今夜、神の言葉に再び立ち返るにあたり、私が読むマタイの福音書7章21節から27節に耳を傾けることから始めていただきたいと思います。マタイの福音書7章21節から27節です。ここには、私たちの主イエスご自身の言葉が記されています。そしてそれは、実に驚くべき言葉であり、衝撃的な言葉であり、また悲痛な言葉です。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者が入るのです。その日には、多くの者が私に言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行わなかったでしょうか。』しかし、そのとき私は彼らに告げます。『私はあなたがたをまったく知らない。不法を行う者たち、私から離れ去れ。』
ですから、私のこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけましたが、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、家は倒れ、その倒れ方はひどいものでした。」
おそらくこれは、聖書全体の中で最も悲劇的な箇所でしょう。現実として、いつの日か主の前に立つ人々がおり、その多くの者は自分がまさに天国に入ろうとしていると思い込んでいるにもかかわらず、地獄に向かっているのだと告げられることになります。これは、人が抱き得る最悪の思い違いです。自分の永遠の行き着く先について、自分の救いについて思い違いをしているということです。
私はよく、「ローマ・カトリックの信者はキリスト教徒なのですか」という質問を受けます。そこで私は、こう問い返したいと思います。「プロテスタントは、生まれつき、あるいは常にキリスト教徒なのでしょうか」。では、もう一つの問いはどうでしょう。「福音派の人々は、必ずキリスト教徒なのでしょうか」。しかし、これらすべての問いよりも重要な問いがあります。「あなた自身は、キリスト教徒ですか」。もしかすると、あなたもまた、自己欺瞞に陥っている多くの人々の一人であるのかもしれません。あなた一人だけのことではないのです。
キリスト教の名のもとに、教会と自称していながら実際には教会ではない場所が数多く存在することを、私は確信しています。また、牧師と自称していながら牧師ではない者が人々を導き、キリスト教徒と自称していながらキリスト教徒ではない会衆が集まっています。彼らは教会ではなく、牧師ではなく、キリスト教徒でもないにもかかわらず、「キリスト教徒」というラベルを誇らしげに掲げているのです。
さて、私たちが前回のメッセージで13節と14節から学んだように、選択肢は二つしかありません。天国へと続く狭い門と、「天国」と表示されながらも地獄へと続く広い道です。狭い門を見つけるのは難しく、そこを通ることも困難です。なぜなら、自分自身を否定し、自分の義を否定し、罪を認識し、完全に悔い改め、キリストに服従し、どんな犠牲を払ってでも主に従い、従うという決意が求められるからです。
その真理を見つけ出すことは困難であり、またそれを耳にしても、罪人に生来備わっている自己愛と罪への愛のゆえに、その真理に基づいて行動することは困難です。天国への真の道を見つけるのは難しく、それは群衆から離れたところにあります。その道は狭いのです。あなたは裸で来なければならず、一人で来なければならず、悔い改めて来なければならず、入るために努力しなければなりません。
同時に、宗教的な人々の多くは広い道におり、彼らを後押しする偽預言者たちも大勢います。ちなみに、彼らについては15節から20節で取り上げられています。偽預言者、偽りの宗教指導者、キリストの偽りの代表者、そして実質的にはサタンの手先である神の偽りの代理人たち。彼らは光の御使いを装ったサタンの働き手であり、「天国」と書かれた標識の立つ、しかし最後は地獄へと至る道へと人々を導いているのです。私が長年宣教に携わってきた中で、この問題に対する関心の大きさに匹敵するものは他にありませんでした。
もちろん、ヒンドゥー教徒や仏教徒、イスラム教徒が地獄に行くのは悲劇です。無神論者やメシアを拒むユダヤ人が地獄に行くのも悲劇です。誰であれ地獄に行くことは悲劇です。しかし私にとって、悲劇の中の悲劇と思えるのは、何度も繰り返されてきたユダの悲劇です。イエスと一緒に過ごしながら、最終的にはサタンのものとなってしまうことです。それこそが本当の悲劇です。この分類に当てはまる牧師たちもいます。彼らはキリスト教徒でさえありません。そして、教会はそうした人々で溢れかえっています。いわゆる「教会」の中には、自分の本当の霊的な状態について欺かれている非キリスト教徒だけでほぼ構成されているようなところもあります。だからこそ、私たちが主の言葉に耳を傾けることは重要なのです。もし私がこの問題を心から心配しているのだとすれば、主はそれ以上に深く心を痛めておられることを信じてください。
そして、主がこれらの言葉を語られたとき、主は無宗教な人々に向けて話しておられたのではなく、きわめて宗教的な人々に向けて話しておられました。言うなれば、宗教に徹底的に打ち込んでいた人々に向けて語られたのです。彼らは宗教に心を奪われていました。実際、彼らは自分の社会生活、市民生活、経済生活、家庭生活、国家としての生活を、自らの宗教から切り離すことができませんでした。宗教はイスラエルのあらゆる部分に浸透していたのです。彼らは最も宗教的な人々であり、これ以上ないほど宗教に熱心な人々でした。しかし、彼らには神との交わりがなく、キリストとの結びつきもありませんでした。彼らは宗教的でありながら、滅びていたのです。間違った道にいました。パウロの言葉を借りるなら、彼らは信心の形を保ちながら、その実質を否定していたのです。彼らは自己欺瞞に陥っていました。
