今夜、聖書を開き、ヘブル人への手紙の継続的な学びとして「ヘブル人への手紙 第3章」をお開きいただければと思います。今回は7節から19節までを扱います。ヘブル人への手紙 3章7節から19節です。
創世記からヨハネの黙示録に至るまで、聖書は「警告の標識(サイン)」で満ち溢れています。それらは、もし人間が罪の道を歩み続けるなら避けることのできない「神の怒り」から、人々を引き留めるために神が設置されたものです。聖書全体を通じて、様々な状況、様々なフレーズ、様々な言葉を用いて、神は人々に警告を発しておられます。
なぜなら、旧約聖書が「神は悪人の死を喜ばない」と語り、新約聖書が「神はだれも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに進むことを望んでおられる」と語っているからです。人間が地獄に落ちることは、神が人を創造された本来の目的ではありません。だからこそ神は、自らの啓示全体を通して、人々に警告を与え続けておられるのです。
そして、このヘブル人への手紙 3章7〜19節に到達した私たちが目にするのは、未贖いの人々――罪の道を歩んでいる人々――に対する神のもう一つの警告です。手遅れになる前に、イエス・キリストへと立ち返りなさいという警告です。
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さて、これらの節に見られるこの明確な命令(警告)について、少し背景をお話ししておきましょう。
覚えているでしょうか、ヘブル人への手紙は「ユダヤ人のコミュニティ」に向けて書かれました。彼らは初代の使徒や預言者たちの訪問を受け、その宣教のもとで福音を聞いた人々でした。
その中には、信じて救いに至った者たち(第1のグループ)がいました。
一方で、信じてはいるものの自らを委ねきれず、信仰の境界線(崖っぷち)にとどまり、迫害への恐れや自らの罪への愛ゆえに「委ねる」ことを拒んでいる者たち(第2のグループ)がいました。
そして、まったく納得しておらず、ただそこに居合わせているだけの者たち(第3のグループ)もいました。
したがって、私たちがヘブル人への手紙を読む際、著者がこれら「3つのグループすべて」を念頭に置いて書いていることを忘れてはなりません。手紙のある部分は新しく生まれたクリスチャンに直接向けられ、ある部分は何も受け入れようとしない未信者に向けられています。そして、ある部分――例えば今回の箇所――は、知的には理解しており、福音を知っており、決断の「刃の上の境界線」に留まっている未信者たちに向けて書かれているのです。
今夜私たちが学ぶこの箇所は、イエス・キリストへの信仰の境界線にとどまり、未だ自らを委ねていないすべての人に対して、聖霊が超自然的な「巨大な背中のひと押し」を与えようとされる極めて重要なテキストの一つなのです。
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そして、皆さんご承知の通り、そのような状態にある人々は世の中に大勢います。
知的(頭)では福音に応答し、それを信じてはいるものの、決して自らをその信仰に委ねたことがない人々です。イエス・キリストを救い主、主として受け入れ、罪から悔い改め、全心全意をもってキリストへと立ち返るという「完全な委ね(コミットメント)」に至っていない人々です。
あえて言わせていただくなら、「真理を知りながら受け入れない者」に下る裁きは、「真理を十分に知らずに受け入れない者」に下る裁きよりも遥かに重いのです。
神は、あなたが単に「福音を気に入っているから」といって、ご自分に恩を売ったなどとは一切思われません。それどころか、福音を聞き、それを知っており、頭では同意していながら、一度も心を委ねたことがないのなら、あなたに下る神の報いと裁きは、福音の内容すらほとんど聞いたことがない者たちへの裁きよりも、遥かに厳しく、重いものとなります。「多く与えられた者からは、多くが求められる」のです。
したがって、7節から19節は、福音を知り、真理を知っていながら、罪への愛や迫害への恐れなどの理由から、自分が「本物だ」と知っている真理に身を委ねていない者に対する「聖霊の警告」なのです。
それはまるで、あなたがホテルの10階にいて火災に巻き込まれたようなものです。下にいる消防士たちが「跳べ!」と大声で叫んでいます。下の屋根(5階あたり)に救助用ネットが準備されているかもしれません。あなたは窓の外を見下ろしますが、あの消防士たちに自分の身を委ねてよいものかどうか、決心がつかないのです。
しかし、炎は部屋のすぐそばまで迫っており、あなたに選択の余地は残されていません。それなのに、消防士たちを信頼して飛び降りる(身を委ねる)代わりに、あなたは自分の財産や持ち物に執着し、それらを抱え込んで「階段を駆け下りれば自力で逃げ切れるはずだ」と自室に引き返し、結局炎に包まれて命を落としてしまうのです。
もし、この箇所をそのような文脈に当てはめるなら、ここでの7〜19節とは、聖霊が声を限りに「跳べ(飛び降りろ)!」と叫んでおられる場面なのです。
思いもよらなかったのではないでしょうか?
これこそが、真理を知りながらも、自分の財産(持ち物)への執着や、自分の能力や計画に固執して「自力での脱出方法」を模索している者たちの心に働きかけ、「イエス・キリストに完全に身を委ね、全面的に信頼して飛び降りない限り、脱出の道はないのだ」と語りかけておられる神の御霊の御業なのです。
ヘブル人への手紙の著者は、これらのユダヤ人たちに対して大きな危機感を抱いていました。なぜなら彼らは福音を聞いていたからです。使徒や預言者たちの口から直接福音を聞いていながら、罪への愛や迫害への恐れ(それは高慢という罪です)のゆえに、後ずさりしようとしていたからです。彼らは最初の「信仰の告白」や、キリストに対する最初の「信頼の表明」から離れ去り、後退し始めていたのです。
もしかすると、彼らは駆け寄ってきてこう言ったかもしれません。「イエスのことは素晴らしいと思います。本当に最高です。これに自分の人生を捧げてもいいかもしれません」。
しかし、友人たちから非難の砲火を浴び始めると、彼らは最初に口にした告白から後退(脱落)し始めてしまうのです。彼らは自分の人生の全体重をイエスに投げかけることを決してしようとしません。そしてその結果、聖書が古典的に定義するところの「背教者(アポステイト)」となってしまうのです。
「背教者」とは何か、ご存じでしょうか? 背教者とは、真理を知りながら、意志をもってそれ(キリスト)を拒絶し、引き返す(後退する)個人のことです。それが背教者です。
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この深刻な警告を確実に伝えるため、聖霊は旧約聖書の歴史的な出来事を用いられます。なぜなら、語りかけている対象がユダヤ人であり、彼ら自身の文脈(歴史)を通して語るのが最も効果的であることを知っておられるからです。
そして、3章1〜6節ですでに「モーセ」がこの箇所のテーマとなっていたため、聖霊はそのままモーセを取り上げ、今回の主題に完璧に合致する「モーセの時代のイラストレーション(例話・史実)」をピックアップされるのです。
先ほど私たちが学んだ3章1〜6節において、「イエスはモーセよりも勝ったお方である」という証明を見たばかりです。
本日の学び(あるいはヘブル人への手紙を初めて聞く方)のために申し上げるなら、ヘブル人への手紙全体を通して、著者は「イエスは他のあらゆるものよりも優れておられる」「イエスは旧約よりも優れて完璧な『新しい契約』の仲介者である」ということを提示しようとしています。
そして、もしイエスが新しい契約の仲介者であるなら、旧約に伴っていたすべての人々よりも勝っていなければなりません。 旧約の預言者たちよりも勝っていなければならず、旧約を仲介した御使い(天使)たちよりも勝っていなければならず、モーセよりも勝っていなければならず、ヨシュアよりも勝っていなければならず、アロン(大祭司)よりも勝っていなければなりません。かつての信仰の偉人たち全員よりも勝っていなければならないのです。
そのため、ヘブル人への手紙の著者は、一つひとつ順番に「イエスがいかに彼ら全員よりも勝っているか」を示してきました。
そして第3章に差し掛かるまでに、イエスは預言者よりも勝り、御使いよりも勝り、そして3章最初の6つの節において、ユダヤ人にとって最高峰であったモーセ(ある人々は御使いよりも偉大だとすら考えていたモーセ)よりも勝っていることが証明されました。イエスはモーセよりも偉大なのです。
