そして、「ボーンアゲイン・クリスチャンである」というアンケートの項目に署名したからといって、本当に自分がボーンアゲイン・クリスチャンであるという妄想の中に誰が生きようとするでしょうか。確かにイエスは、「自分は御国に入っている」と思っている多くの者が入っておらず、入っているのはわずかな者だけだと言っておられます。皆さん、これこそが究極の欺きです。多くのことについて思い違いをする(欺かれる)ことはあっても、自分がクリスチャンであるかどうかについて欺かれるというのは、まさにあなたの永遠の行き先(運命)に関わることです。ですからイエスは、「非常に注意深く吟味しなさい」と言っておられるのです。

ここグレース・コミュニティ・チャーチの中にさえ、正しい宗教に繋がってはいるものの、キリストによる神の義を全く欠いている人々があらゆるタイプで存在していると私は確信しています。教会の中には、イエスというムーブメント(流行り)に乗り、「すべては順調だ」と思い込んでいる欺かれた人々の群れがおり、彼らにとって裁きとは一つの大きな驚きとなるでしょう。率直に言って、彼らの勘違い(欺き)を解くには、私たちの主によるこの説教以上に適した方法はありません。

さて、欺かれているこれらの人々の一部は偽預言者であると私は信じています。偽預言者の中には、自分が偽物だと自覚していて欺かれてはいない者もいると思います。しかし、彼らのうちの何人かは、おそらく自分自身をも欺いている(自己欺瞞に陥っている)ため、このグループの中に混ざっているのを見るでしょう。しかし、21節以降にある「多くの人」とは、単に偽預言者だけを指すのではなく、自分が本当に救われている(贖われている)かどうかについて自分自身を惑わし、欺かれているすべての人々のことです。

時間が非常に限られているため、詳しく触れる時間はありませんが、聖書は文字通り、欺かれている人々に対する警告で満ち満ちています。もう一つだけ例を挙げさせてください。マタイの福音書25章です。これは非常に似ており、イメージが掴めると思います。そして、これほど多くの警告が存在する理由は――よく聞いてください――欺かれている人々があまりにも多いからです。

「その日には、多くの人が私に『主よ、主よ』と言うでしょう。そして私は『私はあなたがたをまったく知らない』と言うのです。」

わずかな人でも、隔離された特定の集団でもなく、「多くの人」なのです。そして、欺かれている人がそれほど多いため、数多くの警告が発せられています。マタイの福音書25章1節にはこうあります。

「そこで、天の御国は、それぞれ灯火を持って花婿を迎えに出る十人の娘に例えることができます。」

もちろん、娘たちはキリスト教に関わっている人々を象徴しており、花婿はキリストを象徴しています。

「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。」

これは、岩の上に建てた人と砂の上に建てた人のようなものです。

「愚かな娘たちは、灯火は持っていたが、油を持って来ていなかった。」

言い換えるなら、彼らは敬虔の形は持っていたものの、その実質(力)を持っていなかったのです。彼らは必要なものを持っておらず、その核心を持っておらず、救いを持っておらず、ただ「教会主義(形だけのキリスト教)」を持っていただけでした。

「しかし、賢い娘たちは、自分たちの容器に灯火とともに油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。しかし夜中に、『そら、花婿だ。出迎えに行きなさい』という叫び声がした。」

 

「そこで、娘たちはみな起きて、自分の灯火を整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちの灯火が消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、私たちとあなたがたの分には足りないでしょうから、それより売っている店に行って自分のために買いなさい。』彼らが買いに行っている間に花婿が到着し、準備ができていた者たちは彼とともに結婚の披露宴に入り、戸が閉じられた。その後、残りの娘たちも来て言った。『主よ、主よ、あけてください。』しかし、花婿は答えて言った。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』」

さて、ここには非常に類似したテキストがあります。マタイによる福音書第7章に戻りましょう。これは同じことを語っています。人々が戸が開かれることを期待しているのに、彼らの目の前で永遠にピシャリと閉ざされる日がやって来るのです。「わたしはあなたがたを知らない。」なんと恐ろしいことでしょう。あまりにも多くの人々が自分は救われている、自分は安全だと思い込んでおり、彼らにとって裁きとは衝撃的なものとなるのです。

一体何が人々をそのような欺きへと誘い込み、自分は救われていると本当に思い込ませてしまうのでしょうか。いくつかの理由(示唆)を挙げてみましょう。

第一に、多くの場合、彼らが「偽りの確信(救いの確信についての誤った教理)」を持っているからだと私は考えています。言い換えるなら、あなたがキリストに導かれたとき、誰かがこう言ったと仮定してみましょう。「さあ、あなたがクリスチャンになるためにすべきことは、この短かなお祈りを捧げ、決まったフレーズを特定の文言に基づいて口にすることだけです」と。そして、あなたが祈り、それを口にし、点線の上に署名したなら、あなたがそれを語り、祈り、一連の手続きを踏んだ以上、あなたはいわば救われているのだと。「だから誰にもそれを疑問視させてはならない」云々といった具合です。このようなことが極めて頻繁に起こり、人々は偽りの安心感(確信)を持つことになります。

一つ知っておいていただきたいことがあります。あなたが人をキリストに導くとき、「さあ、あなたは救われました。絶対に疑ってはいけませんよ。誰かに疑わせてもいけません。あなたはいわば救われたのです」などと絶対に言うべきではありません。それどころか、私は人々がこう言っているのさえ耳にしたことがあります。「もしあなたが人生で二度目イエス様を招き入れるなら、それは神に属するものを否定することであり、神の救いの永遠性を否定することになります。神の誠実さを疑うことになります。ある意味、神が仰ったことが嘘であるかのように神に言いがかりをつけることです。二度とそんなことをしてはいけません。ただ受け入れなさい。あなたは口にし、点線に署名したのだから」と。しかし、それはまったくのナンセンス(虚偽)です。