冒頭で述べたように、今日でも同じ状況が見られます。あらゆる場所に、何らかの形で神やイエスという概念とつながりを持ってはいながらも、神の生命も、神を知る知識も、いかなる救いも完全に欠落している人々が存在します。教会の中には、うまく行っていると思い込みながら、「イエスに夢中になっている」ような、欺かれた魂を持った人々が群れをなして存在しています。そして、この箇所における私たちの主の言葉こそが、こうした欺きに対処するための最良の言葉なのです。
そして、その欺きはどこか遠くの他人の話であるだけでなく、私たちのただ中にも存在しているものだと確信しています。グレース・コミュニティ・チャーチに集いながら、最終的に「主よ、主よ」と言い、ただ「不法を行う者たち、私から離れ去れ。私はあなたがたをまったく知らない」という言葉を聞くことになる人がいるとしたら、それこそ悲劇中の悲劇ですが、それは現実に起こることであり、実際に起きており、これからも起き続けるのです。
私たちの主は、ご自らの宣教の終わり近く、オリーブ山の説教においてさえこのことを深く心にかけておられました。マタイの福音書25章で主が語られたのは、花婿を迎えて婚礼の祝宴に出席するための準備をすべて整えていた乙女たちの物語でした。ただ一つだけ、彼女たちの内側に本当に必要だったもの、すなわちランプをともすための油が欠けていたのです。外側の準備はすべて整っていたにもかかわらず、霊的な光という内なる実質を持たないことを象徴する油がなかったために、彼女たちは永遠に シャットアウト(締め出される)ことになりました。
ここで語られている衝撃的な言葉、少なくとも私にとって最も衝撃的な言葉は、22節の最初の言葉である「その日には、多くの者が私に言うでしょう」という言葉だと思います。そして私は、この言葉を13節の「広い門から入って、広い道を進む者は多い」という言葉と結びつけずにはいられません。これはまったく同じ「多くの者」なのです。宗教的でありながら滅びている人々です。天国と書かれた標識が立っていながら地獄へと続く広い道を進む、あの同じ「多くの者」なのです。道の終わりにたどり着いたとき、自分は天国に迎え入れられると思い込んでいながら、天国の目と鼻の先から――正確に言えば地獄の入り口から告げられることになる、あの同じ「多くの者」なのです。天国に向かっていると思い込みながら、自分は地獄にいるのだと知ることは、どれほどの衝撃でしょうか。
何が人々をこれほどの欺きへと誘い込むのでしょうか。何がそうさせるのでしょうか。どのようにして、自分自身の欺き、自らの自己欺瞞の中で心地よく過ごし、それと気づくことさえもない状態にまで行き着いてしまうのでしょうか。
その要因となっているものをいくつか提案させてください。これをもたらしているものがいくつかあります。まず第一に挙げたいのは、福音に対する表面的な理解です。これは言わば「キリスト教界」を支配しているとまではいかなくとも、全体に深く浸透しています。福音の真の条件、救いと救いに至る信仰の本当の定義を理解していないということです。
私たちは福音に対して、あまりにも弱く、浅く、表面的で、軽んじられ、感情化され、心理学化されたアプローチをとっているため、キリスト教徒を自称する人々の大半は、救済という偉大な教義について意味のある説明をすることができません。彼らはそれを知りませんし、知ることも求められていません。なぜなら多くの場合、彼らを教える側の人間もまた、それを理解していないからです。そのため、人々は救いに至る信仰とは何か、救いの福音とは何かということさえ理解していないがゆえに、自らの霊的な状態について誤った理解を抱いてしまっています。
私のように人生の大部分を費やして、福音を明確にし、真に悔い改めるとはどういう意味か、キリストに真の信仰を置くとはどういう意味か、そして義認の教義が本当に意味するものは何かを明らかにしようとしてきた人間は、キリスト教会にとってある種の英雄とされるだろうと思われるかもしれません。しかし現実には、私はアンチヒーロー(嫌われ者)です。いわば人々の感情を踏みにじり、彼らの居心地のよい容認というベッドを侵し、分裂を引き起こす存在とみなされているのです。しかし、真理は常にそうするものであり、いつだってそうなのです。教会は福音についてあまりにも無知であるため、あなたが真の福音を宣べ伝えるとき、教会から誹謗中傷を受ける可能性が極めて高くなります。
今日もある記事を目にしました。ある雑誌で送られてきた15ページほどの記事ですが、キリスト教徒になることの意味について私が述べている内容を攻撃するもので、それを書いたのはキリスト教の牧師でした。断言しますが、今日のキリスト教界において真の福音を宣べ伝えることは、世の中で真の福音を宣べ伝えること以上に激しい戦いに身を投じることなのです。
したがって、人々がこの欺きへと誘い込まれる第一の理由は、彼らが福音の定義を知らないからです。彼らは教会と自称するどこかの「集会」に座り、キリスト教の牧師と自称する人物から教えを受け、キリスト教徒と自称する人々に囲まれて、自分がどんな状況にあろうと「自分はこれでいいんだ」と気分を良くさせられているのです。
これをもたらす第二の要因は、偽りの確信、偽りの安心感です。神に対して良い感情を持ち、愛と呼べるような感情的な惹かれ合いを神に対して抱いており、イエスを信じてイエスとつながりたいと望み、イエスと関わってイエスが行っておられることの一部になりたいと望み、イエスに自分を助けてもらって自分がなりたい自分にしてもらいたいと望んでいるなら、それで「合格」だという考え方です。そして、この考え方は肯定されます。ただこの祈りを唱えさえすれば「あなたはキリスト教徒ですよ」と言われるのです。お墨付きが与えられます。場合によっては、壇上に出てきてこの祈りを唱えれば、二重にお墨付きが与えられます。またある場合には、参加している集会に何らかの忠実さを示し、それがすべていわゆる「イエス」に関するものであれば、それもお墨付きとなります。
