私たちが学んできた『ヘブル人への手紙』第11章に、今夜再び戻ります。ただし、今夜のうちに提示されたテキストを終わらせるつもりはまったくありません。というのも、ここから旧約聖書の広大な世界が大きく開かれていくからです。『ヘブル人への手紙』第11章——ここは「信仰の章」として知られている箇所です。後で見るように、この記述は第12章の冒頭へと続いていきます。
私たちはこの章全体を通じて、神との関係を持つ者はだれであれ、行いによってではなく、信仰によってその関係を築いているのだということを思い起こさせられてきました。私たちは創世記まで遡り、信仰の模範、あるいは一般に「信仰の英雄たち」として知られる人々を見てきました。そして父祖たちの時代を経てモーセに至り、聖書の最初の書物群である「モーセ五書」を網羅してきたのです。
第30節以降に入ると、記述は『ヨシュア記』や『士師記』へと移ります。さらに『サムエル記第一・第二』や『列王記第一・第二』が書かれた時代に生きた人々への言及が続き、これらの最後の数節によって、私たちはそこから預言者たちの時代へと一気に駆け抜けることになります。いわば、洗礼者ヨハネの時代に至るまでのすべてです。
ですから、エリコの城壁や約束の地への入国が示される第30節から、わずか数節の間に預言者たちの時代全体を通り抜けることになります。もちろんそのすべてを網羅しているわけではありませんが、その時代を象徴する代表的な名前が挙げられています。これは非常に重要なことです。『ヘブル人への手紙』の著者にとって、これは決定的に重要な意味を持っています。著者にとって重要だったのは、救いはただ信仰のみによるという真理を読者に伝えることでした。
『ヘブル人への手紙』が書かれた第一世紀の当時、人々にユダヤ教の影響が強く残っていたことを皆さんもお分かりでしょう。そのずっと前から発展し、当時まさに満開状態にあったユダヤ教は、救いとは行いや儀式、儀礼や道徳によって勝ち取るものであると教えていました。
しかし、新約聖書のメッセージは、肉の行いによって義とされる者はひとりもいないというものです。新約書簡が私たちに告げている通りです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。」
行いや努力、自分自身の道徳的努力、霊的努力、宗教的努力によって神のもとに近づく道はありません。今日でも「自分は宗教的だ」とか、より好んで「自分は霊的だ」と誇らしげに語る人々がいます。しかし、そんなものは神の前には何の意味もなしません。宗教や精神性、道徳や儀式にどれほど膨大な努力を払おうとも、絶対に何も得ることはできません。なぜなら、人間がなし得る最高の行為、彼らの「正義」であっても、神にとっては汚れたボロきれに過ぎないからです。
したがって、新約聖書のメッセージとは「救いはただ信仰のみによる」というメッセージなのです。このメッセージは、ユダヤ人の聴衆にとっては極めて衝撃的な大転換でした。ですから、これが恩寵と信仰の福音という何か新しいメッセージであったり、あるいは旧約聖書に反する異端的なものであると彼らが誤解しないよう、神の真の御言葉として擁護される必要があったのです。
こうして『ヘブル人への手紙』の著者は、書き送られた当時のユダヤ人だけでなく、時を超えてこれを読むすべての人々のために、この宝のような書物を残してくれました。ただ信仰のみによる救いは、新約聖書が新しくでっち上げたものではなく、遠い昔からのものであり、人が神と和解するための唯一の道であったという事実を確固たるものにするためです。
それゆえ、この章は「救いはただ信仰のみによる」というメッセージを紛れもなく伝えようとしています。だからこそ、3節では「信仰によって」で始まり、4節でも「信仰によって」、5節でも「信仰によって」、7節でも「信仰によって」、8節でも「信仰によって」、9節でも「信仰によって」、11節でも「信仰によって」……と延々と続いていくのです。
そして、この書の驚くべき点は、その歴史的な深さと広がりにあります。人類の歴史の最も初期の時代においてすら、救われる唯一の道は信仰によるものでした。それゆえ、最初に名が挙げられている人物はアベルなのです。アベルは神から、神のもとに来たいのであれば全焼の捧げ物をもたらさなければならず、それは動物でなければならないと告げられました。神は死を求められたのです。アベルは神に疑問を抱くことなく、神が命じられた通り正確に行いました。彼は神に従順であり、信仰によってによって、神により優れた捧げ物を献げたのです。これは、「犠牲(生け贄)によって救われる」という真理を、聖書が最初にわかりやすく示している場面です。そしてもちろん、このすべての犠牲は、後に来られるキリストを指し示しています。
アベルは自身の行いによって救われたのではありません。それに対してカインは、自分が生産した物をもたらすことによって神との関係を築こうと努力しましたが、それはまったく無意味でした。
そしてこの章の物語は、エノクへと移ります。エノクは神の御前にそのまま歩み入り、死ぬことがなかった人物です。彼もまた神に疑問を抱くことはありませんでした。彼はあまりにも従順で聖なる生涯を送ったため、死を見ることがありませんでした。彼があまりにも神に喜ばれたため、そのまま引き上げられたと書かれています。そして彼が神に喜ばれたのは、神が命じられたことをそのまま行なったからでした。
