同性愛について聖書的に考える

さて、今夜は、神様が同性愛者をどう思われているかというテーマでお話したいと思います。これは、特に楽しい話題ではありませんし、どんな罪も楽しい話題ではありません。しかし、私たちの文化の中で急速に増加し、同性愛を受け入れようとする動きが常態化していることについて、聖書的な見解を得ることが適切かつ不可欠であり、必要となってきています。私たちは、神の言葉が何を言っているのかを理解する必要があります。

教会の外では、このことについて非常に多くの混乱がありますが、それは説明することは出来ます。しかし、教会内部でも同じような混乱があるようです。実際、「寛容、愛情、裁きなし(*tolerant, loving, nonjudgmental,)」と銘打った新しいタイプの福音主義があり、彼らはこの種の欲望や行動を持ち正当化する人々を肯定し、自分たちがクリスチャンであることを確認していたいがためにイエス・キリストの御名を維持したまま、そのようなことをしています。

コリントの人への手紙一6章を見ていただきたいのですが、私がしたいのは、神がこのような行動をどのように見ておられるかを知っていただくために、聖書的な見解を紹介することです。そして、最初に言っておきますが、これは私が皆さんに紹介しますが、理解してもらいたいので、まず初めに言っておきたいのです。同性愛の罪は、倒錯した性行為以上でも以下でもないのです。それ以上でもそれ以下でもないのです。変態的で異常な性行為です。というのも、同性愛者と私が誰かをそのように呼ぶと、逆に、その言われた人が、まるでその行為に引きずり込んでいくかのような、ある種、そのような傾向があるように思われるからです。そのため、あえて言っておきたいのですが、それは、変態的な行為であり、また変態的な行為以上でも以下でもないのです。

コリントの信徒への手紙の第1 6章の9節をご覧ください。使徒パウロはこんな言葉を書いています「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」

私たちの疑問に答えてくれる朗報が、まさにここにあります。神は同性愛者をどのように考えておられるのでしょうか。彼らが救われ、義とされ、聖とされ、洗われることが神の望みであり、同性愛や同性愛の行動が彼らの過去の一部となることで、彼らについて “あなたがたの中にもそのような人がいた “と言われるようになるのです。

さて、このリストはいろいろな理由で興味深いものです。ここでは、同性愛の罪について見ていますが、他にもいろいろな罪があり、そこから解放され、洗われ、聖別され、義とされる必要があるのです。また、このリストを見ると、コリント教会にどのような人たちがいたのかがわかります。もしあなたが、その教会に元姦淫者、偶像礼拝者、姦淫者、女色者、同性愛者、貪欲者、アルコール中毒者、中傷者、強奪者、エトセトラ、などがたくさんいると知っていたら、そのような人たちは避けたいかもしれません。しかし、コリント教会を構成していたのは、まさにこのような人たちだったのです。このことは、教会についてだけでなく、その社会について多くのことを物語っています。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者、等々、同じような人々で溢れている私たちの社会と同じような社会であった。何も変わっていないのです。

ですから、この教会、グレース・コミュニティ・チャーチは、コリントの教会と同じように、これらの前者のカテゴリーに当てはまる人たちが住んでいます。しかし、あなたは洗われ、聖別され、その種の行動から切り離され、神の前に義とされたのです。神があなたの上に愛の赦しと恵みを置かれたからであり、キリストへの信仰のゆえです。

私はバプテスマを授けましたし、他の人たちもこのバプテスマの水で、同性愛を含むすべての罪から解放された人たちに授けました。神の恵みと救いの愛によって、同性愛の罪人は贖われるのです。

ある日、オフィスに座っていると、”私の名前はデビッド・チャステインです “という男性から電話がかかってきたのを覚えています。彼はかすれた声で、”私は病院にいます。””私に会いに来てほしいのです “と言いました。

私は近くの病院に行き、部屋に入ると、すぐに彼がエイズで死にかけていることがわかりました。なぜなら、私はその様子を知っているからです。彼は友人たちに囲まれていましたが、その全員が明らかに同性愛者でした。彼は、明らかに同性愛の看護師、あるいは付き添いの人に看取られていました。私は彼のベッドに近づき、彼は弱った状態で私の手をできるだけ強く握り、こう言いました。「私は20年以上、同性愛の生活を送ってきました。私はクリスチャンの家庭で育ち、クリスチャンの教会で育ちました。福音は知っています。しかし、私はそれを拒絶し、憎み続けてきました。今、私はエイズで死にそうで、地獄に行きたくありません。私を助けてくれませんか?」