 

聞いてください。もしあなたが自分の心の中で「イエス・キリストを自分の人生の主、救い主として招き入れたい」と感じ、過去にそれを行ったことがあったとしても、もう一度それを行ってください。誰かの偽りの保証や、誰かの偽りの証明(お墨付き)を、神の御霊による罪の自覚(示し)の働きに取って代わらせてはなりません。

私たちの伝道において、誰かが祈りを捧げ、決まり文句を言い、ラインに署名し、聖書にカードを挟みさえすれば、「自分が救われているかどうかなど二度と心配する必要はない」というちょっとした心理ゲームを彼らに与えてしまいがちです。しかし、そもそも神の御霊はそのようなことを一度もなさっていません。なぜなら、彼らは最初から本当に正しい状態にはなかったからです。

私は誰かに対して「さあ、あなたはいわば救われました。絶対に疑ってはいけませんし、二度と問い直してもいけません。決まり文句を言ったのだから、すべて解決し、完了したのです」などとは口が裂けても言えません。もしそんなことをすれば、私自身でさえ本当かどうか分からない事柄に対して、彼らに心理的な安心感を与えてしまうことになります。イエスが「御言葉の種は四種類の土地に蒔かれた」と言われたとき、四つのうち本当に実を結んだのは一つだけだったのです。

人々の救いに安易にお墨付きを与えるような真似はやめなさい。あなたは彼らに偽りの安心感を与えてしまっています。神ご自身が、御霊によって彼らの霊とともに「彼らは神の子供である」と証しさせ、「アバ、父よ」と叫ばせることを通して、彼らに確信を与えてくださるようにしなさい。彼らが信仰に徳を加え、徳に忍耐、敬虔、愛を加えていくときに、神が彼らに確信を与えてくださるようにしなさい。そうして信仰に徳や忍耐、敬虔、愛を加えていくとき、彼らの選びは確かなものとなり、自分たちの罪が赦されたことを知り、救いの現実に盲目ではなくなるのです。それこそが神の御業であって、人間による何らかの証明などではないのです。しかし、多くの人々が「あなたは救われている」と言い聞かされてきたために、それを鵜呑みにしているのだと思います。

人々をこの欺きへと誘い込むもう一つの要因は、「自己吟味の欠如」であると私は考えています。彼らは自分自身を本当の意味で吟味しようとしません。彼らは「すべては恵みであり、すべては赦しである」というような恵みの概念にどっぷり浸かってしまい、自分の罪と向き合うことすら面倒くさがるのです。「罪を告白する必要はありません。あなたの罪はすでに赦されているのですから。すべて処理済みです。すべて帳消しにされたのです。心配など一切せず、そのまま自分の人生を生きなさい」という言葉を耳にします。それは「律法主義の反対(反律法主義・アンチノミアン主義)」と呼ばれるものに極めて近く、人々は自分の人生を吟味することすら怠るような状態に陥ってしまうのです。

なぜ主は、第一コリント11章において、何度も何度も私たちをご自分の聖餐の席へと引き寄せておられるのだと思いますか。それは、人が自分自身を吟味するためです。第二コリント13章5節にはこうあります。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、自分自身を吟味しなさい。」

もし吟味しないのであれば、あなたは自己欺瞞の危険に晒されています。自分自身の罪を見つめ、自分の動機を見つめる必要があります。「なぜ自分はそれを行っているのか」と。

そして信じてください。もしあなたが本当に、真に救われているのであれば、神はご自身の御霊があなたの霊とともに証しされることによって、それを裏付けて(確証して)くださいます。しかし、もしその確証がないのであれば、誰かによる何らかのお墨付きや、過去に祈った小さな祈りがあるからといって、「自分は大丈夫だ」という錯覚の中に留まっているべきではないのです。

 

第三に、人々を「自分は救われている」という錯覚に陥らせるもう一つの要因は、「宗教的活動への執着(没頭)」であると私は考えています。言い換えるなら、彼らは教会に行き、説教を聞き、賛美を歌い、聖書を読み、聖書研究会に参加し、クラスを受講します。そして、宗教的活動にどっぷり浸かっているがゆえに、自分は救われていると思い込むのです。しかし、それは非常に、非常に大きな錯覚であり、非常に大きな幻影です。教会の中にはそうではない者たちが数多く存在しており、いわば麦の中に混ざった毒麦なのです。

そして第四に、人々を欺きへと誘い込む領域は、私が「等価交換(フェア・エクスチェンジ)のアプローチ」と呼ぶものです。これは、自分の人生に何か悪いこと(間違い)を見出したとき、それと真剣に向き合って自分が本当に真のクリスチャンかどうかを吟味する代わりに、自分の人生における「正しいこと」を見つけ出し、都合よく相殺(等価交換)してしまうというものです。「まあ、自分もそこまで悪くはないはずだ。ほら、こっちでこんな良いことをしたじゃないか」と。そして、常にマイナスとプラスを天秤にかけて取引し、誠実さと潔白さをもって自分の人生を正しく評価して「自分は信者だろうか。もし信者なら、こんなことをしていいのだろうか」と問う代わりに、「確かにあれはやっているけれど、でもほら、こっちでこんなことをした」と言って相殺し、事態を粉飾(うやむやに)してしまうのです。