しかし何よりも、イエスに対して良い感情を持ち、自分の人生を修復して引き取ってほしいと願っていれば、あなたは肯定され、「大丈夫だ」とされます。自分の人生にイエスをお迎えしたいと言い、イエスを信じていると言い、イエスに祈って自分の人生を修復してくださいと頼み、正しい言葉を口にし、イエスの名のもとに行われる出来事に対して正しい感情的反応を示している限り、あなたは大丈夫なのです。それどころか、あなたはその気にさせられます。定期的に肯定されます。「神はあなたを愛しておられ、無条件で愛しておられます。神が望んでおられるのは、あなたの人生におけるすべての夢と望みを叶えることだけです。あなたがここにいて神への愛を示しているのだから、あなたは祝福されるばかりの場所にいるのです」と。
このように、福音における定義の欠如と、あらゆる人を気分良くさせ、イエスについて語る人々の周りにいさえすれば神との関係は良好なのだと安心させたいという強烈な願望の両方が、人々を誘惑し、自分は神と正しい関係にあるという夢へと惑わしているのです。しかし、実際には正しい関係にありません。
第三の要因があります。それは、自己吟味の欠如です。自己吟味を怠ることです。誰かが私に向かって「自分が本当にキリスト教徒なのかよく分かりません」と言ったとき、私の即座の返答はどうあるべきでしょうか。「何を言っているのですか、もちろんキリスト教徒ですよ。あなたはこちらにいるではないですか。祈りを唱えたことはありますか? 祈祷室に行ったことはありますか? 何を言っているのですか。もちろんあなたはキリスト教徒です。自分を見てごらんなさい。聖書を持っているでしょう。おいおい、マッカーサー著の注釈付き聖書(Study Bible)を持っているじゃないですか、それならキリスト教徒に決まっていますよ。一体どういうつもりですか?」
しかし、誰かが私に「自分が本当にキリスト教徒なのかよく分かりません」と言うなら、私の即座の返答は「あなたがキリスト教徒ではないと感じる理由は、あなたがキリスト教徒ではないからかもしれません」というものです。誰かの抱く疑問を適当になだめて通り過ぎるよりも、誠実な自己吟味を求めることの方がはるかに重要なのです。もし自分の救いを疑うのであれば、疑うだけの理由がそこにあるのです。それが正当な理由ではない場合もありますが、正当な理由である場合もあります。自分が天国に向かっていることを疑うだけの、正当な理由があなたにはあるのかもしれません。自分が信者であることを疑うだけの、正当な理由があなたにはあるのかもしれません。そして、あなたの歩みに確かな実を見出し、「これは不必要な疑いであり、あなたを救われた神を信頼しないという誘惑に負けているだけだ」と十分に推測できるようになるまでは――そして仮にそうなったとしても私には確信など持てませんが――私は「疑いがあるのなら、もしかすると疑うべき理由があるのではないか」という事実を追及します。
しかし、こうした姿勢は受けが良くありません。実のところ、私が今みなさんに語っている言葉は、いわゆる「キリスト教会」と名のつく多くの場所で、断固として拒絶されるような言葉でしょう。「何だって? 人々の救いを疑うというのか? 一体自分を何様だと思っているんだ?」と。
ですが、私はただマタイの福音書7章にあるイエスの言葉を今の世代に適用し、人々が神との関係について巨大な錯覚の中で生きているという事実、そしてまさにその状態にある人々が数多く存在するという事実を、確実に伝えようと努めているに過ぎません。これは私のメッセージではなく、大牧者のメッセージです。私はただの小さな牧者に過ぎず、そのメッセージを取り次いでいるだけなのです。
そして今の私たちは、あまりにも恵みばかりを重視しがちです。人々をひたすら気分良くさせたいと願っています。人から好かれたいと思っています。対立を嫌うため、人々の霊的な状態に疑問を投げかけたくないのです。あまりに恵み重視であるため、人々が自分の罪について心を痛めることを望まず、神の愛について幸せな気持ちになってほしいと願っています。しかし、それは聖書的ではありません。
コリント人への手紙 第二 13章5節には、私たち全員が聴くべき言葉があります。これは使徒パウロが、自らの人生のうち約2年を費やした教会、人々がキリストを告白し、バプテスマを受け、パウロから教えを受けたコリントの教会に向けて語った言葉です。パウロがこの『第二の書簡』を書くまでに、すでに他の3通の手紙(『第一の書簡』と、聖書に収められていない他に2通の手紙)を書き送っていた、あのコリント教会です。この教会はこの人から非常に多くの教えを聞いてきました。そして、この13章に至るまでに、御霊の感動によって書かれ聖書に収められた2通の手紙だけで、合計29章分もの言葉が彼らに与えられているのです。それにもかかわらず、パウロは13章5節で彼らにこう語っています。
「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、自分自身を吟味しなさい。それとも、イエス・キリストがあなたがたの内におられることを、自分自身で認識していないのですか。あなたがたが失格者であれば別ですが。」
使徒パウロのもとで長年宣教に触れ、パウロや彼に遣わされた使者たちから長年指導を受け、長年にわたってキリストを告白し認めてきた人々に対して、彼は「あなたがたは一番最初に戻り、自分が本当に信仰に生きているかどうか自ら吟味しなければならない」と言っているのです。実のところ、これは教会の歩みの中で日常的に行われるべきことです。
それはどういう意味でしょうか。あなたが主の晩餐の席につくたびごとに、コリント人への手紙 第一 11章、主の晩餐の席につくたびごとに――26節――「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。したがって、不相応なままで主のパンを食べ、杯を飲む者は」――そしてそれは確実に、真に救われていない人物のことですが――「主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」