次にノアが登場します。ノアの神との関係もまた、信仰の関係でした。彼は砂漠の真ん中に巨大な船を建造することによって、自分に啓示された神の御言葉への信仰を証明しました。120年もの長きにわたり、周囲の人々から嘲笑され続けながらも、彼はこの奇妙な任務を自分に命じた神こそが、まことの生ける神であると宣べ伝えました。神がそう言われたからこそ、彼はいつの日か雨が降り、その船を浮かせるほどの水が押し寄せてくると信じたのです。
それから、話はアブラハムへと移ります。イスラエルという民族の父であり、父祖たちの先頭に立つアブラハムは、神を信じてウルを立ち去りました。彼は生涯を流浪の民として過ごし、自分の生きている間には、自分を通してもたらされるはずの約束を受け取ることが一度もありませんでした。彼は約束の実現を見ることなく世を去ったのです。彼はあらゆる約束が含まれたアブラハムの契約を、息子イサクに引き継ぎました。神は、世界に影響を与える大きな民族となること、救い、そして祝福という同じ約束を再び念押しされました。神はそれをイサクに引き継がれましたが、イサクもまたそれが実現するのを見ませんでした。そしてイサクはそれをヤコブに引き継ぎ、ヤコブもまた実現を見ませんでした。ヤコブはそれをヨセフに引き継ぎ、ヨセフも実現を見ませんでした。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの全員が、約束を受け取ることなく世を去ったのです。
それでも彼らは神とともに歩み続け、目に見えるものによってではなく、信仰によって神を信頼し続けました。私たちはこのことについて詳しく見てきました。
ここで伝えられているメッセージは、「神との関係を持つ人々は、信仰によって神のもとに来たたゆえに神と結ばれており、これからも信仰によって生き続ける」ということです。人生は困難かもしれません。神が求めることは一見おかしなことに思えるかもしれません。自分自身の性格や意志に反することかもしれませんし、世の中の文化に逆らうことかもしれません。理不尽に思えたり、苦しみを伴ったり、周りからあざ笑われたりすることもあるでしょう。世から離れることを意味するかもしれませんし、自分の野望や、時には命そのものを差し出すことになるかもしれません。それでも、神がそうしなさいと言われたからこそ、あなたはそうするのです。それこそが神の民の特徴であり、彼らは神に従います。神との関係とは、まさにそのような従順のことです。救いと悔い改め、そして信仰への呼びかけにあなたは従います。従順な生活への呼びかけに従うのです。昔からずっとそうでした。
こうして私たちは、アベルからアブラハム、そしてその子孫である父祖たちに至るまで、モーセ五書を共にたどってきました。そして、著者が短い言葉でモーセ五書全体の記述を私たちの心に鮮やかに思い起こさせてくれるように、神との関係は常に信仰に基づいているのだということを見てきました。本物の信仰はあらゆる試練に耐えます。だからこそ、危機の中で試され、証明されるのです。
さて、このメッセージは極めて重要です。もう一度『ヘブル人への手紙』の本文と、著者が何を意図していたのかに目を向けてみましょう。この手紙が書かれる何年か前——著者がだれであるかは分かっていませんが——主イエス・キリストの福音があるユダヤ人たちのもとに届きました。彼らがどこにいたのかは分かりません。イスラエルの地のどこかの地域や町にいた者たちもいました。その福音は、使徒たち自身によって彼らに伝えられたのです。使徒たちがその伝道者であったことは明らかです。なぜなら第2章3節で、彼らは次のように警告されているからです。
「まして、私たちは、これほど大きな救いをないがしろにした場合、どうして罰を免れることができましょう。この救いは、初め主によって語られ、それを聞いた人たちによって、私たちに確かなものとして示され、」
標識や不思議な業は使徒たちに属するものでした。それらは使徒であることを証明するしるしだったのです。
このように、このユダヤ人のコミュニティは使徒たちから語られる福音を聞き、それは聖霊による標識や不思議な業、また力によって真実であると証明されました。そのユダヤ人コミュニティの中には、その福音を完全に受け入れた人たちがいました。彼らは福音を信じ、キリストのもとに来ました。古い契約をあとにし、新しい契約という素晴らしい恵みの世界へと踏み出したのです。
しかし、そのユダヤ人コミュニティの他の人々は、福音を聞き、それが正しいことまでは頭で理解して認めつつも、心からの献身には至っていませんでした。彼らは真の信者であるユダヤ人たちの集まりに外見上は加わっていましたが、本物の救いには届いていませんでした。そのため、この手紙全体を通じて——第2章、第4章、第5章、第6章、第10章と繰り返し——教会の周りにとどまりながらも頭で納得しているだけのユダヤ人グループに対して、「完全に救いまで行き着きなさい」という警告が発せられているのです。「この素晴らしい救いをないがしろにしてはならない。途中で立ち止まってはならない」と第2章で語られているのはこのことです。第4章と第5章では「安息に完全に入りなさい」と語られ、第6章では「脱落してはならない。完全な啓示を受けながら脱落するなら、再び悔い改めに立ち返ることは不可能だからだ」と語られています。そして第10章では、「知っている知識がありながら福音を拒むなら、神の子を再び十字架につけ、公然と恥をかかせることになる。そのようなことをする者への審判と永遠の罰は、どれほど重いものになるだろうか」と警告しているのです。