偽りの確信、自己吟味の欠如、宗教的活動への執着、あるいは等価交換のアプローチによって、あなたは欺きへと誘い込まれる可能性があります。しかし、どのケースであれ、あなたは欺かれているのです。

私が驚かされるのは、実に多くの人々が欺かれているということです。同性愛運動に関わる人々と話をする機会において、彼らが私に向かって「私たちはクリスチャンであり、ボーンアゲイン(新しく生まれた者)です」と言うのを、私は何度耳にしてきたか分かりません。彼らは信条を暗唱でき、自分が救われた日を語ることができ、署名したカードを見せることができ、「私たちはイエスを信じている」などと言うことができます。

しかし、肝心な(結論となる)のは次の点です。あらゆる偽りの確信、あらゆる自己吟味の欠如、宗教的活動へのあらゆる執着、そして等価交換の原則が働いていたとしても、あなたが吟味すべき最も重要な結論とはこれです。

「あなたは神の御言葉に完全に従順となり、生きているでしょうか。」

そして、御言葉に背いたとき、それを神に告白せずにはいられないような示し(罪の自覚)や後悔の念があるでしょうか。もしそれがないのであれば、あなたがクリスチャンであるかどうかについて大いに疑問が生じます。

なぜなら、御国に入る者とは、21節が言っているように「言う者」ではなく「行う者」だからです。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御こころを行う者が入るのです。」

ですから、これらの同性愛者や誰かがやって来て「私たちはクリスチャンだ」と言うとき、私の答えはこうです。「もしあなたが本当にそうであるなら、自分がしているようなことを行ったり、それを弁護(正当化)したりはしないはずだ」と。

私たちは同じような問題を抱えています。たとえば、その起源や第一線のレベルにおいて同性愛と深く結びついているフェミニズム(女性解放運動)を例に挙げてみましょう。ここには、「私たちはもう聖書を信じない。女性は高められるべきであり、男性の上に立つべきだ」などと言い巡っている女性たちがいます。そして彼女たちは「私たちはクリスチャンです」と言うのです。

実際、私は最近、「自分は宗教心理学者だ」と主張する女性の本を読みました。彼女は「女性が正当な地位を得るために、宗教は修正され、変更されなければならない」ということを世界に知らしめたいと考えているのです。そして彼女たちは「自分たちはクリスチャンだ」と言います。彼女たちの多くは「自分は信じている」と言いますが、核心に迫ると、御言葉に示されているキリストの主権に服従することを拒むのです。そして、その従順の欠如こそが、彼らの錯覚を暴き出しているのです。

私はいつも不思議に思うのです。たとえば女性運動の構図全体を例にとってみても、私はこの問題でいつも多くの摩擦を起こすので、いっそこのまま語ってしまいましょう。少なくとも真新しいことではありませんから。しかし、クリスチャンの女性たちの多くが、「自分はクリスチャンだ」と主張しながらも徹底的に欺かれているような人々の言葉を信じて、迷わされていることに私は驚かされます。そして、中にはクリスチャンであるとすら主張せず、実際にそのパレード(運動)を先導している者たちもいます。そして、神を恐れないタイプの人々に率いられたパレードに、クリスチャンの女性たちがついて行っているのです。

 

一例を挙げましょう。ナオミ・ゴールデンバーグ著『神々の変貌(The Changing of the Gods)』という新しい本が出版されました。サブタイトルは『フェミニズムと伝統的宗教の終容』です。そこに書かれている内容に耳を傾けてみてください。

「フェミニズム革命は、宗教をそのまま放置することはないでしょう。やがて、すべての宗教的階層構造は女性で満たされることになります。私は、女性がラビや司祭、牧師として機能する姿を想像し、女性が聖職服を着て聖職の務めを果たす姿を思い描きます。しかし突然、一つの問題が見えました。女性がどうやって『男性の神』を象徴(代表)できるというのでしょうか。ユダヤ教とキリスト教に関して私が知っていたすべてのことは、神を絶対的な男性の権威者として受け入れることを伴っていたのです。

会衆は神を男性として見るのをやめなければならなくなるでしょう。では、これらの女性の司祭や牧師、ラビたちは、自分たちのコミュニティに対して何を読み聞かせることができるでしょうか。彼女たちが聖書を使えないことは確実です。多数の女性を宗教的指導者として受け入れる社会は、聖書の世界とはあまりにもかけ離れたものとなり、インスピレーション(霊感)を求めるどころか、聖書を自分たちに関係のあるものと捉えることすらできなくなるでしょう。『神は変わろうとしている。私たち女性が神に終止符を打つのだ』と私は考えました。

私たちが政府、医療、法律、ビジネス、芸術、そして最終的に宗教において地位を占めるようになるとき、私たちは神の終焉となるでしょう。私たちは世界をあまりにも大きく変えてしまうため、神はもはや世界に収まりきらなくなるのです。私はこの考えの筋道に最大の満足覚えました。どうせ私には神との大きな繋がりなどなかったのです。神が自分に関係あるものだと思えたことなど一度もありませんでした。神の文化的終焉について思索しても喪失感などありませんでしたが、神が去っていくのを見届けるというアイデアにはある種の雄大さが伴っていました。私は、何千年も強制されてきた宗教に挑む運動の一部なのだと感じたのです。