このように、すでにモーセについて語っている文脈だからこそ、聖霊は「決断の崖っぷちに留まっている者たち」に向けて、このきわめて強力で圧倒的なメッセージを差し込もうとされ、モーセの体験から直接取られた史実をイラストレーションとして持ち出されたのです。
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このテキストは、私たちの学びのために4つのパート(展開)に分けることができます。難解なものではなく、文脈を整理するのに非常に役立つ4つの区分です。
- イラストレーション(史実・例話)
- インビテーション(招き・警告):『注意しなさい』
- インストラクション(命令・教え):『毎日お互いに励まし合いなさい』
- イシュー(問題の核心):『不信仰』
「例話」「招き」「命令」「問題の核心」の4つです。
まず第一に、「イラストレーション(史実・例話)」に注目してみましょう。
説教をする際、オフィス(書斎)に座って「最初の30分が過ぎてしまう前に、どうやって聴衆の注意を引きつけようか? どうやって話を始めようか?」と頭を悩ませることがよくあります。
説教の始め方は様々ですが、時には一つの「具体例(イラストレーション)」から始め、その例話を出した上で聖書テキストに立ち返り、自らの主張を証明していくというアプローチが有効な場合があります。まさに聖霊がここでなさったのは、その方法でした。多くの説教が歴史的背景や例話から始まり、その後に招きや命令が続きますが、聖霊もまたここにおいてそのフォーマットを選ばれたのです。
真理を知り、福音を知りながらも、自らを委ねようとしない人々に訴えかけるため、聖霊は「モーセの時代のイスラエルの歴史」から一つの出来事を抜き出されました。
しかし、非常に興味深いことに、ここで聖霊が直接引用しているテキストは「ダビデの時代(詩篇95篇)」のものなのです。
順を追って整理してください。ダビデは「モーセの時代」について詩篇で引用(回想)して語っていました。聖霊は、ダビデによって引用された「荒野をさまよっていたモーセの時代の出来事」を、ここで再引用しておられるのです。
ダビデがモーセの時代の出来事を用いて警告を発したのが(ヘブル人への手紙が書かれる)1,000年前のことであり、今、聖霊はまったく同じポイントを強調するために、その言葉を再び用いておられます。
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ここで、その歴史的背景をお話ししておきましょう。
ダビデは詩篇95篇7〜11節で、私たちがこれから読むテキストとまったく同じ言葉を語っています。それは荒野におけるイスラエルと、そこで起こった出来事に言及したものでした。聖霊が主張したいポイントを示す上で、これ以上ない完璧な典拠(古典的例証)です。なぜなら詩篇95篇は、出エジプトの荒野の放浪において、イスラエルがモーセに対して犯した不順従と拒絶を深く省みているからです。
その歴史を振り返ってみましょう。 イスラエルはエジプトの地で奴隷状態にありました。彼らは400年間、そこでレンガを焼き続けていました。事態はますます悪化し、ファラオはレンガのつなぎ目となる「わら」すら与えずにレンガを作らせました。彼らは虐待され、打ちたたかれました。
そこで神は「災い(十の災い)」をもたらされました。あの一連の災いを覚えているでしょう。そして最後の決定打として「長子の死」という偉大な神の奇跡が起こりました。
神は言われました。「よし、モーセ。民を集めて、ここから連れ出すのだ!」
モーセは民全員を集めてエジプトから行進を開始しました。ファラオも「出ていけ! もう限界だ。これ以上災いには耐えられない!」と言いました。
民が前進していくと、神は言われました。「モーセよ、行く手に障害物がある。紅海だ。そしてお前たちは船を持っていない」。そこで神は言われました。「モーセ、やるべきことは一つだ。紅海に向かって『分かれよ』と命じなさい」。モーセがその通りにすると、紅海は真っ二つに分かれました。イスラエルの子らは乾いた地を歩いて渡りました。
それを見たファラオは「簡単そうだ」と考え、全軍を投入して追いかけさせましたが、紅海は彼らの上になだれ落ちて閉じました。
神はイスラエルの中で奇跡に次ぐ奇跡を行われました。奇跡、奇跡、また奇跡です。
……ところが、荒野に入るやいなや、彼らはすぐに神を不信仰(疑い)に陥ったのです。お分かりでしょうか? これこそが、「圧倒的な証拠を目の前にしながら不信仰に陥る」という古典的かつ典型的な例(イラストレーション)なのです。
神はご自身を明確に啓示されました。彼らは神がどのようにご自身を現されたかを知っていました。神の啓示の真実さを知っていました。その超自然的な証明と目撃証言をその目で見たのです。
それにもかかわらず、彼らは信じませんでした。 神への信仰に自らを委ねようとしなかったのです。
その不信仰の結果として、彼らは荒野をさまよい、さまよい、さまよい続けなければなりませんでした。不信仰のゆえに、彼らは同じ狭い地域を38年間もグルグルと円を描くようにさまよい続けたのです。
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そして、この歴史が私たちに対する鮮明な「図絵(ピクチャー)」となります。
ダビデは自らの時代(ヘブル人への手紙が書かれる1,000年前)において、この歴史を引き合いに出しながらこう警告しました。 「さあ人々よ、かつて荒野でイスラエルがしたように、あなたがたの時代(ダビデの時代)において神に対して心をかたくなにしてはならない」。
そして今、ヘブル人への手紙の著者はこう言っているのです。 「さあユダヤ人たちよ、私(著者)が書いている現代において、かつてモーセの時代に民が犯し、ダビデが自らの時代の人々に『決してするな』と警告したあの過ちを、あなたがたも犯してはならない」。
お分かりでしょうか。人間の本質やパターンは、時代を経ても何ひとつ変わっていないのです。
だからこそ、私は今夜、あなたがたの前に立ち、こう言うことができるのです。 「友よ、今夜私があなたがたに語りたいのは、これです。『かつてモーセが民の過ちとして告発し、ダビデが自らの時代の人々に止めるよう警告し、ヘブル人への手紙の著者が当時のユダヤ人たちに「絶対にやるな」と命じたあの過ちを、あなたがたも今日、犯してはならない』」
こうして、不信仰と警告のパターンが、歴史の全道筋を通して一直線につながっているのを目にするのです。
では、7節から見ていきましょう。ここではまさに詩篇からの引用がなされています。
「したがって(それゆえに)」――当然ながら、この言葉は直前に語られた内容(キリストの卓越性)とつながっています。実のところ、この中間部分はすべて挿入句として読むこともできます。12節へ飛んで「したがって、兄弟たちよ、注意しなさい」とつなげることもできるのです。なぜなら、中間に挟まれたこの部分は大きな挿入だからです。
「したがって、聖霊が言われるとおりです。『今日、もしあなたがたが神の御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。荒野での試みの日に、神に逆らったときのように。あなたがたの先祖は、そこでわたしを試みて試し、四十年の間、わたしの業を見た。』」
ここで聖霊は、決断の境界線に立ちながらも一度も身を委ねたことのないこれらのヘブル人たちに対して、「心をかたくなにしてはならない。今日、神の御声を聞き、今日、神が望んでおられることを行いなさい。40年間にわたって神の業という証拠を見ながらも、なお神を信じようとしなかったイスラエルの子らのようになってはならない」と告げておられるのです。不信仰を続けてはなりません。
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さて、7節の冒頭にある非常に重要な点に注目していただきたいと思います。 7節は「したがって、聖霊が言われるとおりです」という言葉で始まっています。
なんと興奮させられる言葉でしょうか。なぜなら、詩篇95篇で語っていたのは誰だったでしょうか? ダビデです。詩篇95篇ではダビデが語っていました。しかし、この手紙が詩篇95篇に立ち返るとき、そこには「ダビデが言うように」とは書かれておらず、何と書いてあるでしょうか? 「聖霊が言われるとおりです」と書かれているのです!