そして私は、「もちろん助けることできます。」と答えました。そして福音を伝え始めると、10秒で部屋は空っぽになり誰もいなくなりました。10秒で部屋は空っぽになったんです。そして彼はキリストに心を開きました。私は長い祈りを捧げました 彼が私の手を握りしめている間、神が彼に慈悲深く接し 彼を救ってくださるよう願いました。そのあと私は言いました 「もしあなたが祈りたいのなら、この機会に赦しを請い求めましょう。」

彼は、私がこれまで聞いた中で最も心に刺さるような祈りを捧げ、真実だと知り、そのように教えられ育てられてきたことに、あえて背いて生きてきた惨めな人生を許してください、と神に懇願しました。そして、この長く情熱的な祈りの後、彼は壁を見つめていました。私は彼に言いました。彼は、「あそこにある時計を見ているんだ。新しい人生の時間を覚えていたいのです。」と言った。そして、彼は喜びの感覚に圧倒されたのです。彼は言いました。「私はほんのわずかな時間で、たくさんのことを取り戻さなければならない。」と。

私は何冊かの本を彼のところに持っていきましたが、彼はそれを出来るだけ早く読みました。そして、キリストへの信仰を証ししたのです。そして、私の記憶が正しければ、5日ほどで彼はいなくなったと思います。

あのような改心はめずらしく、すべてがあのように劇的なものではありません。あれは最も劇的なものの1つでした。最後にもう1つの話をします。現代における悲劇の1つは、同性愛を救いが必要な倒錯として定義することはなく、「罪ではない」と聖書が定義しているかのように、正常な行動として、許容できる行動として、さらには、あなたがそう造られているからこその崇高な行動なのだ、として再分類されていることです。

間違った判断を下すと、回復を奪いさります。福音主義的教会は、聖書的な罪の定義を堅持すべきであり、慣習的に人気があろうとなかろうと、あらゆる罪において、罪人に立ち向かわなければなりません。同性愛行動の罪悪感を和らげようとする大規模な動きがありますが、それは決して終わらない慰めを欲する激しい罪悪感です。抑制されない欲望の結果である行動からこれらの人々をどうにか解放し、彼らの行動に対して大丈夫だと思わせようとする大規模なムーブメントがあるのです。許容される別のライフスタイル、性的指向、遺伝的な違い、あるいは個人的な嗜好として再定義しようとする努力があります。

しかし、それは間違っています。変態的な性行為以外の何物でもないのです。それ以上でもそれ以下でもないのです。そして、さまざまな理由でこの行為に関わり、引き込まれた人々は、この種の行為にますます深く入り込んでいくことになります。ポルノや不倫に、はまる人と同じような中毒症状ですが、こちらの方がはるかに強烈で、満たされるという点でははるかに勝るようです。罪悪感から自分を切り離し、自分が罪を犯しているという評価から解放され、自由になりたいと強く願うこれらの人々は、この国のあらゆるレベルで、小学校から始まり、テレビドラマ、映画、その他のあらゆる形態のメディアで、自分たちの倒錯をあたかも普通のことのように宣伝・セールスしています。

政府は、そのような彼らの願いに対して資金を援助する形で歩み寄り、差別のない法律であらゆる方法で彼らを受け入れてきました。政治家は、同性愛者の権利を求めるキャンペーンを行うことで、同性愛者の票を得ようとします。彼らは、同性愛の行動は本当に正当な少数派にとって自然なことであり、アフリカ系アメリカ人であることと同じであり、ヒスパニックであることと同じであるという考え方を私たちに受け入れさせようとしているのです。彼らは不当に差別されてきたマイノリティであり、その長い間の過酷な差別を埋め合わせるために、法の下で特別な扱いを受ける権利がある、というのです。

私が見つけたもっとも優れた統計情報によると、わが国の人口の1〜2パーセントが同性愛の性行為にいそしんでいると分類されています。しかし、このごく一部の人たちが、残りの98〜99%の人たちの関心を集めているのです。彼らは、これがある種の正常な行動であるという事実を私たちに受け入れさせようと努力しているのです。