このように、この手紙の至るところに警告の言葉が出てきます。集会に集まり、この手紙が読まれるのを聞く人々は、警告を受ける必要がありました。そしてそれは、頭では福音を認めていながら、真の信仰の告白に至っていない現代のあらゆる時代の人々にとっても同じなのです。
彼らに福音を受け入れさせる非常に強力で心動かす動機の一つは、「このメッセージは決して新しいものではなく、神が罪人を自分と和解させる道はただ一つ、すなわち信仰によるという昔からの同じメッセージなのだ」と確信させることでした。
アベルやエノクの時代のように、わずかな啓示しかなかった時代においても、またノアの時代に少し増え、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの時代にさらに少し増えた時代においても同じです。歴史のどの時点においても、神との関係は神が示されたこと(啓示)を信じることに基づいていました。
そして神が示された最も重要な内容は、「人間は罪人であり、生け贄(犠牲)を必要としている」ということです。これがカインとアベルに与えられた最初の啓示でした。アベルはそれに従いましたが、カインは従いませんでした。
したがって、『ヘブル人への手紙』第11章のメッセージは、「救いの道はいつの時代も信仰によるものだった」ということです。ユダヤ教に逆戻りしてはいけません。古いユダヤ教のしきたりに戻ってはなりません。いまや消え去った祭司制度と喜んで手を切りなさい。神殿の幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれたとき、祭司制度は終わりを告げたのです。至聖所はだれに対しても広く開かれました。きっぱりと決別するのです。
この書物のメッセージは「完全にキリストのもとに来なさい」ということです。古いものを捨て、キリストのもとに来なさい。信仰によって神のもとに来なさい。それだけが唯一の道なのです。そしてもちろん、これこそがキリスト教の福音であり、伝え続けてきたメッセージです。
この章の導入は、第10章38節にありました。
「私の正しい者は信仰によって生きる。」
ハバクク書から取られた、非常に有名なあの一節です。
「正しい者は信仰によって生きる。」
信仰によって生きなければなりません。それだけが霊的な命を持つ唯一の道です。
「もし彼が恐れて引き下がるなら、私の心は彼を喜ばない。」
そして『ヘブル人への手紙』の著者はこう続けます。
「しかし私たちは、恐れて引き下がって滅びる者ではなく、信仰を持って命を保つ者です。」
信仰によって神のもとに来なさい。これが『ヘブル人への手紙』のメッセージです。この章全体を貫いているだけでなく、私たちがこれから目にする第12章の冒頭でも、非常に強い力を持って繰り返されるメッセージです。
さて、私たちが直面している第30節のテキストに入ると、歴史の歩みはエリコの城壁の前にまでたどり着きます。そしてここから、本当に驚くべき信仰の実例をいくつか目にすることになります。
ここで私たちは「信仰の勇気」を目にします。これは、いわば信仰の頂点(最高峰)とも言える要素です。だれかの信仰が本物であるかどうかを証明するのは、「その信仰がどれほどのものに耐えられるか」だと言えるでしょう。もしそれが本物の信仰なら、どんな犠牲を払ってでも従います。どんな反対や脅迫、苦しみに直面しても、勇気を示します。本物の信仰は後戻りしません。打ちのめされることも、崩れ去ることもありません。
私たちはこれまで、アベルとともに「信仰の生涯」を、エノクとともに「信仰の歩み」を、ノアとともに「信仰の働き」を、アブラハムとともに「信仰の型」を、父祖たちとともに「信仰の勝利」を見てきました。またモーセとともに、エジプトのエリートとしての罪の楽しみを享受することよりも、神の民とともにキリストの辱めを受けることを選んだ「信仰の選択」を見てきました。
そしていま、私たちはある意味で信仰の頂点、すなわち「信仰の勇気」へとたどり着きます。本物の信仰とは、何よりも勇気あるものです。そこでこそ、信仰は真価を発揮します。ある種の圧力にさらされたときに崩れ去ってしまうような神への信仰や、口先だけのキリストへの信仰は、本物の信仰ではありません。
このことは、主が「種まきのたとえ(さまざまな土のたとえ)」の中で教えられたことにも示されています。主はある人々について語られました。表面的にはメッセージを受け入れる用意があるように見え、種は「岩地」に入っていきます。しばらくの間芽を出し、素晴らしい応答のように見えます。福音の言葉を喜びをもって受け入れたとさえ描かれます。
しかし主はこう言われます。太陽が昇ると、表面のすぐ下に岩盤があるため、そのような土壌では根が深く伸びて水を吸い上げることができません。そのため、太陽が植物を焼き払い、実を結ぶことなく枯れてしまうのです。そしてイエス様は「太陽は『苦難(圧力や迫害)』を象徴している」と言われました。それこそがテスト(試練)なのです。