もしあなたが偽りのキリスト教徒でありながら聖餐を受けるなら、あなたは主の死に対して罪を犯すことになるのです。「人は自分自身を吟味すべきです。」主の晩餐の席につくたびごとに、そこは自己吟味の時となります。もしそれを行わないのであれば、もしそれを行おうとしないのであれば、あなたは自らの自己欺瞞の中に居心地の良い場所を見つけてしまっている可能性が高いのです。
人々をこの錯覚へと誘い込む第四の要因があると考えています。それは、宗教的な活動への執着です。宗教的な活動への執着。教会にいること、キリスト教徒と自称する人々と一緒にいること、いわゆる「準キリスト教文学」を読むこと、今日非常に多くの人が感じているように神について語り、霊的であると感じること。聖書研究に参加することや、何らかのキリスト教団体の一員であることさえ含まれます。こうしたことが人々を、「自分は救われているのだ」という欺きへと誘い込みます。
ああ、キリスト教界はあらゆる種類の宗教活動に携わる人々で溢れかえっています。あらゆるキリスト教団体について考えてみてください。まさにきりがありません。あらゆるキリスト教出版物――本、音楽、ありとあらゆる種類の文書、テレビ、ラジオ――について考えてみてください。際限がありません。どれほど多くの人々が、これらすべてに関わっていることでしょうか。ローマ・カトリック、正教会から始まり、カルト教団を含むキリスト教を標榜するあらゆるもの、そして自由主義プロテスタント、各宗派、あらゆる異なる形態の教会に至るまで、すべての教会について考えてみてください。そして今や、あちこちに新しい教会が次々と誕生しています。今日の考え方は「自分の教会を立ち上げる」というものです。召命を受けたり、賜物を与えられたり、訓練を受けたり、按手されたりする必要はなく、ただ起業家精神を持っていればよいというわけです。至る所でこうした教会が立ち上がり、リーダーの個性に合わせて「教会とはどうあるべきか」を再定義しています。そして人々を巻き込んでいるのです。
先日、私の住む地域のすべての人に届いた、誰かが見せてくれたチラシがあります。「ニュー・テクノ・チャーチ」。そこでは「ブレイクダンスをするイエス・ボーイ」が目玉となっています。ニュー・テクノ・チャーチのブレイクダンス・イエス・ボーイです。今やそれは多くの人々を巻き込んでいます。そして彼らが集まるときにはこう書かれています。「来るときには、自分の持ち物を持ってきてください。ラップのアルバムやターンテーブルを持ってくれば、ディスクジョッキーになれます」と。その状況で何が起きているかなど、誰に分かりましょう。ブレイクダンス・イエス・ボーイとつながっていると感じている、あらゆる人々を巻き込んでいるのです。あまりに滑稽でバカバカしいため、私たちは笑ってしまいます。しかし、それは悲劇中の悲劇なのです。至る所に、どこにでも宗教活動が存在しているのです。
人々を欺きへと誘い込む第五の特徴があると思います。私はこれを「公平な引き換えアプローチ(見返り勘定の姿勢)」と呼びたいと思います。「公平な引き換えアプローチ」です。これは実によくあるパターンです。たいていこのように始まります。「私は基本的に良い人間です。」
神を信じており、悪い人間に対して自分は良い人間であるという考え方です。つまり、24時間という時間の中で、その大半の時間を暴力的犯罪に費やしていないということです。そのように考えるわけです。すべては時間を積み上げることにかかっています。「一日に何時間、犯罪を犯しているだろうか? まあ、犯罪を犯す日なんて滅多にない。それ以外のたくさんの日は罪を犯していないのだから、私は基本的に良い人間だ。」あるいは、「一ヶ月のうち何時間、誰かを強姦しているだろうか? ああ、たまにはあるかもしれないが、ほとんどの時間は基本的に良い人間だ。」そのように機能するのです。彼らは時間割の上で何となく帳尻を合わせているのです。
私たちはまた、自分の罪を何か良いことで相殺しようとする傾向もあります。「おいおい、聞いてくれよ、私は家族を養っているんだ。家族を養っているんだよ。確かに時々つまずいて妻に不誠実になったり、所得税をごまかしたりもするさ。だがこれだけは言える。土曜日になれば子供をリトルリーグに連れて行っているんだ。私は良い父親だよ。」本当にそうでしょうか?「そうさ。神が私を天国から締め出すはずがない。なんと言っても私は神を信じているし、イエスだって信じている。それに基本的に良い人間なんだから。」
言うまでもなく、これこそが宗教における最大の嘘です。その嘘を鵜呑みにするためには、神は不敬虔な者だけを義と認められるという事実を忘れなければなりません。ですから、自分が不敬虔であり、それを自覚するまでは――あなたはすでに不敬虔なのですが、ただそれを自覚していないだけです――しかし自分が不敬虔であるという自覚に至ったとき、初めて義とされる希望が生まれるのです。それまでは希望はありません。この考え方は多くの人に通用してしまっています。こちらに少しの悪いこと、こちらに少しの良いこと、はい、バランスを取って「自分は良い側にいるから大丈夫だ。神が私を天国から締め出すはずがない」というわけです。
人々に偽りの安心感を与える姿勢のリストには、もう一つの要素があります。それは、聖書的道徳への親しみ(熟知)です。聖書的道徳への親しみです。彼らはこう言います。「ああ、私は聖書が言っていることを否定なんてしないよ。聖書的な道徳観を信じている。同性愛に賛成ではないし、結婚制度や家族制度に反対でもない。それに賛同しているんだ。性的関係は結婚の中でのみ、夫と妻の間で行われるべきだと思う。私はその道徳観を保持しているのだから、天国に向かっているに違いない。」