それだけでなく、過去に散々虐げられてきたのだから、特別扱いされて当然だと主張します。彼らの意図は単純で、この罪深い性質に対して、私たちの感覚を鈍らせたいだけなのです。彼らは私たちを鈍感にしたいのです。私たちが擁護者になる必要はありません。彼らはただ、私たちが気にしないこと、考えを翻すこと、言うなれば、自分たちを他の人と同じように人権を享受すべき、ただの少数派と認めることを求めています。

しかし、これは人種差別という問題ではありません。これは性行為であり、それ以上でもそれ以下でもありません。特定の性行為や、行動をしているから、それゆえに特定の権利を要求し、その権利を与えるべきだと考えるのは馬鹿げています。小児性愛者、殺人者、強姦者、麻薬の売人など、その他、逸脱した行為をする人達に同じ権利を与えることと、どう切り分けて考えることができるでしょうか。彼らは皆、異なる嗜好があります。彼らには権利があるべきですか?妻を殴る人は?幼児性愛者は?一体この終わりはどこにありますか?

すべての罪は、人がその罪の方向に向かって「ねじ曲がっている」ために生じます。そして、ある社会が、特定の罪や特定の罪人に特別な権利を与えるべきだと決めたとき、その社会は、罪や聖書の真の理解から長く遠く離れてしまっているのです。強姦魔にも同じ権利を与えるのでしょうか? 彼らは単に「ねじ曲がっている」というだけの話です。彼らはそのように引き寄せられ、そのような強い衝動を持っているのです。彼らは好きなように自分を表現できるはずだし、そういう方向に「ねじ曲がっている」のだから権利を与えるべき、姦魔の人たちは、そのように仕向けられ、駆り立てられるのだと理解しているのです。児童虐待や小児性愛の人たちも同様です。

彼らの嗜好は、この国の歴史上、公衆衛生の面で最も破壊的な疫病の原因となっています。彼らはエイズの流行を引き起こしたのです。もし彼らの嗜好が、私たちの文化における他の性的逸脱とともに続いていくのなら、中世の疫病以来、どの国もいまだかつて聞いたこともないような最も壊滅的な崩壊を引き起こし、これらの人々をケアしようとする医療衛生界の財政破綻がやって来ることは言うまでもないでしょう。

彼らは非常に積極的に、小学生のような幼い子供をリクルートし、彼らを倒錯の淵に引き込み、自分たちが正常であると思わせるのです。彼らは今、養子をとる権利を与えられ、自分たちの家で、目と鼻の先で自分たちの犠牲者を出すことができるようになったのです。これは、2人の大量殺人者に向かって「養子縁組を許可するよ」と言って、そのような環境で普通の子供が育っていくと期待するようなものです。彼らの行動は、不自然で、歪んでいて、抑えきれない性欲の表現にほかなりません。

そして、どんなにそれを美化して普通に見せたり、素敵に見せたりしようとしても、無駄です。いくつか統計を挙げてみましょう。「同性愛行為をしている人の80%が、パートナーの半分は見ず知らずの人」この質問に対して2人に1人と答えています。彼らは何人のパートナーがいるのでしょうか?私が見つけた最新の統計によると、平均的な同性愛者は500人以上の性的パートナーがいるのです。500人ですよ!? 彼ら自身が認めているように、そのうちの50パーセントは、まったく知らない人です。30パーセントは1000人のパートナーがいると答えました。中には1,600人という人もいます。私が調べた限りでは、平均して1年に300人、1日にほぼ1人の異なる人と、ということになります。

彼らの行為に限界線はありません。その始まりは、ゲイ・バスハウスと呼ばれる場所で、彼らは1日に10~30人の見知らぬ人物と匿名で接触していたのです。同様の行為は、今や他の場所でも見られるようになりました。考えられる行為、考えられない行為、どれをとっても、語る必要のないものばかりです。彼らは人口の1〜2パーセントですが、エイズ患者の50パーセントは彼らです。このうち20人に1人が児童虐待者です。通常の人口では、少なく見積もっても500人に1人程度です。エイズにかかる確率は1000倍、殺される確率は100倍です。その8割が性感染症にかかっています。平均死亡率は現在75歳です。平均的なアメリカ人は75歳で死に、平均的な同性愛に従事する人は39歳で死にます。65歳まで生きるのは2パーセントです。