あるいは、イバラや刺でいっぱいの土壌かもしれません。この世の愛、この時代の愛、富への愛を放そうとせず、最終的にそれが御言葉を塞いでしまうのです。世の中には一時的な信者がいろいろと存在します。そして私たち全員に圧力が押し寄せ、だれが本物でだれがそうでないかが必然的に明らかにされるのです。
では、試練を受け、本物の信仰が持っている「勇気」を示した人々を見ていきましょう。第30節と31節です。今夜はここまでに留まるかもしれません。
「信仰によって、エリコの城壁は、七日のあいだ周囲を回ったのちに崩れ落ちました。信仰によって、遊女ラハブは、偵察員たちを穏やかに迎え入れたので、従わなかった者たちとともに滅びることがありませんでした。」
旧約聖書の歴史の流れに基づき、モーセ五書から『ヨシュア記』の時代へと話が移ります。今回の講義部分の日本語訳をお届けします。
さて、先ほども申し上げたように、私たちは旧約聖書の歴史においてモーセ五書を抜け出し、『ヨシュア記』の時代へと進みます。まず最初に思い起こされるのは、エリコの城壁です。ギリシャ語では「タイコス(teichos)」と呼ばれ、エリコの町をぐるりと取り囲んでいた巨大で頑丈な外壁を指します。
著者はここまで、ノアの洪水の前後に生きた偉大な人物たちや、イスラエルがエジプトを出るまでの人々を信仰の例として挙げてきました。モーセはエジプトでの体験から引き上げられ、民を率いて脱出させた人物です。彼らはエジプトの地を出て、約束の地を目指して歩みを進めました。そして今、物語は約束の地へと入り、そこで生きた信仰の英雄たちに出会うことになります。
ちなみに、ここには一つ「省略」があります。荒野をさまよった40年間の不信仰の歴史と、疑いを持った世代が全滅するまでの期間が除外されているのです。こうして、約束の地に入ることができる新しい世代が登場し、その物語が『ヨシュア記』第6章に記されています。ここで少しその箇所を振り返ってみましょう。皆さんもよくご存じの場面です。
エリコはイスラエルの人々を恐れて固く閉ざされていました。イスラエル人がすぐ近くまで来ているという報せが届いていたからです。彼らの規模は非常に大きく、エジプトを出た当初は約200万人いたと推定する人もいます。カナンの地に入る準備が整った段階でどれほどの人数が残っていたかは正確には分かりませんが、いずれにしても恐るべき大軍勢でした。
エリコにはすでに偵察隊が送り込まれていました。『ヨシュア記』第2章にあったとおりです。
「エリコはイスラエルの人々のゆえに城門を固く閉ざし、だれ一人出入りする者がなかった。主はヨシュアに言われた。『見よ。私はエリコとその王、および勇士たちをあなたの手に渡す。あなたがた戦士はみな、町の周りを回り、町の周囲を一日一回めぐれ。六日間そのようにしなさい。七人の祭司たちが七つの羊の角のラッパを持って契約の箱の前を進み、七日目には町を七回めぐり、祭司たちはラッパを吹き鳴らしなさい。祭司たちが羊の角のラッパを長く吹き鳴らし、あなたがたがその音を聞いたなら、民はみな大声で叫びびなさい。そうすれば、町の城壁は崩れ落ち、民はそれぞれまっすぐ上っていくことができる。』」
人間の自然な疑問や懐疑心からすれば、「もう一度説明してもらえますか? 何ですって? どうやって攻略するって? 6日間のあいだ毎日1回ずつ城壁の周りを歩き、7日目には7回回って、最後に大声で叫んだら城壁が真っ平らに崩れ落ちるですって?」と言いたくなるところでしょう。この命に従うこと自体が、まさに「信仰の行為」であったと言えるのではないでしょうか。あまりにも奇妙で不可解な命令だったからです。
しかし、その後の成り行きはご存じの通りです。彼らは言われた通りに正確に行いました。聖書には日ごとの記録が刻まれています。
そして第20節に至ります。
「民は叫び、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民がラッパの音を聞いたとき、民は大声で叫んだ。すると城壁が真っ平らに崩れ落ちたので、民はそれぞれまっすぐ町に上っていき、その町を占領した。彼らは男も女も、幼子も老人も、また牛や羊やロバに至るまで、町にあるすべてのものを剣の刃をもって全滅させた。」
これは凄まじい勝利であり、大規模な制圧でした。
こうしてカナンの地、すなわち約束の地への第一歩が踏み出され、そこには指導者であるヨシュアの信仰、そして民全体の信仰が見事に示されました。モーセは去り、ヨシュアが新しい指導者となりました。ヨルダン川を渡った彼らは、ヨルダン川とエリコの間に挟まれた格好になっていました。エリコはカナンの南部を守る前線の要塞です。これが彼らの最初の障壁であり、信仰の試練でした。彼らは「神が指示されたこと」をそのまま信じるかどうかを試されたのです。
エリコは頑丈な町でした。堅固に閉ざされ、防備が固められていました。これを攻略するのは不可能な難攻不落のタスクに見えました。カナン南部の防衛拠点として意図的に強化されていたからです。『申命記』1章28節で、かつての偵察隊たちが恐れをなして「あの民は私たちよりも大きく背が高い。町は大きく、城壁は天に届くほどだ」と報告した都市の一つでもありました。彼らはその不信仰ゆえに処罰を受け、40年間も荒野をさまようことになったのです。