そして、この分類に当てはまる人々は数多く存在します。例えば、モルモン教徒を考えてみてください。必ずしも常にそうなるとは限りませんが、彼らはこれが自分たちの生き方だと主張します。「聖書を曲解しようとしているわけじゃないんだ。いいかい、私には聖書に対する異論はない。実は聖書に何が書かれているかはよく知らないけれど、これらは聖書が推進しているようなことだと思うし、私はそれを支持しているんだ。」
しかし、これらすべてのことは大きな欺きに過ぎません。なぜなら、これらのものはあなたの救いとは一切関係がないからです。何一つ関係ありません。本当の問題はここです。欺かれ、錯覚に陥っている人々は、狭い門を通ることに失敗しているのです。狭い門を通ることに失敗しているのです。
それはどういう意味でしょうか。罪に対する悔い改め、罪の告白、キリストの主権への服従、打ち砕かれた心、謙遜、痛悔の心、何があっても主の言葉に従うことです。
マーティン・ロイドジョーンズは次のように書きました。
「私たちの祝福された主が何よりも求めておられるのは、私たち自身、すなわち聖書が私たちの『心』と呼ぶものです。主は内なる人、心、私たちの服従を求めておられます。主は単なる私たちの告白や熱心さ、情熱、奉仕の実績などを求めておられるのではありません。主は私たち自身を求めておられるのです。神は私たちの捧げ物を求めておられません。私たちの生け贄を求めておられるのではなく、私たちの従順を求めておられるのです。主は私たちがご自身に献げられることを求めておられます。正しいことを語り、非常に多忙かつ精力的に活動し、一見素晴らしい結果を達成しながらも、自分自身を主に献げていないということはあり得るのです。そしてそれこそが、私たちが神に対してなし得る最大の侮辱なのです。ロイドジョーンズは言います。『主よ、主よ』と情熱的に呼びかけ、多忙かつ精力的に活動しながらも、主への真の忠誠と服従を拒み、自らの人生の主導権を握り続けることを固執し、聖書の言葉ではなく自分自身の意見や議論によって自らの行動ややり方を支配させること以上の侮辱が、一体ほかにあるでしょうか。これこそが、主に対する最大の侮辱なのです。」
そして、欺かれている人々にはいくつかの分類があります。第一に、表面的な人々です。彼らが自らをキリスト教徒と呼ぶのは、子供の頃のどこかの時点でキリストを受け入れたから(この決まり文句を使いましょう)、あるいは神を信じたからです。彼らは無知であり、献身していません。彼らが「表面的な人々」と呼ばれるのは、キリスト教に対して表面的な接触しかしてこなかったからです。人生における何らかの出来事であり、おそらく両親によって補強されたものでしょう。彼らはそのために神との真のつながりがあると思い込んでいます。しかし彼らはただ表面的であり、すべては過去の出来事に過ぎません。彼らはそれを過去のものとし、解決済みとし、人生に必要なその手続きを済ませたと思い込んでいます。彼らの姿を見かけるのは、クリスマスとイースターの時だけです。イースターに彼らが教会にやってくると、「メリー・クリスマス」と言いたくなるほどです。なぜなら、その時まで二度と会うことがないからです。
そして次に、表面的ではなく、非常に深く関わっている欺かれた人々がいます。彼らは教会中に存在します。イエスは彼らを「毒麦」と呼び、麦の中に蒔かれたものと言われました。彼らは教会についてよく知っています。教会の歩みについて知っており、教会の活動に参加しています。聖書についても少しは知っており、聖書のお話を知っています。教会用語、ある程度の「イエス物語」の文脈を知っています。聖書のお話をいくつか話すこともできます。神学も少しだけ知っていますが、それは危険であるには十分な程度の知識です。
しかし、そこには真の謙遜もなく、打ち砕かれた心もなく、敬虔さもありません。彼らはただそこにいるだけです。関わってはいるのです。物事を深く考えようとはしません。彼らは誰かを欺こうとしているわけでも、偽りのキリスト教徒になろうと企んでいるわけでもありません。現にそうなのですが、自分自身ではそのことに気づいていません。ただ「ああ、ここにいるのは自分の同類だ。ここが私の居場所なんだ」と思いながら、なんとなく教会の活動に合わせているだけなのです。
ですから、表面的(形だけ)な人々がおり、深く関わっている人々がいます。そして第三に、偽善者たちがいます。彼らは自分が信者ではないことを知っています。日曜日に教会に現れますが、その場所を抜け出してポルノや不法な関係、邪悪で不義な行いへと戻るのが待ちきれないのです。ああ、関わっている人々について言えば――彼らは自分の倫理観や道徳観を向上させようと努め、聖霊の助けなしにできる限り良い人間になろうと努力しています。それは実に困難であり、実際には不可能です。しかし偽善者たちは、自分になれないものになろうとする努力を放棄しており、教会に現れるときだけある姿を装い、それ以外の時間はありのままの自分でいるのです。
これらの人々は皆、自分が欺かれていることに気づいているでしょうか。ああ、表面的な人々はおそらく本当に欺かれており、そのことに気づいていません。関わっている人々も欺かれており、そのことに気づいていません。そして私たちが思うに、偽善者たちの大部分は、欺かれているのではなく自ら人を欺いているのです。彼らがそこから何を得ようとしているのか、私には分かりません。
さて、あなたがこのような教会、あるいはどこかの教会にいて、手助けをしたいと望み、「よし、ここには毒麦がいる。そして教会で事を行い、活動に関わり、キリスト教というものに取り組んでいる人々がいる。また、たまにしか、飛び飛びでしか現れない人々もいる。彼らは表面的な人々だ。そして、長年それに熟練してきた人々によって実に見事に演じられている、巧妙に作られた偽善が存在している。私たちはどのようにしてこれらの人々を助けたらよいのだろうか。彼らのために、その仮面を脱がせるにはどのようにアプローチすればよいのだろうか」と言うとしましょう。あなたは何に目を向けますか。欺かれている人は、自分が欺かれていることをどのようにして知ることができるでしょうか。私たちは、欺かれており、また人を欺いている人物をどのようにして見抜くことができるでしょうか。