華やかさを取っ払うとどうなるか、それが本当の姿です。狂った性欲です。自殺行為です。そして、私はこの問題について、ほとんど無限の統計と情報のオンパレードを提供することができますが、ある時点から、それは助けになりません。それよりも重要なのは、神の視点から、この問題の本質を理解することです。コリントの信徒への手紙6章のテキストに戻りましょう。

そこに9節で “男娼となる者(effeminate, effeminate) “という単語が出てきます。NASの注釈には “倒錯による女々しさ(effeminate by perversion )”とあり、malakosはそのギリシャ語です。同性愛関係における受動的な相手を指す専門用語だったようです。

ギリシャ語辞書の最高峰の一つであるArndt and Gingrichは、この言葉にはおそらく、男性売春婦になることがゆるされ、受動的なパートナーとなる男性や少年も含まれていたと述べています。私たちが考えるような表面的なスタイルという意味での女々しさよりも、一種の同性愛的な売春なのです。次に、”同性愛者(男色をする者)”という言葉ですが、arsenokoitēsという2つのギリシャ語で、1つは “性的関係”、もう1つは “男性 “を意味します。男性が男性と性的関係を持つこと、まさにそのような意味です。

これらの人々は、神の国から排除される罪を実践しています。彼らは神の王国を受け継ぐことはできません。そのような生活スタイルを続けている限り、彼らは神の国に属することはないです。驚くべきことに、神の国を代表するはずの今日の教会は、このような逸脱した行動をとる人々に門戸と腕を開き、彼らを受け入れています。

世界教会評議会(The World Council of Churches)と全米教会評議会(National Council of Churches)は、数十年前にこれを罪と断定しました。主要な教派は、男性もレズビアンの女性も、同性愛を実践する人を牧師に任命しています。クエーカー教徒は、よりによって、同性愛は左利きほどには嘆かわしいものではないといと言っています。エピスコパリア教会の中にも同性愛者がいるし、同性愛行為を公然と行っている司教もいます。この近くのメソジスト教会のある牧師は、彼の言葉を引用しますと、”同性愛者はこの会衆に歓迎され、すべての権利と特権を持つことになる “と言いました。

新興教会(emergent church)の中では、教会の新しい波のようなものですが、このことについての立場をとっていません。彼らは聖書の中のどんなものにも確信が持てず、このことについても確信が持てないのです。実際、驚くべきことに、一部の神学者たちは、パウロが抑圧された同性愛者であり、解決されることのない性的憧れに苦しんでいたため、自己嫌悪に陥る抑圧された同性愛者になった、といったような主張を証明しようと努力しています。

トロイ・ペリーという男が設立したメトロポリタン・コミュニティ教会というキリスト教の同性愛者のための教会グループもあります。この名前を聞いたことがあるかもしれません。私はあるとき、彼と議論する怪しげな機会を得ました。念のため、彼らは暴力的なところがあるので、当時、ロサンゼルス・ラムズ(アメリカン・フットボールのチーム)の先発右ガードも連れて行きました。何が起こるかよくわからなかったのです。

トロイ・ペリーはもう一人の紳士とともに、キリスト教の同性愛行為を論証するためにやってきて、それを美化しようとしました。トロイ・ペリーは、「私は一夫一婦制に立っています。」とか「これは愛のある関係なのです。」とか、延々と言い続けました。そして、私はたまたまロサンゼルス警察から、ハリウッドの路地裏でセックスをして逮捕された彼の逮捕歴をすべて教えてもらってたのです。あの男は私の隣に座っていたのですが、言うまでもなく、そのことを指摘したら討論は終わりでした。彼は激怒し、部屋を飛び出しました。

このメトロポリタン教会、メトロポリタンコミュニティ教会はまだありますが、同性愛は神からの贈り物であり、イエスはレズビアンや同性愛者に敵対することはなかったと教えています。ダビデとジョナサンは同性愛者であり、ルースとナオミもレズビアンであったわけです。そしてソドムはもてなしが足りなかったから滅ぼされた。まさに、彼らの言うとおりです。純粋な者には、すべてのものが純粋であり、下劣な者には、すべてのものが下劣です。

キリスト教の枠組みの中で、この罪に対してあらゆる寛容があるわけです。悲劇的なことですが、それはこの人たちを非難したいからではなく、自分の罪に気づいて赦しと解放を求めるまで、神の国から締め出されているという事実に目覚めてほしいのです。