「それはどういう意味ですか?」と思われるかもしれません。 これこそが、「聖書の霊感(Inspiration)」とは何かを示す古典的かつ最高の実例なのです。
霊感とは、「聖霊が、神の器である人間の口を通して語られること」です。友よ、ダビデが語った言葉は、彼個人の意見ではありませんでした。彼自身の単語の選択でもありませんでした。ダビデが口を開いたとき、聖霊が語られたのです。これこそが神の霊感です。
聖書が書かれ、あなたがそのページを開いてみことばを読むとき、そこに書かれているのは人間の選択した言葉ではなく、聖書の真の著者である神の御霊(聖霊)の言葉なのです。したがって、聖書が「詩篇95篇で聖霊が語っておられた」と宣言しているのは、なんと素晴らしいことでしょうか。
ペテロの手紙 第二 1章21節にはこうあります。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神から受けて語ったものだからです。」
聖霊は聖書の一語一語をお書きになりました。だからこそ、聖書の「絶対的な逐語霊感(言葉そのものの霊感)」を否定することは、恐ろしい不義であり、第一級の罪であり、あらゆる異端への濁流の堤防を切り崩す行為であると私たちは信じるのです。私たちは、神が原典の「言葉そのもの」に至るまで聖書をお書きになったと信じます。
だからこそ、イエス様は「わたしの言葉から一点一画たりとも消え去ることはない」と言うことができたのです。神ご自身が著者だからです。これは重要な補足(注釈)です。
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「したがって、聖霊が言われるとおりです。『今日、もしあなたがたが神の御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。』」
ここで言われている「今日」とはどういう意味でしょうか? 著者はこの「今日」という言葉を、7節、13節、15節、そして4章7節と、何度も繰り返し用いています。「今日」とは、緊迫感(切迫性)を表す言葉です。
「今日」とは、必ずしも「24時間」という意味ではありません。それは「恵みの期間(恵みの時)」を意味します。それは24時間より短いかもしれません。今この瞬間、この時を意味しているのかもしれないのです。
もしあなたがイエス・キリストの真理を知っており、イエス・キリストの福音を知っているなら、神の真理を知り、神の啓示を見ながらも不信仰に陥ったイスラエルのような真似をしてはなりません。心をかたくなにしてはなりません。それはあまりにも愚かなことです。
コリント人への手紙 第二 6章2節にはこうあります。
「『わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です。」
神は常に「今こそが救いの日だ」と仰せになります。
私はいつも、大伝道者D・L・ムーディーのエピソードを思い出します。 ある夜、シカゴで説教をしたムーディーは聴衆に向かってこう言いました。「家に帰って、私が今日話したことについてよく考えてみてください。そして明日の夜、決断をする準備をして再びここに戻ってきてください」。
……しかし、まさにその夜、かの有名な「シカゴ大火」が発生し、彼の会衆の半数が命を落としたのです。 ムーディーは後にこう振り返りました。「あの夜以来、私は二度と人に『家に帰って考えてみなさい』などと言わなくなった」。
今こそが、救いの瞬間なのです。
聖書の言葉は告げています。「心をかたくなにするな。今日、神の御声を聞け!」。 救いとは「今」の出来事であり、明日あなたに救いが残されている保証はありません。「今日」とは、現在与えられている「恵みの時」を象徴しているのです。
そして現代の人々も、ヘブル人の時代の人々も、ダビデの時代の人々も、モーセの時代の人々も同様に、神が語られる御声を聞くという特権を与えられていました。そして注目してください。テキストには「もしあなたがたが聞くなら」とあります。神の御声を聞くかどうかは、あなた自身の「意志」の問題なのです。
しかし、イスラエルがしたように心をかたくなにし、その悲惨な結果を迎えてしまう可能性が常に存在します。だからこそ8節でこう言われているのです。
「荒野での試みの日に、神に逆らったときのように、心をかたくなにしてはならない。」
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心をかたくなにすること(硬化させること)もまた、個人の選択と行動によるものです。 パウロはテモテへの手紙 第一 4章2節で、人の心や良心が「焼き印を押されたように(熱い鉄で焼かれたように)」感覚を失ってしまうことについて語っています。まるで傷跡の組織(瘢痕組織)のように硬くなってしまうのです。人は福音に対して、自らの心をかたくなに麻痺させることができます。
「焼き印を押される(seared)」とは「焼かれる」という意味です。一度焼け焦げてしまうと、その皮膚は感覚を失ってしまいます。
私が大学時代、時速75マイル(約120km)で走る車から投げ出されたことがありました。私は地面の上を100ヤード(約90m)ほど滑っていきました。摩擦によって、最初は第三度の重度やけどを負いました。それ以来、私の背中の皮膚は深さ半インチ(約1.3cm)、面積にして64平方インチ(約400平方cm)にわたって削り取られてしまったのです。そして、そこを覆った瘢痕(はんこん)組織はすべて感覚を失っており、麻痺してしまっています。
そして、これと同じことが、何度も繰り返し福音を聞いている人の心に起こるのです。
友よ、よく聞いてください。「今日」という恵みの時は、あなたの良心が「神の御霊」に対して敏感である間しか続きません。良心が麻痺してしまえば、「今日」は終わりを告げ、「明日」が訪れ、そして手遅れになるのです。聖書はそう告げているのです。
もし今日、あなたが自らの意志をもって神の御声を聞こうとするなら、心をかたくなにしてはなりません。真理を知りながらイエス・キリストに対して「ノー」と言うたびに、あなたの心はますます硬くなっていくのです。
心が高ぶらず柔らかいとき、良心が罪の示された思いに打たれているとき、理性がキリストを認め、理解力が主を慕い敬っているとき――そのときこそ、あなたがまだ柔軟で、神の働きかけに応答できるうちに、踏み出すべき瞬間なのです。
なぜなら、いつの日か、箴言21章29節が語るような「かたくなな心」、あの頑なで、強情で、反抗的で、感覚を失った心になってしまい、突然、あらゆる御言葉が何の意味もなさなくなってしまうかもしれないからです。
教会には、妻に連れてこられたから、あるいは妻を喜ばせたいからという理由で出席している男性たちがいます。親に連れてこられたから座っている子どもたちがいます。彼らはあまりにも何度も福音を聞いてきたため、良心が焼き尽くされ(麻痺し)、もはや福音に応答することができなくなっているのです。聖霊が訴えかけることのできる敏感な領域が、ほんのわずかしか残されていないのかもしれません。
だからこそ、神の御霊は叫んでおられるのです。 「心をかたくなにしてはならない。あなたは真理を知っているのだから、キリストに応答しなさい!」
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さて、8節で著者がどのように具体的な歴史的出来事を引き出しているかに注目してください。 「荒野での試みの日に、神に逆らったときのように、心をかたくなにしてはならない」。
ここで使われている「反逆(Provocation/逆らうこと)」や「試み(Trial / Testing)」という言葉は非常に重要な単語であり、私たちを直ちに出エジプト記17章の記録へと連れ戻します。少し時間を取って、その箇所を分かち合いたいと思います。
出エジプト記 17章1節から見てみましょう。これは彼らの荒野の放浪の記録です。
「イスラエルの子らの全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。」
彼らは宿営しましたが、水がありませんでした。
「それで、民はモーセと争って言った。『私たちに飲む水をくれ。』モーセは彼らに言った。『なぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか。』」
つまりモーセはこう言っているのです。「なぜあなたがたは神を試みるのか? 神はこれまでずっと私たちを養ってくださったではないか。なぜ今さらこんな大きな問題に仕立て上げて騒ぎ立てるのか? 神が与えてくださることを知っているだろうに、なぜ再び神を試すのか?」。
お分かりでしょうか。これが彼らの繰り返してきたパターンでした。彼らは決して神を信じようとしなかったため、「神よ、あなたが本物だと分かるように、もっと奇跡を行ってください」と言い続けたのです。神は「私はあなたがたによって裁判にかけられる(試される)ことにはもうウンザリだ!」と思っておられたのです。