しかし、エリコは必ず攻略しなければならない、約束の地への玄関口でした。民は従い、城壁は神が言われた通りに崩れ落ちました。神は「6日間は毎日1回ずつ回りなさい。7日目は7回回りなさい。7回目に城壁は崩壊する」と命じられ、まさにその通りになりました。
城壁の上からエリコの住民たちが見下ろす中、イスラエル人がただ周りを歩いて去っていく行為を6日続けてくり返す姿は、一見すると滑稽で恥ずかしいものに映ったかもしれません。バカバカしく思えたことでしょう。行進している当人たちも、困惑し、もどかしさを感じていたに違いありません。まったくまっとうな攻略法には見えなかったからです。しかし、彼らは神の言葉に従いました。従わないことの代償がいかに重いかを、身をもって学んでいたからです。
この出来事は、神が「人間の誇りを打ち砕くことをお喜びになる」という真理を私たちに教えてくれます。武器も正規軍も持たないイスラエル人が自分たちの力だけで攻略できるという過信はもちろんのこと、敵側の誇りをも打ち砕かれます。羊飼いの少年と小石一つに敗れたペリシテ人の歴史を思い出しても分かるように、ここでもただ周りを歩き、角笛を吹き、叫び声を上げただけで、カナン最古の要塞が最初の敗北を喫したのです。ここで民が見せたのは、まさに「信仰」でした。これこそが聖書の証言であり、神の証しなのです。
この信仰をもう少し深く掘り下げてみると、信仰には4つの段階があることが分かります。
第一に、「受け取る信仰」です。手ぶらの乞食が神のもとにやって来て、神が与えてくださるものを受け取る信仰です。これが信仰の最も基本的な要素です。
第二に、「(神の約束を)数え入れ、信頼する信仰(reckon)」です。与えられた賜物を受け取ることが最初の段階なら、神が約束を与えてくださったことを認め、その約束を必ず果たしてくださると確信する段階が、次のレベルの信仰です。救いの瞬間においては、だれもが神からの賜物を受け取る「乞食のような信仰」からスタートするのです。
次の段階の信仰は、この賜物(救い)とともに、限りない永遠へとどこまでも広がる壮大な約束が与えられているのだと理解し始めます。それは希望に満ちた約束です。信仰とは「神はその約束を必ず果たしてくださる」と推し量り、確信することです。
そしてさらに進むと、「危険を冒す(リスクを取る)信仰」があります。これらの約束が心を捉え、確信をもって抱かれるからこそ、信仰はどんな状況であっても「従順であろう」と勇敢に一歩を踏み出すのです。
そして最後に、「あらゆる苦しみの中でも安息し続ける信仰」があります。何があっても揺らぐことがありません。このように、本物の信者の人生は、常に信仰によって支配されているのです。
何世紀もの間、イスラエルの民はエジプトで奴隷の民であり、荒野で40年間さまよう流浪の民でした。彼らの偉大な指導者(モーセ)は世を去りました。彼らには軍事経験もなく、軍隊もなければ、砲兵も武器もありませんでした。しかし、生ける神が彼らの味方であり、彼らは神を信じるようになったため、信仰が勝利を勝ち取ったのです。
このことから、皆さんの心に深く刻んでおいていただきたいことが一つあります。信仰の証明とは、常に「従順」であるということです。信仰の証明とは、常に従順です。信仰と従順は決して切り離すことができません。
「キリストのもとに来なさい、キリストに信仰を置きなさい」と言うとき、それは神の命令です。そして、あなたがそうするなら、それ自体が「従順の行為」なのです。「これは、わたしの愛する子。これに聞き従いなさい。」
福音の宣言そのものが、一つの命令です。「悔い改め、信じなさい。」これは命令モードなのです。悔い改めと信仰の行為によってキリストを受け入れる人はだれであれ、福音に従っているのです。聖書がそのことについて語っているのはそのためです。『ローマ人への手紙』第1章でも「福音に従う」必要性について語られています。福音とは命令です。「悔い改め、信じなさい」という命令なのです。救いは、従う者にもたらされます。
そして、それ以降の信仰の歩みにおけるすべてのことも、神が命じられたこと、神が要求されたことに従っていくプロセスです。このように、信仰は従順において示されます。どんな犠牲やコストを払うことになろうとも、勇気をもって従う、そのような従順です。それこそが、私たちがこの最後のセクションで学ぶことです。
私たちはすでに、かつての信仰の英雄たちの中にそれを見てきましたが、ここでは特に「信仰の勇気」がテーマとなります。どんなに悲惨な状況であっても、信仰は決して打ち砕かれません。信仰は耐え忍びます。そして勝利を思い描き、確信するのです。
我が家がまだ子どもたちがずっと小さかった頃、ロバート・モファットという偉大な宣教師の墓を訪れる機会がありました。私たちは、キリスト教徒くらいしか存在すら知らないような、静かで人目につかない墓地にある彼の墓の前に立ちました。妻のパトリシアと子どもたちも一緒でした。私は彼の生涯について十分に読み込んでいたので、彼の歩みに深い敬意を抱いていました。
しかし、彼について何より衝撃的なのは、彼が何年もの間、たった一人の改宗者も出ないような人々の中で労苦し続けたことです。ただの一人も与えられなかったのです。イギリスにいた彼の遠くの友人たちが手紙を書き、「何かプレゼントを送りたい。あなたを励まし、私たちの愛を示したいのだが」と尋ねました。