パウロがこの問題に直面しなければならなかったのは、当時の文化ではそれがどこにでもあったからです。教会に行ったのはどんな人たちかというと、元同性愛者というリストがあります。ソクラテスは同性愛者であり、ギリシャの指導者や哲学者の多くがそうであったように、非常に活発な同性愛者であったと言われています。プラトンは、有名なシンポジウムの中で、一節まるごと同性愛を称える文章を書きました。アレキサンダー大王にも男女の恋人がいたと、一部の歴史家から聞いています。ギリシャの兵士たちは、仲間の兵士の恋人を守るために勇敢に戦ったと信じられている、という話もあります。

ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、歴史によると、自分の愛人がいたそうです。ティベリウス・カエサルは幼い男の子を養子にし、残酷に虐待していた-どうやら小児性愛者だったようです。ギボンも、偉大な歴史家であるトインビー(Arnold Toynbee)も、これがローマ帝国の衰退とローマの没落の大きな要因の一つであると書いています。ある歴史家によると、ほぼすべてのカエサルが同性愛行為に及んでおり、それは横行しており、最初の15人のうち少なくとも14人がそうだったといいます。パウロがコリントの信徒への手紙一を書いた当時のカエサルであるネロは、スポルスという少年を連れ去り去勢させた後、結婚式を挙げ、妻として一緒に暮らしていました。

つまり、パウロの世界は、私たちの世界とあまり変わらなかったのです。同性愛の行為は、そこに列挙されている他のすべての罪と同様に、どこにでもありました。パウロは、同性愛の行為に、そのありのままの姿を突きつけました。それは罪深い行為です。それは罪深い行為なのです。彼は同性愛嫌悪者ではありませんでした。彼自身が抑圧された同性愛者であったため、過剰に反応したのでもありません。彼は聖書に忠実であり、罪人に忠実であり、悔い改めのために自分の罪を告げました。

パウロは聖書の教えを知っていました。調べてみましょう、申命記22章です。これらの文章を早足で読み進めていくことにしましょう。これらのテキストの詳細な研究は、別の機会または、あなた自身の研究のために残しておきます。マッカーサー・スタディ・バイブルには、役に立つと思われる膨大なメモがあります。後で読むことにしてください。

申命記の第22章5節に、”女は男の服を着てはならず、男は女の服を着てはならない。””これらのことをする者は、あなたの神である主にとって忌むべきものであるからである。”とあります。これは今日、ニューハーフと呼ばれるものであり、女装家と呼ばれるものであり、あるいは私が知らない別の名前かもしれません。自分の服を異性のものと交換することで、ある種の欲望的な興奮を覚える人のことです。

文字通りヘブライ語ではこのように記されています: “女は男に属するものを身に着けてはならない。また、男は女に属するものを身に着けてはならない。” – 衣服、道具、武器、道具、女性のアイデンティティや男性のアイデンティティを明確に奪うものは、何もありません。そして、過去のバイブルバンガ-(キリスト教や聖書を信じるよう、強引に、あるいは熱心に他人を説得しようとする人。)の中には、”だから女性はズボンを履いてはいけないんだ、ズボンは男性のものだから “と言っている人がいる、という事実についても話しているわけではありません。旧約聖書では、みんなスカートをはいていた、とか、そういう話じゃありません。

しかし、男性は男性のようなローブを、女性は女性のようなローブを着ていました。男は男らしく、女は女らしく。神は私たちを男と女に造られました。サタンはもちろん、偽宗教の歴史を通してその真実を抹消しようとし、抹消しました。

今朝ご紹介した古代の作家、マイモニデスも、派手な女装をした男がよく来て、ヴィーナスやアシュタロトを拝んでいたと言っています。ちなみに、一般的にギリシャの神々は男性か女性のどちらかでした。つまり、派手な女装をした男はよく来てヴィーナスとアスタロトを拝み、男物の鎧を着た女は戦いの神マルスを拝みに来るとマイモニデスは言っているのです。

古代宗教の典型的な例で、悪魔は人々に男性と女性の区別を曖昧にさせることに成功したのです。ドラッグクイーン、女装家、女性が男性のような格好をしたり、男性が女性のような格好をしたりすることは、公の場ではもちろん、プライベートな場でもよくあることです。異性に属する服や異性に属する道具を身につけることは、倒錯であり、忌み嫌われることです。