「民はその所で水に渇いた。民はモーセに向かって不平を言い、『なぜ私たちをエジプトから連れ上って、私や子どもたちや家畜を渇きで死なせようとするのか』と言った。」
文句ばかり言っている人々です。
「モーセは主に叫んで言った。『この民をどうしたらよいのでしょう。今にも私を石で打ち殺そうとしています。』主はモーセに言われた。『民の前を進め。イスラエルの長老たちを何人か連れ、ナイル川を打ったあの杖を手に取って行け。見よ、わたしはホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲むことができる。』モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」
モーセが岩を打つと、水が激しく湧き出しました。
ここからに注目してください。
「彼はその場所の名を『マッサ(試み)』、また『メリバ(争い)』と呼んだ。イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。」
これほど愚かな問いがあるでしょうか! この時点において神を試すなど、最も愚かなことです。神は圧倒的な奇跡と十の災いをもって彼らをエジプトから解放し、紅海を真っ二つに開き、毎朝マナを降らせ、雲の柱をもって荒野で彼ら全体を導いておられたのです。それなのに彼らは「主は私たちの中におられないのではないか?」と言ったのです。あまりにも荒唐無稽です。
お分かりでしょうか。それこそが「不信仰(神を信じないこと)」の本質です。不信仰な者は、どれほど証拠を出されても「不十分だ」と言い続けるのです。
友よ、神が実在されるかどうかについて、これ以上の証拠など必要ありません。イエスが本物であるかどうかについて、これ以上の証拠など必要ありません。あなたに必要なのは、自分が知っている真理に自らを委ねるほどに「自分の罪を憎む」という境地に、自らの人生において到達することです。あなたに必要なのは、それだけです。
神を試し続けている限り、あなたが真理を知ることは絶対にありません。
◇
そして、何が起こったかお分かりでしょうか。彼らは神を試し、試みにかけたため、モーセはその場所を「マッサ(試み)」、そして「メリバ(争い・反逆)」と名付けました。
「メリバ(争い・反逆)」という言葉は、ヘブル人への手紙3章8節に出てくる「反逆(Provocation)」と同じ言葉です。モーセがその場所を「反逆(争い)」、そして「試み」と呼んだからこそ、私たちは8節で著者が何に言及しているかを正確に理解できるのです。
「メリバやマッサで渇きを覚えたとき、あの人々がしたように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」。聖霊はそう言っておられるのです。「そんなことをしてはならない。常に神を試みるような真似をしてはならない」。
聖書には「あなたの神である主を試みてはならない」と書かれています。イエス様ご自身も、申命記からこの言葉を引用してサタンに語られました。
彼らは神の約束を信じることに失敗しました。神は誰であっても10回は納得させられるほどの十分な証拠をお与えになりました。しかし、彼らは自分の罪を愛し、自分の利己主義を愛し、自分の計画や考えを愛していたため、自らを神の御手に委ねようとはしなかったのです。
9節に注目してください。
「あなたがたの先祖がわたしを試みて試し、四十年の間、わたしの業を見たように(心をかたくなにしてはならない)。」
彼らが神を試みたのは、マッサやメリバの時だけではありませんでした。彼らは荒野の旅の全道程において神を試し続けたのです。「彼らはわたしを試し続け、不敬にも検証し続け、40年間にわたってわたしの業を見ながらも、なお一度として信じようとはしなかった」。
そのような者になってはなりません。 これほどの年月、これほどの試練、これほどの数ヶ月間にわたって神の周りに留まり、神がなさった業、神がなさった業、神がなさった業を目撃しながら、一度も自分自身を委ねようとせず、「もっと証拠をくれ、もっと証拠を見せてくれ」と言い続けるような人間になってはなりません。
友よ、それは単なる逃げ(言い訳)です。あなたにさらなる証拠が必要なのではありません。あなたが自分の罪を愛するがゆえに、キリストに身を委ねることを拒んでいるだけなのです。それが問題のすべてです。だからこそ、彼らは神を試し続けたのです。
◇
もちろん、この古典的な例証として思い起こされるのが『民数記』14章の出来事です。
カデシュ・バーネアから約束の地を視察するために派遣された偵察員(探子)たちの大部分が戻ってきたときのことです。覚えているでしょうか。彼らは戻ってきてこう言いました。「大変なことになった! 向こうの男たちは巨人だ。彼らに比べたら、私たちはまるで『イナゴ』のようだ」。
私はこれを「イナゴの錯覚(コンプレックス」と呼んでいます。信仰ではなく目に見える状況(外見)によって歩むとき、人は敗北に至るのです。「ああ、彼らは巨大すぎる!」。
その結果、何が起こったでしょうか。彼らが悪しき報告(不信仰の報告)を持ち帰ったため、神はこう宣言されました。「イスラエルの軍勢として戦うことのできる成人男性のうち、あなたがたの不信仰のゆえに、約束の地に入ることができる者はただの一人もいない」。
12人の探子のうち、良い報告を持ち帰ったのは、ヨシュアとカレブの2人だけでした。そして、その世代全体の中で約束の地に入ることができたのは、神を信じたその2人だけだったのです。
モーセは「民の不信仰ゆえに彼ら全体を滅ぼさないでください」と神に切願しました。そのとき神はこう答えられました。
「わたしがエジプトと荒野で行ったわたしの栄光と標識(奇跡)を見ながら、このように十回もわたしを試し、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った地を見ることはない。わたしを蔑む者は、だれもその地を見ることはできない。」
神は実質的にこう言っておられるのです。「彼らには、わたしが彼らをあの栄光の地、乳と蜜の流れる地に導き入れることができると信じるに十分な証拠があった。それなのに彼らはわたしを信じようとしなかった。だから、彼らがその地を見ることは決してない」。
◇
友よ、これこそが「『今日』という恵みの時が終わりを迎える」ということです。お分かりでしょうか?
あなたはイエス・キリストを受け入れる瀬戸際に長期間立ち続けることができます。その決断をいじくり回し、「神様、もっと証明してください。私にはまだよく分からないし、まだ心の準備ができていません」と言い続けることができます。
しかし、ある日突然、神はこう仰せになるのです。「友よ、あなたにはすでに十分な証拠が与えられた。今この瞬間をもって終わりだ。もはや『今日』ではなく『明日』が訪れた。あなたはわたしの約束の地を見ることはない」。
だからこそ、聖書は告げるのです。「今日、もしあなたがたが神の御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」と。
申命記 2章14節にはこうあります。
「戦うことのできる世代の者がすべて全滅するまで、彼らは三十八年の間さまよった。」
不信仰の深さのゆえに、その世代全体が死に絶えるまで、彼らは38年間荒野をさまよいました。なんと悲しいことでしょうか。
彼らは「神を試みる必要がある」と思い込んでいましたが、そんな必要はどこにもありませんでした。そして38年間にわたり、彼らは不平不満(つぶやき)を言い続けました。
申命記 9章7節において、聖霊はこう語っておられます。
「覚えよ、忘れるな。あなたが荒野であなたの神、主を怒らせたことを。エジプトの地を出た日から、この場所に来るまで、あなたがたは主に対して反抗的であり続けた。」
彼らは全期間を通して反逆していたのです。彼らは神を試み続け、「神よ、もしあなたが本物なら、もう一つ手品(奇跡)を見せてみろ」と言い続けました。彼らは神を試し、試し、試し続けました。しかしそれは単なる逃げ口上に過ぎず、実際には自らの罪を手放そうとしなかっただけなのです。
彼らは40年間に及ぶ証明を目撃しました。9節を見てください。彼らは40年間にわたって神の業の証拠を見たのです。
◇
私には分かりませんが、もしかすると今夜この場所に座っている方の中に、40年間にわたって福音を聞き続けてきた方がおられるかもしれません。もしそれが事実でありながら、一度もイエス・キリストを受け入れたことがないのなら、神があなたをあわれんでくださいますように。あるいは、これまでに4回福音を聞きながら、一度も受け入れたことがないのなら、神があなたをあわれんでくださいますように。
ああ、これはすべての人々に対するなんと恐ろしい警告でしょうか。 友よ、証拠はすでに出揃っているのです!