いくつかの提案をさせてください。ちなみに、このメッセージにおいて私はまだ導入部分を話しているに過ぎません。注目すべき点は以下の通りです。
欺かれている人々を探すときには、感情、祝福、体験、癒やし、御使いなど、信仰の副産物にしか関心がなく、キリストご自身には関心がない人々を探しなさい。彼らは、キリストの栄光、誉れ、素晴らしさ、美しさ、荘厳さに心を奪われていません。キリストをほめたたえ、愛し、仕え、従い、ひれ伏し、高め、宣べ伝え、礼拝し、告白することに心を奪われていないのです。彼らはただ、キリストに付随する副産物のためにそこにいます。「私に祝福をください。霊的な体験をください。霊的な高揚感をください。良い気分をください。癒やしをください。繁栄をください」と。
数年前まで、繁栄の神学は、より大きなペンテコステ・カリスマ運動の中のほんの小さな一部に過ぎなかったという事実に気づくのは興味深いことです。今やそれは運動全体を飲み込んでしまいました。運動全体が、人々に神の副産物を与えること(しかし神ご自身ではない)、キリストの副産物を与えること(しかしキリストご自身ではない)を前提として成り立っています。彼らはキリストを求めてはいないのです。
病であれ健やかであれ、私にキリストを与えてください。富んでいても貧しくても、私にキリストを与えてください。生きていても死んでいても、私にキリストを与えてください。私の罪のためにキリストを、私の導き手としてキリストを、私の力としてキリストを、私の王としてキリストを与えてください。キリスト以外のものを得るかどうかなど、私にはどうでもよいのです。
今日耳にするのは、そのような言葉ではありません。実際、もしそれがあなたのメッセージであるなら、群衆は急速に去っていく可能性が高いでしょう。ですから、欺かれているかもしれない人々を探すときは、キリストではなく、自分の望む副産物だけを求めている人々に注目しなさい。そしてジョン・パイパーが言うように、「福音は、罪人が生まれながらに望んでいるものを罪人に提供するのではない」のです。
生まれながらの罪人は何を望んでいるでしょうか。良い気分、祝福、癒やし、幸せ、富、金、成功、自分のために働く大勢の御使いです。救われていないすべての人間は、生まれながらにそれを望んでいます。それは救われていない心の中に働く御霊の御業による結果ではありません。福音は、罪人がすでに望んでいるものを罪人に約束するものではありません。福音は、罪人が望んでいないもの、すなわち義、聖さ、赦し、天国、そしてそれらすべてを統べるキリストを約束するのです。
そして、世の中のキリストに対する態度はどのようなものでしょうか。彼らはキリストを憎んでいます。だからこそ私たちは、キリスト者が迫害されることについて学ぶのです、そうではありませんか。「あなたがたは私の名のために、すべての人に憎まれます。彼らが私を憎んだように、あなたがたを憎むのです。」救われていない人間は、自分を地獄に向かう惨めな罪人であり、救いを切実に必要としている存在だと再定義する福音に対して、親近感を持ちません。そしてその救いを得るために、彼は自分自身を捨ててキリストを受け入れなければならないのです。したがって、キリストではなく、贖われていない状態のままで自分が望むあらゆる副産物を求めている人々に注目するのです。
第二に、聖書よりも「教会」に深く関わっている人々、いわゆる「教会や聖書」――教派、運動、グループ――によりコミットしている人々に注目することができます。なぜなら、それは単なる社会的な集まりである可能性が非常に高いからです。ああ、単に世俗的な集まりというだけでなく、霊的なニュアンスを帯びた一種の社会的な集まりです。「神様関係の活動に関わるのは気分がいいな」というようなものです。人々が「ねえ、僕たちの集まりにおいでよ。ここで神様関係の素晴らしいことが起きているんだ」と言うのを聞くことさえあります。それは神を中心とした一種の社会的融合体なのです。そして、彼らがコミットしているのはそこであり、神の言葉に対してではないのです。
どのようにして神にコミットしながら、神の言葉にコミットしないなどということがあり得るでしょうか。「ああ、本当に神様とつながりたいんです」などとどうして言えるでしょうか。わかりました、あなたが神とつながりたいと言うなら、神が言っておられるのはこういうことです。「自分の罪を告白し、悔い改め、唯一の救いの希望として神の御子を受け入れなさい。」これが神の最初のお言葉です。そして、もしあなたがこれに同意し、行おうとしないなら、あなたは永遠に地獄へ行くことになります。
さて、神が次に何と言っておられるか聞きたいですか? おそらく私たちはそこから始めて、次に「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」に取り組むことになるでしょう。それから「自分の父、母、姉妹、兄弟、さらには自分のいのちまでも憎みなさい」に取り組み、その上で「費用を計算しなさい」について語り合うことになるのです。「おっと、ちょっと待ってくれ。神はそんなことまで求めているのか?」と。
そしてちなみに、神の律法が神の律法であるのは、それが神の聖なるご性質の反映だからであり、神の律法が変わることはありません。神の道徳律法は、あなたの情熱とならなければならないのです。「何だって?」 それは別の言い方をすれば、今あなたが愛しているすべてのことを憎まなければならず、今あなたが憎んでいるすべてのことを愛さなければならないということです。その覚悟はできていますか?