神の最後の年月に、神には何が起こるのでしょうか。神の終焉と宗教の変革は人類の生にとって重大な意味を持つものでした。だから私は神の終焉を学ぶために大学院に戻ったのです。西洋文化におけるフェミニズム運動は、キリストと神のゆるやかな処刑に従事しています。男性と女性が『神から与えられた』と考えるよう教え込まれてきたすべての役割が再評価されるでしょう。すべてのフェミニストは――この一行を聞いてください――すべてのフェミニストは、世界を聖書に描かれているものからますますかけ離れたものにしており、そうすることによって、人類に対するキリストと神の影響力を弱める手助けをしているのです。」

さて、少なくとも彼女はそれを認めるだけの誠実さを持っています。教会の中には、これが「神の真理」であると主張するフェミニストたちがいますが、実際のところ、彼女自身が「これは聖書が教えているすべてのことへの否定である」と知っているのです。それにもかかわらず、クリスチャンたちが神の御言葉に対する不従順のうちに、これを鵜呑みにしているのです。

彼女による他のいくつかの引用もお読みしましょう。

「イエス・キリストは女性の解放を象徴することはできません。女性解放の神学を展開するためには、フェミニストたちはキリストと聖書を置き去りにしなければなりません。私たちはユダヤ教やキリスト教の根底にあるセクシズム(性差別)を否定するのをやめなければなりません。私たちがキリストと神が地上に崩れ落ちるのを見守るにつれ、外部に存在する神への必要性を完全に脱ぎ捨てる(脱却する)ことになる可能性が高いでしょう。」

さらに彼女はこう言います。

「私たちは内なる女神を自分たちの霊的(精神的)力として見なければなりません。私たちの神々にとっての変革の新時代において、キリストと神はもはや私たちの精神の中で、自己中心的なわがままな子供のように振る舞うことはなくなるでしょう。」

この本の中には、フェミニストの「魔術(ウィッチクラフト)」に関するセクションが存在します。ちなみに、フェミニズム運動は魔術と結びついています。それは遥か昔にまで遡る話であり、ここで展開する時間はありませんが、本全体を通して「女神は生きている」ということが語られています。

そして1976年4月23日、彼女たちは女性の霊性(スピリチュアル)に関する初の全国全女性会議を開催し、ナオミ・ゴールデンバーグはその会議について次のように描写しています。

「女性たちは『女神は生きている、女神は生きている、魔法が動き出している』と唱え(チャントし)ました。彼女たちはダンス、足踏み、拍手、そして叫び声とともに『女神は生きている』という唱えを終え、座席の上に立ち、説教壇や聖餐のテーブル、そして賛美歌集の中で、胸をはだけて踊ったのです。」

これらすべてが「教会の中で」行われたのです。そして彼女はこう書いています。

「あなた方の胸を恥ずべきもの、神やその御子に似ていない特徴だと教え込もうとしてきた場所で、なぜ自分の胸を露わにしないことがあろうか。」

魔術に関する章では、次のように述べられています。

「アメリカにおいて女性運動が要求しようとしているのは、女性神の存在、自然の神聖視、人間の意志の至上性であり、原罪は存在せず、善も悪もなく、聖なるテキスト(聖書)は存在せず、規律の法則もなく、性は独自の赴くままに従い、私たちがすることすべてにおいてどこにでも存在するのは『遊び(戯れ)』である。」

さて、このような運動と同調しながら、神の御文字に対して従順であり続けることなど、クリスチャンの女性にできるとお思いでしょうか。

私は、誰が本当にクリスチャンであるかについて、非常に多くの人々が勘違い(錯覚)していると考えています。いわゆるクリスチャンたちがこのような運動に従うことを支持するとき――もちろん、男女平等権修正条項(ERA)を支持するクリスチャンの多くがそこまでの内容を支持しているわけではないことは承知しています。彼らは自分たちの運動を本当に導いているのが何であるかを知らないだけなのです。それこそが欺きの一部です。

もしあなたが聖書に異議を唱え、聖書を折り曲げ、聖書を改ざんし、自分の言いたいことを聖書に強制的に語らせようとするならば、あなたは天の父の御こころを行っているのではありません。神の御文字に自分自身の意志を押し付けているのです。そしてあなたは「わずかな者」ではなく、「多くの者」の一部なのかもしれません。

あなたはおそらく、狭い門を通ることに失敗したのでしょう。狭い門を通るとき、あなたは神の律法が完璧であり、自分自身が不完全であることを知ります。狭い門を通るとき、そこには自分では到底到達できない義の基準があることを知ります。そして、高慢や利己心をもって権利を主張しながら入るのではなく、悔い改め、告白、へりくだり、心の打ち砕かれ、痛悔、そしてイエス・キリストの主権への服従をもって通るのです。

愛する皆さん、欺かれている人々は数多く存在します。本当に、本当に多くの人が。見出す者はわずかです。

そして、欺かれている人々にはいくつかのカテゴリーがあると考えています。自分が偽物であることを知っていながら妻の基準に合わせようとしたり、何らかの理由で宗教的に見せかけようとしたりしている「偽善者」を除けば、教会の中で欺かれている者には大きく分けて二つのカテゴリーが存在します。「表面的な者」と「深く関わっている者(没頭している者)」です。

「表面的な者」とは、幼い頃に教会や教会学校に通っていたから、あるいは堅信礼を受けたから、あるいは「キリストのために決心」をしたからという理由で自分をクリスチャンと呼ぶ人々のことです。人々がバプテスマ(洗礼)を受ける際、「12歳のときにキリストを受け入れました。でもその後人生がめちゃくちゃになってしまったので、今またやり直したいのです」と言うのを非常によく耳にします。しかし、本当のところは、彼らは12歳のときにキリストを受け入れてなどいなかったのでしょう。ただ何らかの宗教的活動を通過しただけなのです。これが「表面的な者」です。彼らは今も教会に来ます。宗教的な環境で育ち、クリスマスやイースター、結婚式や葬儀に来ては、自分はクリスチャンだと思い込んでいます。彼らは欺かれている「表面的な者」です。