もし当時のイスラエルに対して証拠が出揃っていたとするなら、今の時代の私たちに対して「イエス・キリストこそが主である」という証拠が出揃っているのは言うまでもありません。
イエス・キリストが神の御子であり、十字架にかかって死に、三日目に蘇り、今も生きて人を救われるという証拠はすでに出揃っています。その証拠は確実です。キリストは神を現されました。父のひとり子として神を告げ知らせ、その愛を示し、その恵みを示し、聖霊を遣わされました。
私たちにはモーセのような人間の中介者は不要です。あらゆる歴史的証拠の上に、キリストを啓示してくださる三位一体の第三位格である「聖霊」が私たちに与えられているのです。
これほど圧倒的な証拠を目の前にしながら不信仰にとどまることは、まことに悲劇的です。
だからこそ聖霊は、福音を知り、頭では福音に同意してすらいるこれらのヘブル人たちに向かって「心をかたくなにしてはならない」と叫んでおられるのです。神があなたの人生でなそうとしておられる御業に対して、冷淡になり、感覚を失ってしまうことは、あまりにも容易なことだからです。
◇
10節。詩篇95篇におけるイスラエルの記録の続きです。
「それゆえ(したがって)」――神は仰せになります――「わたしはその世代に対して腹を立て(憤り)……」
友よ、ここで「腹を立てた(憤った / grieved)」と訳されている言葉は、単に「悲しんだ」「不快に思った」という意味ではありません。この言葉は「激怒した、立腹した、憤怒した、怒りに燃えた」という意味です。神は「ああ、彼らのことが本当にかわいそうだ」などと言っておられるのではありません。
神は罪に対して激怒されるお方です。神は怒っておられました。 「わたしは彼らに激怒し、憤り、不快に思い、彼らを処罰することを決意した」。
「……そして言った。『彼らは常に心が迷い、わたしの道を知らなかった。』」
神は仰せになります。「わたしは激怒した。彼らは心の中で常に過ちを犯し続けた。彼らはそれを繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し行ったのだ」。
神は彼らに嫌悪感を抱かれました。神は彼らを吐き出そうとされました。神は彼らを拒絶し、忌み嫌い、退けられたのです。
なぜでしょうか? 「彼らは常に心が迷い(過ちを犯し)、わたしの道を知らなかったから」です。
それこそが問題の核心でした。彼らは「心において」過ちを犯したのです。お分かりでしょうか、罪は人を欺くのです。彼らは間違いを犯しました。「自分自身の道を歩み、自分自身のやり方で自分の好きなことをしていれば、目的地に到達できる」と考えたのです。しかし、到達できませんでした。
友よ、しっかりと覚えておいてください。罪は人を欺きます。 罪は、暗闇を「光」と呼び、苦いものを「甘い」と呼び、奴隷状態を「自由」と呼び、悪を「善」と呼びます。罪はあらゆるものを偽るのです。
そして罪は「心」において人を欺きます。問題のすべては「心」にあるのです。
◇
しかし、ここでテキストの表現に注目してください。学問的な(解釈上の)観点からこの箇所を理解する上で、非常に重要な点があります。
10節には「彼らは常に心が迷っている」とあります。これは「包括的な表現(全体を指す言葉)」です。死に絶えたあの世代全体が、徹底して邪悪であったということです。彼らは常に過ちを犯し続けました。彼らには端から信仰がなかったのです。
それは根本的かつ習慣的な悪でした。だからこそ、私はこの箇所が「神との交わりを失っている信者(クリスチャン)」のことを指しているとは思いません。
ここに登場するのは、絶えず、習慣的に悪に従い続けている人々です。 申命記で読んだように、モーセは彼らにこう言いました。「私があなたがたを知った日から今日に至るまで、あなたがたは主に対して反抗的であり続けた」。それがモーセの言葉でした。何ひとつ変わっていなかったのです。「わたしが最初にあなたがたを知った日から、あなたがたは反抗的だった」。
だからこそ聖霊は言われるのです。 「心をかたくなにしてはならない。罪に欺かれ、神を激怒させ、神から退けられるという『致命的な過ち』を犯してはならない」。
◇
そして11節、この例話の力強い結びが置かれています。これは極めて強烈な言葉です。
「わたしは怒りをもって誓った。『彼らがわたしの休みに進入することは決してない』と。」
ここでの例話において「休み」という言葉は、乳と蜜の流れる地、約束の地である「カナン」を指しています。「休み」という言葉は、放浪と激しい労苦からの解放(休息)を意味しています。
神は彼らを約束の地に導こうとしておられました。しかし彼らが罪を犯し、不信仰にとどまり続けたため、神は宣言されました。「あの世代全体が荒野で死に絶え、神を信じた彼らの子供たちだけが約束の地に入る。この群れ全体は荒野で死ぬ。彼らがわたしの休みに立ち入ることは決してない」。
そして神は、ご自身の怒りをもってそれを誓われたのです。ご自身の怒りをもって誓われました。 神がご自身において立てられた誓いは、絶対に覆ることのない確実な誓いです。
神の忍耐は限界に達しました。執拗な不信仰と、繰り返される反逆が神を激怒させたのです。神が彼らに宣告された判決とは、「彼らがカナンに入ることができない」ということでした。そして出エジプト記や申命記にある通り、あの世代全体が荒野で死に絶えたのです。なんと悲しい出来事でしょうか。
そして、皆さんに知っていただきたいことがあります。 実は、約束の地に入った次の世代ですら、本当の意味での『休み(平安)』を味わうことは一度もなかったのではないでしょうか?
彼らが約束の地に入ったとき、神は「まず最初にするべきことは、カナン人を全滅させることだ」と命じられました。カナン人は滅ぼされる必要がありました。彼らは神を恐れない、恐ろしい人々でした。神はイスラエルを「審判の道具」として用いて彼らを裁こうとされたのです。
カナン人の異教的習慣は熾烈を極め、建築物を建てる際には壁の内部の壺に「生の赤ん坊」を生き埋めにしていたほどでした。彼らはあまりにも退廃し、不道徳で、神を無視した人々であったため、神は裁判的な行為として、イスラエルを裁きの器として用いて彼らを地上から一掃しようとされたのです。
しかし、イスラエルはカナン人を全滅させる代わりに、彼らと婚姻関係を結んでしまいました。その結果、彼らは神が備えておられた「休みの満ちあふれる祝福」を味わうことができませんでした。
その後、彼らはローマ時代に至るまで、次々と現れる異邦人帝国(バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなど)の支配下に置かれることになりました。そして西暦70年には全世界へと散らされていったのです。
そしてまさに現代、神は御国(千年の王国)のために彼らを再び集めておられます。イスラエルの最終的な「真の休み」は、その御国において実現するのです。イエス様が再び来られるとき、ご自身の御国を打ち立てられ、そのときこそ本当の「休み(平安)」が訪れるのです。
ここまでが「イラストレーション(史実・例話)」です。真理を知りながら心をかたくなにし、罪を神のために捨てることを惜しむあまり「もっと証拠をくれ、もっと証拠をくれ」と言い続ける人々を、神がどのように扱われるかという具体例です。
さて、このイラストレーションを踏まえた上で、12節にある「インビテーション(招き・警告)」を見ていただきましょう。12節は、この例話に基づくあなたへの招きです。
12節にはこうあります。
「兄弟たちよ、注意しなさい。あなたがたの中に、不信仰の悪い心があって、生ける神から離れ去る者がないようにしなさい。」
数千年前の例話を提示した上で、著者は今、こう言っているのです。 「さあ友よ、私はいま『あなたがた』に語りかけています。自分自身の心を見つめ直しなさい」。
そして私は今夜――1972年4月16日――あなたがたにこう言います。 「あなた自身の心を見つめ直しなさい。」
あなたは真理を知っていますか? イエス・キリストの真理を知っていますか? 私は愛をもって申し上げます。不信仰な心を持ち、最終的に「生ける神」から離れ去ってしまうほどに、自分の心をかたくなに麻痺させてはなりません。
これは「真理の知識を拒絶すること」に対する恐ろしい警告です。 「でも、私は一度も福音なんて聞いたことがありません」とおっしゃるでしょうか。 友よ、あなたは二度とそんな言いがかりをつけることはできません。なぜなら、今夜ここで福音を聞いたからです!