彼はこう返事を出しました。「フルセットの聖餐用の器(コミュニオン・セット)を送ってください。」
「聖餐用の器ですって?」
それは何ヶ月も経ってから届きました。それが届いた時には、12人の信者が与えられており、彼らは一緒に座って聖餐にあずかっていたのです。
彼は、この地に赴くようにという神の召しの中に秘められていた「神の約束の成就」を、先回りして確信していた大いなる信仰の人でした。彼の人生と宣教における格闘は、想像を絶するほど巨大なものでした。
本物の信仰とは、理不尽な命令や到底信じられないような約束が出され、絶望的な衝突の中にあったとしても、なお神を信じ抜く「勇気」を持っています。エリコでの出来事は、一見するとバカバカしく、不必要で、愚かに思えるような命令に従うという、まさにそうした種類の信仰の実例なのです。しかし、信仰を証しするものとは「従順」です。どこまでも従順なのです。
私たちはよくそのことについて話します。「では、だれかがクリスチャンであるかどうかを、どうやって見分けるのですか?」と言うとき、クリスチャンである人はだれでも神の言葉に従います。それが彼らの人生の方向性(パターン)なのです。完全に完璧に従えるかと言うと、そうではありません。完璧な人生を送れるという意味ではなく、それが人生の目指す「方向」だということです。
そして第31節では、より個人的な実例が登場します。
「信仰によって、遊女ラハブは、偵察員たちを穏やかに迎え入れたので、従わなかった者たちとともに滅びることがありませんでした。」
ここに「従わなかった者(不信仰な者)」という言葉が出ているのは非常に興味深いことです。これは示された信仰の「対極」にある姿です。ちなみに、同じ旧約聖書の記述から取られています。聖霊が次に選ばれた信仰の実例——勝利する信仰、勇気ある信仰——は、あろうことか「娼婦(遊女)」のものでした。
「殿堂入り」の中に娼婦?
しかし、一つ分かっていることがあります。もし「人は行いによって神の国に入る」と未だに信じているユダヤ人がいたとしたら、ラハブがなぜこのリストに入っているのか理解するのに苦しむことでしょう。彼女の存在は衝撃的です。「救いはそれを勝ち取った者に与えられる」という概念にまだしがみついている当時のユダヤ人コミュニティの感覚を、完全に打ち砕くような存在だからです。
彼女はユダヤ人ですらなく、カナン人(異邦人)であり、アモリ人でした。アモリ人は、その子孫全体が神の呪いによって全滅させられる運命にありました。しかし、ラハブは神を信じたのです。そして、ラハブに関する最も息をのむような真実の一つは、彼女が「メシア(キリスト)の系図」の中に名を連ねることになったという点です。
もちろんエリコには、滅び去った不信仰な(従わなかった)人々がいました。エリコの人々は信じず、従いませんでした。このことは、神の真理が彼らの真ん中に置かれていたことを暗に示しています。信じるか信じないか、従うか従わないかを選ぶために、彼らは神の言葉を受け取っていたはずなのです。いくつかの翻訳では「信じなかった」と訳されていますが、ギリシャ語の原語は「アペイテオー(apeitheō)」で、「不従順であった」という意味です。
彼らはまことの生ける神についての真理を聞いていたはずです。エジプトからイスラエルが連れ出されたという話を聞いていたのかもしれません。偵察員たちからのメッセージが、人々に伝えられて広がっていたのかもしれません。しかし、彼らはこの神に憐れみを求めませんでした。恵みを求めず、赦しも求めませんでした。神に従うことになど、まったく関心がなかったのです。
その結果、私が先ほど読んだように、街全体が拭い去られました。動物も人もすべて剣の刃によって命を落としたのです。ただ一人、ラハブを除いて。
なぜでしょうか? ラハブは偵察員たちを穏やかに迎え入れたからです。「迎え入れる」——ギリシャ語の「デコマイ(dechomai)」は、もてなしをもって歓迎することを意味します。
彼女の物語は一読の価値があります。『ヨシュア記』第2章に戻ってみましょう。少し見てみましょう。
「ヨシュアは二人の者を偵察員として送り出した。『行って、あの地、特にエリコを見て来なさい。』彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。 すると、エリコの王に『見よ、今夜、イスラエルの人々の中から、この地を探り出すために人が入って来ました』と告げる者があった。エリコの王はラハブのもとに人を遣わして言った。『あなたのところに来て、家に入った者たちを連れ出しなさい。彼らはこの地のすべてを探り出すために来たのだから。』」
——彼らは私たちを征服するために探りに来たのだ、というわけです。
「しかし、その女は二人をかくまって言いました。『はい、その人たちは私のところに来ましたが、私は彼らがどこから来たのか知りませんでした。暗くなって城門を閉じる時間になったとき、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか私は知りません。すぐに彼らの後を追いなさい。そうすれば追いつけるでしょう。』」