次に、欺かれている「深く関わっている者」がおり、彼らはより巧妙で深刻なグループです。彼らは首までどっぷりと教会に関わっており、福音を知り、神学を知っていますが、神の御言葉に従いません。彼らは絶えず罪の状態の中に生きているのです。

では、欺かれている人は、自分が欺かれていることをどのようにして知るのでしょうか。私たちはどのようにしてそのような人物を見抜くことができるでしょうか。いくつかの手がかり(鍵)をお伝えしますので、これらをじっくりと考えてみてください。

 

さて、これからお伝えする鍵(手がかり)に該当するすべての人が本当に欺かれているというわけではありませんが、これらは誰かが欺かれている可能性を示す良い指標となります。

もし欺かれている人物を見抜きたいのであれば、第一に、感情、祝福、体験、癒やし、御使い、奇蹟を追い求めている人を探しなさい。なぜでしょうか。彼らは信仰そのものよりも、信仰の「副産物」に関心がある可能性が高いからです。神が得られる栄光よりも、自分が何を得られるかに興味があるのです。キリストが高められることよりも、自分自身に関心があるのです。

第二に、誰が欺かれているかを見極めたいのであれば、神の御言葉よりも、教派や教会、組織に対してより深くコミット(献身)している人を探しなさい。彼らのキリスト教のあり方は、純粋に社会的なものかもしれません。「私は長老派です」「私は生まれてこの方バプテストです」「私はルーテル派で、〜の所属です」といった具合です。主とその御言葉に対してよりも、組織に対してより強く繋がっているのです。

第三に、学問的な関心として神学に関わっている人を探しなさい。このような人々は、この国の大学や神学校のいたるところで見出すことができます。神学を学び、神学の書籍を書きながらも、キリストの義を完全に欠いている人々です。彼らにとって神学とは単なる知的な活動に過ぎません。

第四に、過剰に強調された神学の一点にいつも固執しているように見える人を探しなさい。これは、自分だけの小さな領域や奇妙なこだわりに対して、例の太鼓を叩き続けている人物のことです。そしてそれは通常、神からの素晴らしい洞察などではありません。彼らは自分が神にとても近く、他の誰も持っていない神の素晴らしい洞察を持っているとあなたに思わせたがります。しかし実のところ、彼らは自分のエゴを満たすためのプラットフォーム(立場)を求めているだけなのです。バランスを欠いた人々に注意しなさい。

そしてもう一つの考えです。欺かれているかもしれない人物を探すときは、「恵み」の名のもとに好き勝手(放縦)に振る舞っている人を探しなさい。痛悔の念や、真に打ち砕かれた心などを欠いている人です。

彼らは皆、欺かれて滅びへの広い道におり、天国へ向かっていると思い込んでいる可能性があります。

さて、私たちの主は21節から27節において、これらの人々に警告しておられます。あと数分で締めくくりますので、耳を傾けていただきたいのです。

主はこの箇所で、これらの人々こそが「欺かれている者たち」であると言っておられます。これらの人々は自分が正しい道にいると思っていますが、そうではありません。

まず第一に、21〜23節の段落にあるのは「空っぽの言葉の愚かさ」であり、24〜27節にあるのは「空っぽの心の愚かさ」です。21節の「言う者がみな……ではない」、22節の「多くの人が言うでしょう」という言葉に再び注目してください。彼らの主張は驚くべきものです。彼らの主張は美しいものです。しかし、彼らは自ら主張することを行いません。

エルトン・トゥルーブラッドはこう言いました。

「アメリカに関する限り、今日の私たちの最大の伝道地は、教会メンバーの内部そのものにある。」

決して福音派ではないものの、真実のことをいくつか語ったカール・バルトはこう言いました。

「教会のまことの機能とは、第一に自分自身の回心(新生)のうちに存在する。」

私たちは自分自身を正さなければなりません(体制を整えなければなりません)。私たちの周りは、空っぽの言葉で満ちた人々で溢れかえっています。彼らは「言う、言う、言う、言う」のですが、神の御こころを行いません。

もちろん、言葉に出すこと自体に何も悪い点はありません。つまり、

「もしあなたが口でイエスを主と告白し、心で神がイエスを死者の中から蘇らせたと信じるなら、あなたは救われる。」

わけですから、口で告白することは必要です。しかし、従順を伴わない告白は偽り(まやかし)なのです。

さて、21節にある彼らの告白を、ほんの少し、短く見てみましょう。彼らは「主よ、主よ」と言います。22節でも「彼らは『主よ、主よ』と言う」とあります。そして、マタイ25章の娘たちも「主よ、主よ」と言っていたのを覚えているでしょう。これは興味深いフレーズです。

彼らが最初に「主(Lord)」と言うとき、それは敬意の表れである可能性があります。この言葉は「主人、先生、閣下」を意味し、尊厳、敬意、承認を表す言葉です。彼らは「私たちはあなたを尊敬しています」という意味で「主よ」と言っているのです。

二度目の「主よ、主よ」という重ね言葉は、彼らの主張の正統性(正しさ)を強調しているのかもしれません。なぜなら「主(キュリオス)」という言葉は、旧約聖書の七十人訳(ギリシャ語訳聖書)において「ヤハウェ(主)」の名として翻訳されている言葉だからです。

 