荒野の時代における神の裁きは、モーセを通した神の言葉を拒絶した者たちの上に下りました。そしてここにある警告は、「キリストにおける神の言葉を拒絶する者たち」の上に下るものなのです。
「兄弟たちよ、注意しなさい」。 ここで使われている「兄弟たち」は、クリスチャンのことではありません。3章1節にある「聖なる兄弟たち」はクリスチャンを指していますが、ここでの「兄弟たち」とは「ユダヤ人の同胞」を指しています。『使徒行伝』全体を通しても、ユダヤ人の同胞を指してこのように使われています。
「兄弟たちよ、あなたがたの中に不信仰の悪い心があって、生ける神から離れ去る者がないように注意しなさい」。
あなたは救いのすぐ一歩手前(境界線)までやってきました。宗教的な感情を持っているかもしれません。イエス・キリストのことが好きでさえあるかもしれません。全体に対して心を開いているのかもしれません。
……しかし、あなたは一度も自分自身をキリストに委ねていません。「周囲からの圧力には耐えられない」「迫害には耐えられない」「自分の罪を手放したくない」と決断し、くるりと向きを変えて立ち去ってしまうのです。
あなたは「生ける神から離れ去った(離脱した)」のです。この考えをしっかりと胸に留めてください。
◇
「『不信仰の悪い心』とは何ですか?」と思われるかもしれません。 これほどシンプルで明確な定義はありません。字面通りの「不信仰という悪い心」です。
世の中で「最大の悪」とは何でしょうか? 何だと思いますか? 「不信仰(神を信じないこと)」です。神を不信に思うことです。 これこそが、人が犯し得る最大の罪です。
「殺人や、あれこれの重罪かと思っていました」と言うかもしれません。いいえ、あなたが犯し得る最大の罪とは「不信仰」です。なぜなら不信仰こそが、あなたを神の祝福から永遠に shut out(締め出し)してしまうからです。「不信仰の悪い心」です。
ここには、信仰の瀬戸際に立っている未信者たちがいます。中には「自分はクリスチャンだ」と自称している者もいるかもしれません。彼らは決して「自分はキリストに対して攻撃的・反抗的だ」などとは認めないでしょう。しかし、彼らはそうなのです。
どれほどイエス・キリストの近くにいたとしても、私はあなたに告げます。親愛なる友よ、どれほどキリストの近くにいようとも、もしあなたが真にキリストのもとに来ない(委ねない)のなら、あなたには「不信仰の悪い心」があるのです。
そして、あなたが下される処罰は、遥かに重く厳しいものとなります。なぜならあなたは、自分が「生ける神である」と知っていたお方から離れ去ったからです。
ヘブル人への手紙 6章には、このような恐ろしい言葉があります。
「一度光を受けて(真理を知りながら)途中で落ち去った者たちを、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能です。」
著者は何と言っているのでしょうか。 あなたがイエス・キリストの真理を聞き、それが真実であることを認め、神の啓示を知りながら、その前に立ちつつも背を向け、歩み去ってしまうなら――神にすら、もはやあなたのためにできることは何もないのです。
ひとたび神の啓示の頂点に達し、福音の満ちみちた真理を理解しながら、イエス・キリストに対して「ノー」と言って後ずさりしたなら、あなたは二度と以前の高さにまで戻ることはできません。あなたは背教したのです。「背教者(アポステイト)」となったのです。
だからこそ、聖霊は私たちに叫んでおられます。 「聖霊があなたの心を温め、あなたの心がまだ敏感で柔らかいうちに、イエスの優しく愛に満ちた招きと、恵みの御声に応答しなさい!」
長く待ちすぎると、自らの心が硬化していくことに気づくでしょう。そして「不信仰の悪い心」を持つに至るのです。テキストは、あなたが文字通り「離れ去る(departing」と言っています。
ここで使われているギリシャ語『アフィステーミ(aphistēmi)』は、2つの言葉の合成語であり、「遠く離れて立つ」「引き離されて立つ」という意味を持っています。あなたは最終的に神から切り離された場所に立ち、背教者となり、滅びへと向かうことになるのです。
もしあなたの心に今まだ敏感さが残っているなら、私は申し上げます。「今日、応答しなさい!」。
これが「インビテーション(招き)」です。きわめてシンプルです。 もしあなたが福音を聞き、福音を知っているなら、私はヘブル人への手紙の著者とともに懇願します。あなたの心が冷たくなり、不信仰に陥り、最終的に生ける神から永遠に離れ去ってしまう前に、今日、キリストを受け入れなさい。
そして、この箇所にある一つの重要な言葉を捉えてください。そこには「生ける神」と書かれています。
友よ、これだけは言わせてください。 イエス・キリストを拒絶することは、単に「一つの宗教システム(宗教のパターン)」を拒絶することではありません。イエス・キリストから歩み去ることは、単に「キリスト教というパッケージ」から立ち去ることではありません。キリストから歩み去ることは、単に「一つの形式や信条(教理)」を拒否することではないのです。
それ(キリストを拒むこと)は、「生ける神ご自身」から歩み去ることなのです!
◇
さて、私たちは「イラストレーション(史実)」を見、そしてその例話に基づく「インビテーション(招き)」を見てきました。
次に、13節から17節までに書かれている「インストラクション(命令・教え)」を簡単にお伝えしましょう。
13節をご覧ください。
「むしろ、『今日』と呼ばれている間、毎日お互いに励まし合い(勧め合い)、だれも罪の欺きによって心をかたくなにされないようにしなさい。」
著者は、手紙の宛先であるこのユダヤ人コミュニティに向かって言っています。「お互いの傍らに寄り添い、切迫感をもって呼びかけ合いなさい」と。
ここで使われている言葉『パラカレオ(parakaleō)』は、聖霊の別名である『パラクレートス(Paraclete:助け主、傍らに呼ばれた者)』の語源となった言葉です。著者はこう言っているのです。「お互いの傍らに寄り添い、イエス・キリストへと立ち返るよう、切実に呼びかけ合いなさい」。
したがって、この手紙を受け取った者たちは、お互いを励まし合うよう強く促されています。メシア(救い主)を拒絶して後退し、心を硬化させるのではなく、キリストのもとに来るよう互いに懇願し合いなさいと言うのです。
そして言わせていただくなら、私は人々に「イエス・キリストのもとに来てください」と懇願することを、まったく恥とは思いません。 使徒パウロもコリント人への手紙 第二 5章でこう語っています。
「私たちはキリストに代わって懇願します。神と和解しなさい。」
パウロは「自分の同胞であるイスラエル人のためなら、自分自身が呪われてキリストから引き離されてもよいとすら思う」とまで言いました。
だからこそ、私たちは聖霊によって命じられている通り、13節の言葉をあなたがたに告げるのです。 「今日、来なさい。誰も罪の欺きによって心をかたくなにされることがないように。」
ここで使われている「欺き」という言葉は、「トリック、策略、詐欺術」を意味します。 罪とは、なんと巧妙でトリッキーなものでしょうか。
罪は、決してその「醜い本性」をありのままに見せることはありません。常に仮面をかぶり、偽りをつきます。そして人間は内側から心が硬化していきながら、自分自身でそのことにすら気づかないのです。
あなたはイエス・キリストの福音を何度も何度も聞きながら、なおも応答しないままでいることができます。 私の父はいつもこう言っていました。 「ロウ(蝋)を溶かすのと同じ太陽が、粘土(クレイ)をカチカチに硬化させるのだ」と。
神の御子キリストがあなたに提示されたとき、もしキリストがあなたの心を溶かして信仰へと導かないなら、あなたが応答を拒むことによって、その同じキリストがあなたの心を不信仰へと硬化させてしまうのです。
そして「罪の欺き」は、これらのヘブル人たちを再び過去(ユダヤ教・不信仰)へと引き戻そうとしていました。それは致命的、あまりにも致命的なことでした。
◇
ヘブル人への手紙 10章38節の言葉をお読みしましょう。開く必要はありません。
「『わたしの義人は信仰によって生きる。しかし、もし後退する(引き返す)なら、わたしの心は彼を喜ばない。』しかし私たちは、後退して滅びる者ではなく、信じて魂を救いに導く者である。」
ここにも同じ真理があります。あなたは決断の境界線に立っています。 魂の救いに至る「信仰」へと進むか、それとも滅びへと「後退」するか、そのどちらかです。