これは真実だったでしょうか? いいえ、嘘でした。 その嘘は必要だったでしょうか? いいえ、決して必要ではありません。 もし彼女が本当のことを言っていたら、神は偵察員たちを守られたでしょうか? 絶対に守られたはずです。ただ、神が彼らをどのように守られたかというストーリーが違っていただけです。このことは嘘を正当化するものではありませんが、彼らをかくまった彼女の勇気は称賛に値します。
こうして彼女は追っ手に対し、偵察員たちはすでに街を出たので、追いつきたければ急がなければならないと言って追い払いました。
一方、第6節です。
「しかし彼女は、彼らを屋上に連れ上り、屋上に並べてあった麻の茎の中に隠していた。それで、追っ手たちはヨルダン川への道を通って渡し場へと彼らを追った。」
——追っ手たちが彼らを追跡している間、当の二人はエリコの街の中、彼女の屋上の麻の下にいたのです。——
「追っ手たちが出て行くとすぐに、城門は閉ざされた。探照者たちが寝につく前に、彼女は屋上の彼らのところへ上って来て、言いました。『私は、主があなたがたにこの地を与えられたことを知っています』」
——素晴らしい告白です——
「『あなたがたの恐怖が私たちを襲い、この地の住民はみな、あなたがたの前に恐れおののいています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で紅海の水を干上がらせたこと、またあなたがたがヨルダンの向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグ』」
——二つの驚くべき物語です——
「『に対して行なったこと、すなわち彼らを全滅させたことを、私たちは聞いたからです。私たちがそれを聞いたとき、私たちの心はくじけ、あなたがたのゆえに、だれにももはや勇気が残りませんでした。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。』」
彼女はまことの生ける神を信じ、自分に与えられていたあらゆる啓示(神の情報)を完全に信じたのです。
「『ですから今、お願いです。私があなたがたに恵みを施したように、あなたがたも私の父の家に恵みを施すと、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠をください。私の父、母、兄弟、姉妹、また彼らに属するすべての人々の命を助け、私たちの命を死から救い出してください。』
すると探照者たちは彼女に言いました。『もしあなたが私たちのこの事を漏らさないなら、私たちの命をかけてあなたがたの命を守ろう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに恵みと誠意をもって報いよう。』」
物語の続きにあるように、彼女は彼らを送り出しました。
第16節で、彼らはこう告げられます。
「『追っ手たちに出くわさないように、山地へ行きなさい。追っ手たちが戻ってくるまで、三日の間そこに身を隠しなさい。その後で、あなたがたの道を行くとよいでしょう。』
探照者たちは彼女に言いました。『あなたが私たちが誓わされたこの誓いについて、私たちは免責されることになる。ただし、私たちがこの地に入ってきたとき、あなたが私たちを吊り降ろした窓に、この赤色のひもを結びつけ、あなたの父、母、兄弟、また父の家族全員をあなたの家に集めておかなければならない。』」
言い換えれば、多くの兵士が一気に押し寄せてくるため、一箇所に集まり、その家が示されていない限り、だれを助けるべきなのか兵士たちには分からないということです。
「『もしあなたが私たちのこの事を漏らすなら、私たちがあなたに誓わされた誓いから、私たちは免責される。』」
「彼女は『あなたの言われた通りにいたしましょう』と言いました。こうして彼女は二人を送り出し、二人は去っていきました。そして彼女は窓にあの赤色のひもを結びつけました。」
『ヨシュア記』第6章21節に移りましょう。少し前にも読みましたが、街の崩壊に関する記録としては、この21節を読むだけで十分でしょう。
「彼らは男も女も、幼子も老人も、また牛や羊やロバに至るまで、町にあるすべてのものを剣の刃をもって全滅させた。」
考えるだけでも、胸が痛むような凄まじい出来事です。
「ヨシュアは、その地を探った二人の探照者(偵察員)に言った。『あの遊女の家に行き、彼女に誓った通り、彼女と彼女に属するすべての者をそこから連れ出しなさい。』そこで探照者であった若者たちは入っていき、ラハブとその父、母、兄弟、また彼女に属するすべてのものを連れ出した。彼らは彼女の親族をみな連れ出し、イスラエルの陣営の外に置いた。彼らは町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。ただ銀や金、また銅や鉄の器だけは、主の宮の蔵納めに入れた。 しかし遊女ラハブと、彼女の父の家族、および彼女に属するすべてのものを、ヨシュアは生かしておいた。彼女は今日までイスラエルのうちに住んでいる。ヨシュアがエリコを探るために遣わした使者たちを、彼女がかくまったからである。」
エリコの街は拒絶されて滅ぼされました。しかしラハブとその家族は助け出されました。
カナン人の滅亡について、皆さんはどう考えますか? それを正当なことだと言えるでしょうか?