次の章、申命記の23章、1節をご覧ください。”すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。” これは本当のニューハーフで、非常に原始的な方法で男性の性を破壊された人のことです。さて、これは古代の手術の一種でした。ヘブライ語で「emasculated」と訳されている単語は、「砕かれる」という基本的な語源であるというだけで、十分です。これ以上は言いません。自分はなぜか男の体に閉じ込められた女だと主張して、医者のところに行って手術を受ける人がいます。そんなことをする人は、主の集会に入れません。

古代の人々は、宦官になって神に仕え、寺院に行って男娼になるために、神のためにこれを行いました。親は、自分の子供を神々に捧げ、神々に仕え、彼らが信じる神々から何らかの功徳を得るために、10歳にも満たない少年にこれをさせました。このようなことをするほど異教に深く入り込んだ人々は、神の姿を汚し、神の言葉、神のデザイン、神の意志を無視したため、国家内の市民としての特権や儀式を制限されました。主の集まりに居場所はありません。

“これは永久に続く罰だったのですか?旧約聖書で、もしこれをしたら、もし宦官になったら、決して救われない、赦されないと言うことですか?” それについては、私がお手伝いしましょう。イザヤ書56章です。そして、イザヤ書56章に進んでください、重要なのは3節です。

イザヤ書56章3節、”主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。”

彼らに赦しはあるのでしょうか。救いはあるでしょうか。旧約聖書でも、赦しがあり、救いがあるのです。”宦官を「私には希望がない」と言わせてはいけない” その異教徒、去勢された異教徒でさえ、自分は神から赦しを得ることができない、神から命を得ることができないと思わせてはならないのです。神はその人に、ご自分の壁の中のご自分の家に居場所を与え、息子や娘の名前よりも優れた名前、永遠の名前を与えてくださいます。

使徒8章では、まさに神様がこのようなことをなさったのです。使徒8章を思い出してください–調べるまでもないでしょうが–フィリポは馬車に乗り、その馬車にはエチオピアの女王キャンデスに仕えていた宦官が乗っていました。宦官はエチオピアの女王カンデイスに仕えていました。そして、彼は何を読んでいるのか?イザヤ書です。メシアと救いについて説明されました。そして彼は洗礼を受けられるかどうか尋ね、洗礼を受け、救われ、神の霊が彼の上に現れました。

それで、悔い改めない、不信仰な宦官は締め出され、神は彼らが悪の影響を持つことを望まれないので、ご自分の集会に近づけられません。しかし、救いは彼らに開かれているのです。ある意味、このような罪深い倒錯の中に生きているすべての人々に、イエス・キリストを救い主として受け入れ、赦され、新しい命と新しい名前を受け、完全な救いと永遠の天国を受けるよう、私たちは招待しています。しかし、ここに来てその倒錯を広めることを歓迎はしません。私たちは、そのようなことから自分たちを守らなければならないのです。

それでは、レビ記18章に戻り、聖書がこの罪についてどのように語っているかを見ていきましょう。レビ記18章22節、「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。 あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。」 獣姦のような倒錯です。

そして、24節にこう書かれています。”あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。”

“ゆえに、あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守り、これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行ってはならない。国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者もそうである。 27あなたがたの先にいたこの地の人々は、これらのもろもろの憎むべき事を行ったので、その地も汚れたからである。 これは、あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないためである。” あなたが教会を同性愛者に開放すれば、神が教会全体を口から吐き出すことになるかもしれません。

29節 “これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行う者があれば、これを行う人は、だれでもその民のうちから断たれるであろう。それゆえに、あなたがたはわたしの言いつけを守り、先に行われたこれらの憎むべき風習の一つをも行ってはならない。またこれによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である”

絶対に間違いはありません。同性愛の変態行為や行動は汚れています。それは神の裁きを生みます。神はご自身の意見を変えてはいません。神は当時と今とでは何も変わっておらず、全く同じように見ておられます。

レビ記20章13節、”女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。” 刑罰は死刑、姦通罪と同じくその場で処刑です。

さて、イエスは “私は律法の終わりである “と言った。」と言う人がいます。そうではなく、「成就するためにきたのである。」と言われたのです。イエス様は、”律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。” と言われました。神の道徳律は不変であり、絶対に変わることはありません。