そして「罪の欺き」は、あなたにこう語りかけて騙そうとします。 「後退したって、お前が思っているほど悪いことじゃないさ。クリスチャンになる代償は高すぎる。クリスチャンがやっているような、あのつまらない奇妙なルールに縛られることになるぞ。人生の素晴らしい楽しみをすべて犠牲にしなければならないんだ。周りから迫害されるぞ。お前にそんなものは必要ない。お前は自分一人で十分やっていけるじゃないか。『どうして私がそんなものを必要とするんだ? 私は立派な市民だ。赤十字や募金にも寄付している。ペットをかわいがり、隣人にも親切にしている。何の文句があるんだ? なぜ私が救いなんてものを必要とするんだ?』」
これこそが「罪」があなたに語りかける言葉です。そしてこれこそが、罪がつき得る最大級の「嘘(欺き)」なのです。
だからこそ、神の言葉は告げます。「お互いに励まし合って、信仰へと進ませなさい」。
◇
14節。
「なぜなら、もし私たちが最初の確信を最後までしっかりと保ち続けるなら、私たちはキリストに与る者となっているからです。」
注視してください。この節は「もし私たちが最初の確信を最後までしっかりと保ち続けるなら、私たちはキリストに与る者となっている( have become partakers )」と翻訳されるべきです。
おお、ここに真理があります! ある人々はこう言うかもしれません。「ちょっと待ってください。私は信じていますよ! つまり、私はここまでやって来て、今ここに立っているんです。それらすべてのことを信じています。イエスについての話も全部認めますよ。彼がメシアだという話も買いましょう。あの素晴らしい人物に従いましょう。信じますとも」。
しかし、著者は言います。 「それだけでは十分ではない。なぜなら、あなたが本当にそれを信じ、自分の人生をそれに委ねているなら、その真の証拠とは、『すべてが終わり、最後の日を迎えたときにも、あなたがなおそこに(信仰にとどまって)立っている』という事実だからだ」。
誰かが真の信者であることの「最大の証明」とは何でしょうか? それは「継続(Continuance / 保ち続けること)」です。 福音の中にとどまり続けることです。本物の信者は、最後まで留まり続けるのです。
人々はよく私にこう尋ねます――私たちはこのことを何度も宣教していますし、聖書全体に書かれていることですが――「あの人はどうなったのですか? 昔は教会に来ていたし、信じていると言っていたのに、今は去ってしまいました」と。
私は彼らにこう答えます。 「それこそ、彼が最初から救われてなどいなかったという何よりの証拠です。なぜなら聖書は『本物ならそこに留まり続ける』と言っているからです。」
イエス様は言われました。「あなたがたがわたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子である」。
真の枝(ぶどうの木)は何をするでしょうか? ヨハネの福音書15章をご覧ください。真の枝は何をしますか? 「とどまる(Abides)」のです。これこそがヨハネ15章の要点です。真の枝は自ら幹から切り離されて立ち去るようなことはしません。真の枝はとどまり続けるのです。だからこそ、真の信者はそこに留まり、継続するのです。
3章6節に戻りましょう。同じことが書かれています。
「私たちが、その確信と、希望の誇りとを、最後までしっかりと保ち続けるなら、私たちはキリストの家なのです。」
ある人々はやって来てこう言うでしょう。「ええ、私はそれらのことを信じていますよ。信じていますとも」。 しかし、著者は彼らに言っているのです。「だが、あなたは一度もそれに自らを委ね(コミットし)たことがない。だからこそ、その信仰を確実に保つことができていないのだ」。
「ええ、その話なら全部信じます」と口で言うだけでは不十分です。重要なのは、もし本当にそれを信じているのなら、後ろへと引き戻されることなどあり得ないということです。あなたは踏みとどまり、そこに留まり、そこにとどまり続けるはずなのです。それがポイントです。
誰かが信仰から離れ去り、信仰から後退するとき、私は彼らに関して聖書が言っている言葉(ヨハネの手紙 第一 2章19節)を引用します。
「彼らは私たちから出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったなら、私たちと一緒にとどまっていたはずです。しかし出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間ではないことが明らかにされるためでした。」
誰かが立ち去るとき、その人は最初から本物ではなかったのです。 そして著者は言います。「福音を聞いているユダヤ人のあなたがたにとって、これはあまりにも重要なことです。あなたがたは真理を知っています。だから後退してはなりません! キリストに身を委ね、永久にとどまる『本物の者』となりなさい。そうして初めて、あなたがたは真にキリストに与る者であると言えるのです」。
◇
福音を何度も何度も何度も聞きながら、一度もキリストを受け入れないことには、どれほど巨大な危険が潜んでいることでしょうか!
友よ、もしあなたが教会に来続け、聞き続け、聞き続け、聞き続けながらもキリストを受け入れないでいるなら――何度も聞いて心をますます硬化させてしまうくらいなら――いっそのことここから出て行き、逆方向に走り去って、二度と教会に近づかない方がまだマシです!
さもなければ、ある日あなたは自分でも気づかないうちに「恵みの時」が終わりを告げ、自分が完全に硬化した背教者になっていることに気づくことになるでしょう。
「最初にキリストへの確信を告白し、キリストのもとに来たように見えた人々」に、私自身どれほど出会ってきたことでしょう。あなたがたも出会ってきたはずです。しかし、それは本物ではありませんでした。彼らは決して祈りの場に現れません。キリストを証しし、分かち合いたいという望みもありません。家庭での礼拝(信仰の営み)には一切関わりたがりません。めったに聖書を読まず、神のことについて語ることもありません。そんな会話は彼らにとって異物なのです。彼らは世のパターンの中を歩みながら、なおも自分はクリスチャンだと主張します。
友よ、私は言います。そんなことはあり得ません! 彼らは「魂の救いに至る信仰を持つ者」ではありません。彼らは境界線までやって来て、すべての事実を知りながらも、後退している者たちです。なぜなら、最初から本物ではなかったからです。
そしてその悲劇とは、彼らが「不信仰のかたくなな心」へと後退して生ける神から離れ去り、恵みが尽きてしまうかもしれないということです。
そういう人々は実に大勢います。マタイの福音書 7章によると、裁きの日にこう書かれています。
「その日には、多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ! 私たちです! 私たちをご存じですね?』」
すると主は彼らに何と言われるでしょうか。
「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れ去れ!」
主は「わずかな者が」と言われるのではありません。「多くの者」と言われるのです。 ああ、あまりにも多くの人々が「決断の刃の境界線」の上に立ちながらイエス・キリストを受け入れず、滅びへと後退し、心をかたくなにして永遠の滅びへと向かっているのです。
◇
それゆえ、15節で命令が再び繰り返されます。
「『今日、もしあなたがたが神の御声を聞くなら、反逆の時のように心をかたくなにしてはならない。』」
聖霊があなたにこのメッセージを理解させたいと願っておられることが分かりますか? 聖霊はこれを2度繰り返しておられます。「心をかたくなにしてはならない」と。
16節に注目してください。
「聞いおきながら、神を怒らせた(反逆した)のはだれであったのか。モーセに率いられてエジプトを出たすべての人々ではなかったか。」
その山のような群れ全体がそうだったのです! 神を信じず、争い、神を試しにかけたのは誰だったでしょうか? グループ全体がそうだったのです。私たちが知る限り、例外はヨシュアとカレブの2人だけでした。
17節。
「神は四十年の間、だれに対して憤られたのか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。」
神は、不信仰であった「そのグループ全体」に対して怒っておられました。神は申命記 32章(20節)において彼らを「誠実(信仰)のない、非常にねじけた子ら」とお呼びになりました。神は国全体に対して怒っておられたのです。神はその世代全体に対して怒り、彼らがご自身の休みに立ち入ることができないよう判決を下されたのです。
そして友よ、皆さんに申し上げます。 神が荒野において背教的な不信仰を裁かれたように、神は今日もそれを裁かれます!