神の言葉に従うために神の言葉を知ろうとするコミットメントよりも、何らかの組織、何らかの場所、何らかの人々のグループへのコミットメントの方がはるかに強い人々を探しなさい。
私には何の幻想もありません。人々がなぜこの教会に来るのか、私には分かっています。あなたがなぜここにいるのか分かっています。あなたが神の言葉を真剣に受け止めているからここにいるのですね、違いますか? ここは見世物小屋(ドッグ&ポニー・ショー)ではありません。ごらんの通り、私は毎週ここに出てきて、先週やったのとまったく同じことをしています。この教会には変化やバラエティなどありません。しかし、あなた方はここでバラエティ番組のような演目を求めてはいないのです。今週はジャグラー、来週は踊る馬など必要としていません。楽しませてもらう必要も、ロックバンドも必要ないのです。あなた方はただ一つの理由でここにいます。「神の言葉が何と言っているのかを教えてくれ。」それが、あなたがここにいる理由です。私はそれを知っていますし、私たち全員が知っています。だから私たちはここにいるのです。
時として人々はこう言います。「まあ、あなたの教会にしばらく通っていたんですが、車で15分かかりますし、もっと近くに場所を見つけたものですから。」本当にそうですか? そこで彼らは聖書を教えているのですか?「ああ、いいえ、あなたのようには教えていません。でも、私たちのいる場所から近いものですから。」ああ、そうですか、なるほど。あなたがどんな状態にあるか、見抜くのは難しくありませんね。
人々がここに来る理由、そして来ない理由はただ一つです。絶え間なく神の言葉に晒されることを望まないからです。もし私が神の言葉を聞きたくもなく、神の言葉に関心もないのなら、私だってここには来ないでしょう。私からの説教を一本でも聴いたら、「もう二度とあそこには行かない」と言うはずです。いいですか、もしあなたが神の言葉に耳を傾けず、神の言葉に関心がないのなら、ここは居るべき場所ではありません。なぜなら、ここではそれ以外のことは何も起きないからです。ですから、もし新しい波がやって来るのを待っているのだとしたら、そんなものはやって来ません。
救われているのか疑問に思うような、第三のタイプの人々がいます。彼らは個人としての聖さのためというよりも、学問的な関心として神学に深く関わっている人々です。こんなことは言いたくありませんが、この国の至る所にある神学校は、聖書に対する学問的関心、神学に対する学問的関心を持ちながら、神をまったく知らない教授たちで満ちあふれています。ですから、彼らが聖書の意味だと考えているものは、おそらく聖書が意味しているものではありません。生まれながらの人間は、たとえ学者であっても、神の事柄を理解することはできないからです。自由主義(リベラル)の教授たちでいっぱいの神学校が、福音を正しく理解できず、創世記を正しく理解できず、旧約聖書を正しく理解できず、何一つ正しく理解できないのも無理はありません。なぜなら救われていない人々は、どれほど高レベルの教育を受け、神学的な訓練を受けていようとも、それを正しく理解することが依然としてできないからです。コリント人への手紙 第一 2章が言っているように、神の御霊だけが神の御心を知っておられ、御霊だけが理解を与えることができるからです。ですから、個人としての聖さと個人の礼拝のために神の言葉に関心を持つのではなく、神学や聖書に対して学問的な関心しか持っていない人々を探しなさい。
ご存知のように、私が聖書から汲み取っているものは二つあります。第一は、私自身の心の中における御言葉の働き――きよめ、精錬です。それはヨハネの福音書15章にあるように、枝を刈り込むナイフのようなものであり、洗い流す水のようなものです。そして第二の要素は、それが私自身の心、そして真の信者の心を責め、きよめるだけでなく、新しい方法で私たちが礼拝できるようにしてくれるということです。新しい箇所を開くたびに、神に関する新しい事柄が解き放たれます。私が進むすべての節――私は実にゆっくりと進みますが――すべての節が、神を賛美する天使たちの声の旋律となって私の内で爆発し、理解のための新しい展望を開いてくれるのです。では、私は聖書から何を汲み取っているのでしょうか。私自身の人生において個人の成長と聖さをもたらすもの、そして私の礼拝を広げてくれるものです。私は学問的な理由で聖書を読むことは決してありません。絶対にありません。
欺かれている人に見られるもう一つの特徴は、常に神学の一点だけに固執している人です。私は人生を通じて、このような人々に何度も出くわしてきました。彼らは過剰に強調された神学の一点だけを扱い、そのような一風変わった自説を説明するためのプラットフォーム(発表の場)ばかりを求めています。彼らが私に手紙を書いてくるとき――あなたもこの手紙のタイプを知っているでしょう――小さな文字で、行間も空けず、用紙の四方の端までぎっしり書き込み、さらには封筒全体にまで書き殴っています。そして彼らの言うことすべてが、全く同じ一点についてなのです。彼らが望んでいるのは、自尊心の欲求に突き動かされたプラットフォーム(発表の場)だけなのです。真のキリスト教徒においては、神学の突飛な側面に執着するようなことはなく、むしろキリストのうちに見出される知恵と知識のすべての宝を素直に受け入れる、開かれたバランスが存在していることに気づくはずです。