第一テモテ1:10 “不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。”  聖書の初めには罪として分類され、そして、聖書の終わりにはやはり罪として分類されます。

創世記19章に行きましょう。創世記19章は、聖書の中で最もドラマチックにこの罪が描かれているところです。もちろん、創世記1:27、神は人を造り、女を造られ、彼らを男、zakar、女、neqebahとされた。彼らは互いに完成し、一つの肉となり、子孫を残すものであった。これが、神の不変のデザインである男と女です。サタンは、それをすぐに堕落させようとしますよね? そして、3章では堕落が起こります。その後、何が起こりますか?12章では、姦淫。19章では、近親相姦があります。第34章では、強姦があります。第38章では、売春があります。

創世記は家父長制の歴史となっています。また、創世記におけるもう一つの側面は、性的倒錯の発展です。そして、ここ創世記の19章では、同性愛が取り上げられています。ソドムはその都市です。ところで、エゼキエル書16章によると、ソドムはあらゆる種類の悪に満ちていたが、これほどショッキングなものはなかったのです。確かに、不貞、姦淫、一夫多妻、近親相姦、強姦、売春、何でもありました。

しかし、次のことに注目してください “そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。” 良い考えではありません。人々が見たこともないような、美しい姿の立派な天の御使いが二人いたのです。

3節 “しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。” ロトは彼らを守っていたのです。そして、17章でアブラハムとサラも訪問された時のように、天からの訪問者として丁重にもてなし、親切を表現したのです。

“ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、”  この2つの立派な生物が町にいて、ロトの家にいることが噂になり、町の男たち、ソドムの男たちが家を取り囲みましたが、若者も老人もです。

“ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」” 文字通り、彼らと性交したいのでした。それくらい、彼らは変態だったのです。

“ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、 言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。 わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。”

いったいどんなプランなんでしょうか。あなたはこう言うかもしれません “同性愛の罪の範疇において欲望が強いので、女の子には魅力がないと思っただけかもしれない”。そうかもしれません。しかし、より忠実に表現するなら、ロトは神の天使に変態行為をさせる前に、自分の娘を犠牲にしたと言った方がよいでしょう。

ところで、この箇所において、ベイリーという人が本を書いているのですが、その中で「ソドムの罪はもてなしが足りなかったことだ。人々はこの天使たちをあまりもてなせなかった。」と。それはそうでしょうが、それ以上のことがあったわけです。

9節、外にいる彼らの反応です “彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。” さて、この状況は本当に手に負えません、手に負えないレベルの状況です。

彼らは見知らぬ二人を求めている。その情熱は強く、欲望に駆られ、戸を襲う。しかし、その人たち、つまり天使たちは、10節で「その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。 そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。」、つまり、重要な者も重要でない者も。老いも若きも、小さき者も大いなる者もです。しかし、見てください。”彼らは入口を捜すのに疲れた。”

盲目にされたばかりだというのに、まだ入ろうとしていたのです。欲望が抑えきれなかったとでも言うのでしょうか。すごいですね。目が見えなくなったのなら、そこから抜け出したいと思いますよね。欲望は、この種の倒錯と同様に、とても強制力があり、彼らはドアに近づこうとし続けました。そして、神は最終的に街全体を焼き尽くしました。そこで生まれたのが、このような行為を表すために長年使われてきた「ソドミー」という名称です “ソドミー”です。

1列王記14:24と申命記23:17と18に登場するソドミーは、ここに起源を持ちます。ソドム人とは、同性愛の倒錯に従事する者のことです。ソドムの罪は同性愛であり、もてなしの心がなかったから、というわけではありません。このことはユダの6節と7節に繰り返し書かれています。本当に最も適切となっている言葉なので、この言葉を私たちは使うべきです。

ゲイは彼らを表現する言葉としては、ばかげています。彼らはゲイ以外の何者でもないのです。大きな罪悪感があり、孤独であり、未来も希望もなく、自己正当化キャンペーンで罪悪感を埋めようとする、彼らはゲイ以外の何者でもありません。同性愛は医学的な表現で、ソドミーは聖書的な表現です。それは、制御不能な情熱と欲望という、同性愛の本当の姿を示しています。