彼らはエジプトで見、出エジプトの時に見、さらに「40年間にわたって与えられた証拠」を拒絶しました。それは知っていながら行う「意図的な不信仰」です。それこそが背教であり、後退であり、魂を永遠の滅びへと追いやるものなのです。
神を信じようとしないなら、その世代全体を脇に退けなければならないとしても、神にとってそれは関係ありませんでした。神はそうせざるを得なかったのです。なぜなら、それこそが宇宙が造られた原理(法則)だからです。神の原理を破り、神を信じることに失敗するなら、あなたはその報いを自分自身の上に招くことになるのです。
◇
18節。
「神は、だれに向かって、ご自分の休みに立ち入らせないと誓われたのか。従わなかった(信じなかった)者たちに向かってではなかったか。」
友よ、ここに鍵があります。ここにすべての問題が集約されています。そしてそれが、第4のポイントである19節へと私たちを導きます。
イラストレーション(例話)、インビテーション(招き)、インストラクション(命令)のすべてが、この「核心(イッシュー)」を指し示しています。
19節。
「こうして、彼らが立ち入ることができなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。」
不信仰のゆえです! 私たちは「信仰」によって救われるのです。
18節には「従わなかった(信じなかった)者たちのほかに、だれに向かって誓われたのか」とあり、19節では同じ原理が別の言葉で繰り返されています。「彼らは不信仰のゆえに、立ち入ることができなかった」と。
◇
友よ、神はあなたの人生のための「祝福」を用意しておられます。あなたはそれを信じますか? 神はあなたの上に、この世においてだけでなく永遠にわたって富を注ぎたいと願っておられます。そして、あなたがその富を手にするために求められている「唯一の条件(商品)」があります。
それが「信仰」です。信仰なのです。
私はこれまで信仰について何度も語ってきましたが、いつも一つの例えが頭に浮かびます。 あなたは「私には信じられません。私は現実的で実証主義的な頭脳を持っているので、事実を見なければ信じられないのです」と言うかもしれません。
ああ、それはナンセンスです! 人間は誰もが「信仰(信頼)」によって生きています。 あなたも信仰によって生活しているのです。
レストランに行って食事をするとき、あなたは何も質問せずに料理を食べますよね?「肉を検査させてくれ。これはA級のトマトなのか?」などとは言いません。そのハンバーガーが仮に馬肉であったとしても、あなたは何が起きているかも知らずに胃袋に流し込んでいるのです。ご自身の家庭でさえ、妻が作った料理を何も疑わずに食べます。学校の食堂で何が行われているかなど、それこそ神のみぞ知るです!
つまり、私たちはみな「信仰」によって生きているのです。
ドライブをしているときもそうです。次のカーブを曲がった車線の上に「高さ12メートルのコンクリートの壁」が突然現れるのではないかと、ビクビク恐怖に怯えながら運転する人はいません。あなたは高速道路を作った人々を信頼しているのです。山道を走っているとき、「途中で橋が切れているのではないか」などとは思いません。
あなたは信仰によって生きているのです。 もしあなたが「道路交通局」や「料理を作る人」を信頼できるのなら、なぜこの宇宙の神に信頼を置くことができないのでしょうか? 神はあなたの信頼(信仰)を受けるに値するお方です。
あなたの内に、イエス・キリストに信頼と信仰をもって自らを委ねる「柔らかく素直な心」がない限り、あなたがこの人生で神の休みに立ち入ることも、神の祝福を体験することも、神の愛の広がりを味わうことも、永遠のいのちを得ることも絶対にありません。
友よ、あなたが境界線の上に立ち続け、イエス・キリストに対して「ノー」と言い続ければ言い続けるほど、あなたの心は硬化していき、キリストに「ノー」と言うことがどんどん容易になっていくのです。
ユダの手紙(5節)にはこう書かれています。
「あなたがたは一度はすべてを知ったのであるが、主が民をエジプトの地から救い出された後、信じなかった者たちを滅ぼされたことを、私はあなたがたに思い起こさせたい。」
聞き取れたでしょうか? 不信仰であることは、神からの滅びを自らに招くのです。
◇
ヘブル人への手紙 12章にある、身の毛もよだつような恐ろしい言葉(18〜29節)をお読みしましょう。これはモーセがシナイ山で律法を受け取ったときのことです。
「その光景があまりにも恐ろしかったので、モーセは『私は恐ろしさのあまり、打ち震えている』と言ったほどである。」
モーセの膝はガクガクと震えていました。「あの山の上で律法を受けたとき、私は本当に震え上がっていた」というのです。
しかし、著者は続けて言います。
「しかし、あなたがたが近づいているのは、シナイ山のような目に見える山ではなく、生ける神の都である天のエルサレム、幾万の御使いの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人の霊、新しい契約の中保者イエス、ならびにアベルの血よりもすぐれたことを語る注がれた血である。」
彼が何を言っているかお分かりでしょうか? 「シナイ山ですら、あれほど恐ろしかった。神の御動きを見たとき、モーセは全身を震わせたのだ」。
しかし著者は言います。 「あなたがたが近づいているのは、ある物理的な山ではない。あなたがたは神の山(天のシナイ)に近づいているのだ。あなたがたは信仰によって神の御前、神のあらゆる臨在の中に足を踏み入れている。それはすぐ目の前にあるのだ!」。
25節に注目してください。
「語っておられるかたを拒まないように注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、裁きを免れることができなかったとすれば、天から語りかけるかたから背く私たちは、なおさら裁きを免れることができないではないか。」
地上で語った者とは誰でしょうか? モーセです。 天からこの世界に来られた「神の御声」とは誰でしょうか? イエス・キリストです!
モーセの言葉を聞かなかった者たちすら裁きを免れなかったとするなら、イエスの御声を聞かない私たちが、どうして裁きを免れることができるでしょうか!
その時、神の御声は地を揺すぶりました。しかし今、神はこう約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺すぶる」。この「もう一度」という言葉は、揺すぶられないものが残るために、揺すぶられる造られたものが取り除かれることを示しています。
これを聞いてください。
「それゆえ、私たちは動かされない国を受けているのだから、感謝しようではないか。こうして神に喜ばれるように、かしこみ恐れて神を礼拝しよう。なぜなら、私たちの神は焼き尽くす火だからである。」
モーセの言葉を聞かなかった者たちの上に裁きが下ったように、キリストの言葉を聞かない者たちの上にも裁きが下るのです。
ソロモンの格言(箴言 29章1節)に耳を傾けてください。
「たびたび戒められてもなお首(うなじ)をかたくする者は、立ちどころに打ち砕かれて、いやされることがない。」
神に対して自らをかたくなにすることは、「生ける神」から離れ去ることであり、逃れようのない裁きを自らに招くことなのです。
それ故、聖霊が言われる通り、今夜私はシンプルにあなたがたに告げます。 「今日、もしあなたがたが神の御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」
お祈りをいたしましょう。
◇
天の父なる神様。 今夜、イエス・キリストのゆえに感謝いたします。私たちに対する主の素晴らしく、驚くべき愛のゆえに感謝いたします。
父よ、今夜の私たちは、あなたの愛やあわれみについてよりも、あなたの「審判」について多く語ってまいりました。しかしそれは、今夜の聖書箇所において、あなたが私たちをこの真理へと導かれたからです。
父よ、このメッセージが、人々の心に「聖なる恐れ」を植え付けたことを祈ります。 神様、今夜この場所にいて、まだイエス・キリストを知らないすべての人々に、どうか何の休息も、何の平安も、何の慰めも与えないでください。彼らの心が不安で満たされますように。彼らが夜も眠れなくなりますように。
何よりもまず、イエス・キリストをご自身の救い主として受け入れ、最後まで進み出て、信仰によってキリストに自らを委ねたいという激しい渇望が、彼らの内に起こされますように。