歴史家たちが語るところによれば、純粋に社会的な観点から見ても、このカナン人の街と彼らの文化全体が滅ぼされたことは、人類にとって大きな恵みでした。それほどまでに彼らは道徳的に落ちぶれていたのです。
どうか信じてください。神は罪を裁かれます。そして神には、ご自身が望まれるとき、望まれる場所で罪を裁く権利があります。そして神は、ご自分を信じず、ご自分の命令に従わない者たちを裁かれます。
しかしラハブの場合、彼女はまことの生ける神への信仰を告白しました。彼女はそれを信じ、そこに自分の命をかけたのです。屋上に探照者たちを隠すことで、彼女は自らを非常に危険な立場に置きました。彼女は「この神こそが本物の神である」という事実に命をかけたのです。人づてに聞いただけで直接目にしたわけではない神に対して、自分の人生を丸ごと投げ打つような、勇気ある行動でした。しかし、彼女はまことの神を信じたからこそ、命を助けられたのです。
『マタイによる福音書』第1章5節によれば、彼女はメシア(キリスト)の系図の中に組み込まれています。これは『ルツ記』ともつながってきます。『ヨシュア記』、『士師記』、そして『ルツ記』です。彼女は、ルツの夫となったボアズの母親なのです。つまり彼女は、ダビデ王の「ひいひいおばあちゃん(高祖母)」にあたります。なんと素晴らしいことでしょう。
ラハブが見せてくれたのは、絶体絶命の危険のただ中にあっても立ち続ける「勇気ある信仰」でした。信仰とはそのようなものです。置かれた状況が脅迫的であったり困難であったりしても、崩れ去ることはありません。本物の救いの信仰、神をしっかりと掴む本物の信仰は、どんな犠牲やコストを払うことになろうとも、正しいことを行い、神に従うのです。
これは本質的に、私たちにとって馴染み深いイエス様のあの言葉に集約されています。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい。」
その代償は死かもしれないし、十字架上の凄惨な死かもしれません。
さて、エリコの攻略はほんの始まりに過ぎず、彼らはカナンの地に入植し始めました。そして32節では、カナンの定住期から初期王政期に至る6人の人物が登場しますが、彼らについては次回学ぶことにしましょう。
天の父なる神様、今日という素晴らしい一日を心から感謝いたします。本当に豊かな時でした。今朝、祈りの部屋を満たした人々を感謝いたします。その多くが救い主を知りたいと切望していました。そのことを感謝し、彼らの人生の中であなたが進めておられる御業が、この世への執着や未練を打ち破り、その御業が完成して私たちが喜び、あなたの栄光が表されますように。
素晴らしい一日を感謝いたします。キースとクリスティン、そして今夜楽しませていただいた素晴らしい音楽を感謝いたします。私たちは教会として実に恵まれており、交わりに満ちています。しかし私たちを最も豊かにしてくれるのは、恵み深い聖霊によって私たちの心に植え付けられた真理の保証です。その真理を知り、受け入れ、その真理によって生きられることがどれほど豊かなことでしょう。
真の救いの信仰が「従順な人々」を生み出すのだということを、私たちがあらゆる意味で証しできますように。私たちが神の言葉に従い、それを喜びをもって行なう者として知られますように。
そして、私たちのただ中にいて、教会の周りにとどまっている人々——福音を頭では理解しながらも、この素晴らしい救いをないがしろにし、永遠の安息を逃し、後戻りしてより厳しい審判に直面する危険にある人々——のために祈ります。主よ、どうか彼らを完全にキリストのもとへ、キリストにのみ見出される霊的な全き全うへと導いてください。
今週、あなたに仕える私たちを用いてください。そして私たちが今も永遠にも与えられている恵みに感謝で満たされ、あらゆる意味で神に感謝する人生を送ることができますように。キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