もう一つ――あと二つだけ挙げておきましょう。自己欺瞞の状態にあるかもしれない人々を探す際に見るべきもう一つの特徴は、彼らが「恵み」という名のもとに過剰に甘えている(図に乗っている)ことです。「恵み」という名のもとに過剰に甘えているのです。別の言い方をすれば、彼らには痛悔の心(悔い改める心)が欠けています。真のキリスト教徒においては、絶え間ない心の打ち砕かれが存在します。自分には至らない点があるのだという認識が常にあるのです。私たちは常に自分の罪を告白する者であり、そうすることによって、ヨハネの手紙 第一 1章にある通り、私たちが常に赦されている者であるという証拠を示すのです。自分の罪に対して過剰に甘く、恵み――一種のスーパー恵み、寛大すぎる恵み――を理由に、自分の望む生き方や生活態度を肯定し、悔い改めの心や打ち砕かれた心、謙遜さを欠いている人々を見かけるなら、あなたが対峙しているのは欺かれている人物である可能性が十分にあります。
そして最後にもう一つ――すでに語ったことではありますが、リストに加えておきましょう。第六に:神を自分自身の目的を果たすための手段として見ている人々を探しなさい。神を自分自身の目的を果たすための手段として見ている人々です。「やりたいことがたくさんある、計画もある、夢もある、野心もある。そして、神がそれを達成するのを助けてくれると教えてくれるなら、神とつながりたい」――それこそがジョエル・オースティンです。彼は異端者です。それはキリスト教ではありません。キリスト教ではないのです。そしてそこは教会ではありません。異端です。神は、擦れば飛び出してきて「ジャジャーン、願い事を三つ叶えましょう」と言うランプの魔人ではありません。それはキリスト教ではありません。真のキリスト教に似てさえいないのです。神を自分の目的を果たす手段と見なしている人々を、あなたは助ける必要があります。
悲しいことに、教会と呼ばれる場所の近くにおり、時には本物の教会の近くにおり、そのうちの何人かは私たちのこの教会にさえいながら、このような生き方をしている人々は、滅びへの道を歩んでいます。彼らは「主よ、主よ、私たちですよ」と言う多くの者たちの中に含まれ、ただ「私から離れ去れ。私はあなたがたをまったく知らない」という言葉を聞くことになるのです。彼らは自分が天国に向かっていると思い込んでいますが、そうではないのです。
さて、このことをもって、私たちはこの本文の導入とします。みなさんがこれをまだ滑稽だ(ユーモアがある)と思っておられるようで嬉しく思います。それによって私には将来への希望が与えられます。私たちはこの本文に戻り、イエスの教えの中で最も刺激的で強力な教えの一つ、すなわち「空虚な言葉の愚かさ――実質を伴わない口先だけの告白、悲劇の中の悲劇」について、より深く探求していくことになります。しかし今は、頭を垂れて祈り、今夜主が私たちに与えてくださったものについて主に感謝を捧げましょう。
天の父よ、最後の審判の雨と神の御怒りの洪水が押し寄せるとき、人生が破壊され、裁判の前に立って「ああ、主よ、私ですよ。主よ、主よ」と言いながら、ただ「私はあなたがたをまったく知らない。不法を行う者たち、私から離れ去れ」と聞くことになる空虚な心から発せられる空虚な言葉を考えるとき、それは何と悲劇的なことでしょうか。父よ、あなたの御力によって不法を行うことをやめ、あなたの御心を行い始めていない者はみな、欺かれている者たちであることを私たちは知っています。
真の信者を特徴づけるものは何でしょうか。今夜のバプテスマでも耳にしたように、彼らはもはや罪の奴隷ではなく、義の奴隷となった者たちです。一方で、これをすべて肯定的に捉えるならば、どのようにして真の信者を見分けることができるでしょうか。キリストへの愛に心を奪われ、神の言葉への飢え渇きに心を奪われ、聖であり義でありたいと切望し、謙遜であり心が打ち砕かれた状態でありたいと切望し、何よりも心から従順でありたいと望み、礼拝することを切望し、どれほど従っても、どれほど礼拝しても従い足りず、礼拝し足りないと感じる――これらすべてが、変えられた人生の証拠なのです。
そして父よ、今夜私たちのただ中に、ご自身の本当の霊的状態について欺かれている人がいるならば、主よ、光がともされ、彼らが現実を直視することができますように。彼らに義への飢え渇きを与えてください。キリストへの圧倒的な愛を与えてください。自らを低くし、罪から立ち返り、主権者であり深く恵み深くあわれみ深い主にひれ伏す奴隷として、キリストに従う望みを与えてください。礼拝したいという望みを与えてください。生まれながらの心、贖われていない心の欲望から彼らを解放してください。生まれ変わった者にしか属さない欲望――従順、服従、謙遜、聖さ、礼拝――で彼らの心を満たしてください。
父よ、ただあなたの御業を行ってください。私たちが求めることができるのはそれだけです。私たちの役割は、真理を伝え、警告を与え、私たちの祝福された救い主の言葉を繰り返すことだけです。そして主よ、今夜私たちが耳にしたことを通して、あなたの御霊が人々の心の中で力強い御業を成してくださるようにお祈りいたします。救い主のお名前によって感謝してお祈りいたします。アーメン。