彼らはこう言っているのです。「私たちはあなたが神であり、ヤハウェ(主)であることを知っています。あなたの神性に関わるすべてのこと、処女降誕、奇蹟に満ちた生涯、身代わりの死、力強い復活、執り成し、再臨をすべて受け入れます」と。彼らは敬虔であり、正統的であり、正しい言葉遣いと正しい態度を用いています。

そして「主よ、主よ」と二度繰り返して言っている事実に注目してください。これは彼らの熱心さ、情熱、熱意、コミットメント、そして献身の強さを示しています。

ちなみに、もしこれが「白い御座の裁き」において起こっており、彼らがその場でこれを言っているとすれば――主が「その日には」と言われるその日を指しているとすれば――ここにやって来る人々はすでに裁きと罰の場所で何世紀もの時を過ごしてきた可能性があり、そのことが彼らの熱意を一層強めているのです。「主よ、主よ、私たちがいたあの場所で、一体私たちは何をしてきたというのでしょうか」と。このように、そこには熱意があり、正統性があり、敬虔さがあります。

さらに22節で、彼らは「あなたの名によって、あなたの名によって、あなたの名によって」と三度繰り返しています。つまり、彼らはその意味において自分中心ですらありません。「私たちはあなたのためにこれを行ってきたのです。あなたのために説教をし、あなたのために悪霊を追い出し、あなたのために奇蹟を行ってきたのです」と。

これは驚くべき主張です。敬虔であり、正統的であり、熱心であり、情熱的です。彼らは宣言(預言)し、業を行っています。「いやはや、これは素晴らしい」と私たちは思い、「彼らはクリスチャンに違いない」と言うでしょう。つまり、彼らは敬虔で、正統的で、個人としての献身において熱心であり、御言葉と業による公の奉仕において情熱的なのです。実に素晴らしく聞こえます。

しかし、21節にはこうあります。

「そう言う者がみな入るのではない。」

なぜなら、そう言っているすべての者が、天におられる父の御こころを行ってきたわけではないからです。

そのため、主は23節で告白(宣言)されます。ここに私の告白(ホモロゲオー)があります。

「私はあなたがたをまったく知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。」

なんと衝撃的なことでしょう。主は「私はあなたがたに一つの告白(宣言)をしたい」と言われるのです。ちなみに、これは詩篇6篇8節からそのまま引かれている言葉です。「私はあなたがたにこう告白したい。『私はあなたがたをまったく知らない』と。」これは、戸を叩いていた娘たちに対して主が「私はあなたがたを知らない」と言われたのと全く同じです。

さて、あなたは「神が彼らを誰であるか知らないとは、どういう意味なのか」と言うかもしれません。いいえ、もちろん神は彼らが誰であるかを知っておられます。神はすべてのことをご存じです。彼らは単なる認知や頭での理解について話しているのではありません。聖書において「知る」という言葉は――注意深く見る必要がありますが――親密な関係を表すために使われているのです。

たとえばアモス書3章2節で、神はイスラエルについてこう言っておられます。

「わたしは地のすべての部族のうちで、あなたがただけを知った(親しく交わった)。」

これは、神が知っていた人々がユダヤ人だけだったという意味でしょうか。違います。神が彼らと親密な関係を持っておられたという意味です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き、わたしは彼らを知っている。」

これをより親密な表現で説明しましょう――そうすれば理解しやすくなるはずです。旧約聖書には「カインは妻を知り(交わり)、彼女は男の子を産んだ」と書かれています。これは、彼が彼女が誰であるかを知っていたとか、彼女の名前を知っていたという意味ではありません。結婚という絶対的に親密な行為を通して、彼女を知ったという意味です。

そして、神の種(御子)が神の御霊によって宿り、マリアが私たちの主を身ごもったとき、ヨセフがショックを受けたことを覚えているでしょう。聖書は彼がショックを受けた理由を、彼が「一度も彼女を――」何でしょうか?「――知らなかったからだ」と記しています。このように、「知る」という言葉は親密な関係を具体化して(具現して)表しているのです。

そしてイエスは言われます。「わたしはあなたがたと親密な関係を持ったことなど一度もない。おお、あなたがたは周辺(まわり)にはいたかもしれないが、わたしがあなたがたとそのような親密さを持ったことは一度もないのだ」と。

 

そして主は言われます。

「私から離れて行け。」

わたしの前から永遠に去れ、と。なぜでしょうか。23節の最後にこうあるからです。

「あなたがたは常に不法を行い続けているからだ。」

これは現在分詞(継続を表す表現)です。なぜなら、

「天のおられるわたしの父の御こころを行う代わりに――ちなみにこれは山上の説教の残りの部分すべてを拾い上げる言葉ですが――これらの義の原則に従って生きる代わりに、あなたがたは常に不法を行い続けているからだ」

ということです。神の御こころ、神の義の基準を行う代わりに、あなたがたは絶えず、常に不法を行っているのです。

キリストを告白する(口先で信じると言う)ことが何を意味するかお分かりでしょうか。もしあなたの人生がそれを裏付けていないのであれば、まったく何の意味もないのです。

だからこそ、ペテロはこう言ったのです。「もし自分の信仰に徳を加えることができないなら、自分が本当に贖われているのかどうか分からなくなるだろう」と。ヤコブが「行いのない信仰はゼロ(無価値)である」と言ったのも、まさにそういう意味です。それは死んでいるのです。告白など無価値です。

実のところ、正当な根拠もなくキリストを告白し、キリストの属する者だと主張することは、極限の意味において

「主の御名をみだりに唱える(妄りに口にする)」

ことだと私は信じています。街中で「イエス・キリスト」や「神」と口走ることが、主の御名をみだりに唱えることのすべてだとは思いません。それも一つの形ではあります。しかし、神の御名を冒涜することの極致とは、キリストが自分の主ではないのに「キリストは私のものだ」と主張することなのです。

G・キャンベル・モルガンは適切にこう語っています。 「聖所における冒涜は、スラム街における冒涜よりもはるかに恐ろしい。」

「主よ、主よ」と言いながら不従順でいることは、「ユダの口づけ」です。それこそがユダの口づけなのです。

私たちは神の御こころを行うことに心を奪われていなければなりません。だからこそ、主の祈りはこう言っているのです。「御こころが――」何でしょうか?「――行われますように。」天においてだけでなく、どこででしょうか?「地の上でも。」そしてそれは、「私を通して、私を通して」という意味です。

あなたは「ジョン、もし自分が行えなかったら、失敗してしまったらどうなるのですか」と言うかもしれません。祈りはこう続きます。「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも自分に負い目のある者を赦しましたから。」そうです、私たちは失敗することを知っていますが、だからこそ赦しを求めて進み出るのであり、それもまた義なる行為の一部なのです。

イエスが語られる義の基準は、私たちが失敗することを前提としていますが、失敗したときには告白してそこに留まるのです。だからこそ、第一ヨハネ1章9節にはこう書かれています。「もし私たちが自分の罪を絶えず告白しているなら、私たちは赦され続けている者であることの証拠を示しているのだ」と。言い換えるなら、赦されている者とは、罪を告白している者のことです。

ご覧なさい、主は「これが完璧な基準だ。一度でも失敗したら失格だ」と言っておられるのではありません。主はこう言っておられるのです。「これが完璧な基準であり、その完璧な基準の一部とは、失敗したときに正しく対処することである」と。

それが神の基準です。そして私はあえて言いたいと思います。もし「山上の説教」があなたの人生の方向性(完璧さという意味ではなく、歩む方向性)となっていないのであれば、あなたがどのような告白をしたか、バプテスマを受けたかどうかなど関係なく、あなたはクリスチャンではありません。

ヨハネによる福音書6章で、人々がイエスに「神の業を行うために、私たちは何をすべきでしょうか」と尋ねたときのことを覚えているでしょう。イエスはこう答えられました。

「神が遣わした者を信じること、それが神の業です。」

神の御こころを行うにあたって、まずどこから始めるべきでしょうか。キリストを信じることです。神に受け入れられる唯一のものとは、イエス・キリストに対する悔い改めの信仰から生み出され、良い行いを生み出す「義」なのです。そして、それがないのであれば、あなたが何を言おうと関係ありません。絶対に、何の関係もないのです。

ですから、23節において主は言っておられます。言い換えるならこうです。「私は一度たりとも、あなたがたをわたしのものとして認めたことも、親しく知ったこともない。あなたがたは常に不法を行い続けているため、わたしの前から永遠に追放されるのだ」と。

さて、何がこれをそれほどまでに衝撃的なものにしているのでしょうか。最後にこの点をお話ししたいと思います。これがこれほどまでに衝撃的である理由は、彼らの立てる主張が驚くべきものだからです。

22節をご覧ください。

「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行わなかったでしょうか。』」

預言、悪霊追い出し(エキソシズム)、そして奇蹟という三つの言葉が出てきます。これは、今日のカリスマ運動の中で主張されていることの多くと実に酷似しています。

さて、一つ知っておいていただきたいことがあります。このような主張をする人々の中には、本物(正当な者)もいるでしょう。真の預言者であった者、イエス・キリストの名によって真に敵(悪霊)を追い出した者、神によって素晴らしいこと、力強いことを行うために用いられた者たちも存在してきました。しかし、そう主張しながらも、それが事実ではない者たちも大勢いるのです。事実ではないのです。そんな主張は何の役にも立ちません。

ここで、必ず一つの疑問が浮かび上がってきますので、手短に扱いたいと思います。どうぞ落ち着いてお聞きください。あと数分で終わりますので、焦って席を立とうとしないでください。これで私の最後の話になります。しかし、これを聞いていただきたいのです。

「彼らは本当にこれらを行ったのだろうか。本当に説教し、預言したのだろうか。本当に悪霊を追い出し、力強い業を行ったのだろうか」と尋ねる人々がいます。

可能性(選択肢)は三つあります。 第一に、彼らは神の力によってそれを行った。 第二に、彼らはサタンの力によってそれを行った。 第三に、彼らは行っておらず、ただ捏造(フリ)しただけだった。 この三つのどれもが真実であり得ます。

あなたは「不信者であっても本当に行えたということがあるのか」と言うかもしれません。そうです。神が不信者を通して働かれたことがあるのをご存じでしょうか。旧約聖書を振り返ってみれば、神が実際に不信者を通してご自分の業を行われたことが分かります。

たとえば民数記23章5節には、「主はバラムの口に言葉を置かれた」とあります。そしてペテロはバラムについて「不正の報いを愛した」と述べています。彼は雇われの不義で邪悪な預言者でしたが、神は彼の口をお用いになりました。神が未新生(救われていない)の人々を通して働かれたことさえあるのです。

イエスの十字架刑もまた、その最も記念碑的な例の一つと言えるでしょう。第一サムエル記10章10〜11節では、決して義人とは言えないイスラエルの背教の王について、「神の霊が彼の上に下り、彼は預言した」と記されています。驚くべきことです。

またヨハネ11章51〜52節のカヤパについて、主はあの卑劣な大祭司の口に預言を置かれ、彼がすべての人のためのキリストの死を預言するようにされました。自分自身を欺いているこれらの人々の一部が、実際に神によって用いられ、実際に神の真理を語ったということは十分にあり得ることなのです。それは可能性の範囲内にあります。

第二に、彼らがサタンの力のもとで素晴らしいことを行い、悪霊を追い出し、説教をした可能性もあります。サタンはその力を発揮することができるからです。サタンはヨブに対して、死、破壊、病気という形でその力を発揮したではありませんか。間違いなくそうです。

使徒の働き19章に出てくるスケワの息子たちが、実際に悪霊追い出しをして回っていたのをご存じでしょうか。イエスご自身も、「もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出しているのなら、あなたがたの息子たちは誰によって追い出しているのか」と言われたとき、ユダヤ人がその能力を持っていたことを認められました。彼らがそれを行っていたこと、そして悪霊を追い出すことが可能であることをイエスは認識しておられたのです。

 

正しい(義なる)ユダヤ人の中には神の力によってそれを行った者もいたでしょう。不義なユダヤ人の中にはサタンの力によってそれを行った者もいたでしょう。あなたは「なぜサタンがサタンを追い出したりするのか」と言うかもしれません。なぜなら、サタンは最初から混乱しており、そのシステム全体が支離滅裂だからです。

申命記13章にはこう書かれているのをご存じでしょうか。

「偽預言者たちが現れ、特定のしるしや不思議(奇蹟)、そして預言し、それが実際に成就したとしても、なお彼らを信じてはならない。」

そしてそれらは、サタン的な力によって動かされていたのかもしれません。

マタイによる福音書24章24節には、偽キリストや偽預言者たちが現れて

「しるしや不思議を行う」

と書かれており、第二テサロニケ2章8〜10節には

「反キリストが来て、偽りのしるしや不思議を行う」

と書かれているのをご存じでしょうか。サタンは驚くべきことを行うことができるのです。

そして、もう一つは単純な「捏造(ペテン)」の領域です。エジプトで起きていたのはまさにそれだったと私は考えています。モーセの奇蹟を真似しようとしたエジプトの魔術師たちは、ただ偽りのことをやってのけていただけでした。彼らがモーセの行ったことを再現したとき、それは単なる誤魔化し(手品)、彼らの小さなマジックに過ぎなかったのです。私はそれを「奇術ショップの品々」や「トリック」と呼んでいます。

さて、皆さん、重要なのはここです。これらの人々は「私たちは説教をし、悪霊を追い出し、力強い業を行いました」と言うでしょう。そして、彼らのうちの何人かは、実際にそれを行うために神によって用いられたのかもしれません。神がバラムのロバでさえお使いになるのであれば、神は何でもお使いになります。あるいは、神に化けたサタンの力、つまり白魔術によって行ったのかもしれません。あるいは、今日目にする多くの癒やし手たちと同じように、ただの古典的な「おまじない(インチキ)」だったのかもしれません。

ポイントは「彼らがそれをどのように行ったか」ではなく、「彼らが欺かれていた」という点です。彼らはそれが神によるものだと思っていましたが、神によるものではなかったのです。神によるものではなかったのです。

今日でも、多くの人々が説教をし、多くの人々が悪霊を追い出し、多くの人々が癒ややしを行い、自分では神によるものだと信じながら、実は神によるものではない事柄を行っています。そして多くの人々がそれを信じ込んでいます。「おお、そうだ、これは主からだ、神に違いない」と。しかし、それはサタン的なものか、トリック(騙し)に過ぎないのです。

しかし、要するにこういうことです。彼らが何を言おうと、何を主張しようと、どんな奇蹟や不思議を見たと主張しようと、イエスはこう言われるのです。

「あなたはわたしの御国に入る資格はない。」

これこそが衝撃なのです。なぜなら、彼らは決して狭い門を通ってこなかったからです。一度も通ってこなかったのです。なんと破滅的なことでしょうか。

単に口先だけの告白をするのでは不十分です。今夜の学びでは、「聞く」ことだけでも不十分であることを見ていきます。

天の父よ、今朝、私たちに与えられたこの御言葉を感謝いたします。私たちはジェフリー・オハラ(Jeffery O’Hara)の賛美歌の言葉を心で聞いています。

「なぜ私を『主よ、主よ』と呼びながら、私の言うことを行わないのか。 あなたがたは私を『道』と呼びながら、私を歩まない。 あなたがたは私を『いのち』と呼びながら、私に生きない。 あなたがたは私を『主』と呼びながら、私に従わない。 もしわたしがあなたがたを裁く(責める)としても、わたしを責めてはならない。

あなたがたは私を『パン』と呼びながら、私を食べない。 あなたがたは私を『真理』と呼びながら、私を信じない。 あなたがたは私を『主』と呼びながら、私に仕えない。 もしわたしがあなたがたを裁く(責める)としても、わたしを責めてはならない。」

主よ、口で言いながら行わない者たちをあなたが裁かれる(責められる)とき、私たちがあなたを責めることなどできません。なぜなら彼らは、御国の一部ではないという証拠を示しているからです。どうか、この場所にいる誰ひとりとして、そのような種類の者としてここを去ることがありませんように。

主よ、なんと素晴らしい朝を私たちは過ごしたことでしょう。私たちが自分自身の心を誠実に吟味し、自分が信仰に立っていることを知ることができるよう、この朝がなし得る限りの実り豊かなものとなりますように。父よ、必要な人々を祈りの部屋へと導いてください。私たちのすべての心の中で、あなたの御業を行ってください。キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

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