“正しい人に言え、彼らはさいわいであると。彼らはその行いの実を食べるからである。悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである。わが民は幼な子にしえたげられ、女たちに治められる。ああ、わが民よ、あなたを導く者はかえって、あなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる” ここには、イザヤの時代に行われていたソドミーが描かれていますが、これは神の裁きの一つです。

預言者は、エルサレムは破滅し、ユダは倒れたと言いました。彼らは主に反抗していました。彼らは主を挑発していたのです。ソドムの人々が罪を隠さなかったように、彼らはその罪を隠しません。彼らは同じような罪を犯していたかもしれません。彼らは、ソドムの人々が公然とその罪を見せびらかしたように、その罪を見せびらかしたのです。これは神に対する明白な反逆であり、露骨なものです。

そして、12節には「わが民は幼な子にしえたげられ、女たちに治められる。」とあり、興味深い記述があります。そこでの「女たち」というのは、女のような男、あるいは女々しい人ということになります。ある辞書では、”男のような女”と書かれています。イザヤの時代にも、政府や権力者、地位のあるところにソドム人がいたということかもしれません。できることなら、そういうポジションにつくのが好きなのです。ウィリアム・ロジャース著『ゲイの侵略』によると、フランクリン・ルーズベルト以来、すべての大統領閣僚に少なくとも1人は同性愛者がおり、今ではかつてないほど多くなっています。

イザヤは、ソドミーがあちこちにあり、高いところにまであることを知っていたのでしょう。アッシリア人、バビロニア人、エジプト人の生活の一部だったのです。歴史家の中には、ファラオが同性愛に従事していたと言う人もいます。私たちは、新しく生まれる、そのことを知らない世界であれば、こういったことが起こりうることだと考えることができます。150年かかりましたが、ついにこの罪と他の罪とが相まって、神の裁きによってイスラエルは滅ぼされました。ソドムを滅ぼした方が、イスラエルを滅ぼしたのです。それは後にギリシャを滅ぼし、ローマを滅ぼし、そしてアメリカを滅ぼすかもしれません。それは罪であり、致命的であり、破壊的です。そして、神はその見解を変えていません。

私たちの社会は、多くの嘘を信じているため、そのように見ることを拒否しています。ジークムント・フロイトという人が生まれました。彼は、多くの人間の行動の中で、ソドム人(同性愛者)を扱うことに興味を持ちました。彼はそれが支配的な母親に関連した心理的な障害であると判断しました。

1930年代、エリスという男が現れ、ソドミーを公開し、有名なソドマイトを指摘したマニュアル、性的な本を出版しました。彼は、ソドミーが偉大な人物になる傾向があるのは、ソドミーに特別な才能が付随しているからだと結論づけました。16世紀のオランダの人文学者エラスムス、イギリスの詩人クリストファー・マーロウ、イタリアの天才で同性愛者ではなかったミケランジェロ、フランシス・ベーコンことバイロン卿、ウォルト・ホイットマンことオスカー・ワイルドなど、インパクトある人たちをリストアップして、ソドムであるという天才性を証明しました。フロイトは、支配的な母親に対するある種の風変わりな反応であると言いました。エリスはその逆で、実は一種の天才なのだと言いました。

40年代から50年代にかけて、アルバート・キンゼイという本物の詐欺師が登場し、有名な「キンゼイ報告書」を発表しました。この報告書は嘘の塊で、10人のうち1人はこういうことをしていると、ソドミを正常化しようとしました。アメリカ精神医学会は、ソドミーは病気であると断定し、標準的な診断マニュアルから削除し、遺伝性であると決定しました。これらのことが、今日の流行につながったのです。それが逸脱した変態的な種類の行動以外の何物でもないという証拠は、何もない、となってしまうわけです。

こういったことに惹かれていく人がいるのでしょうか?はい。なぜ惹かれるのでしょうか?いろいろな理由があると思います。なぜ人はどんな罪にも惹かれるのでしょうか?私は惹かれません。私には理解できない罪があります。その罪は理解できません。多くの罪が理解できません。殺人も理解できません。

初期のアメリカでは、人々にショック療法を施し、同性愛の欲望ゾーンにヒットすることを期待して、脳に空白部分を吹き込もうとしていたことをご存知ですか?かつて、このようなことをする人たちに過激なロボトミー手術が行われたことをご存知ですか?しかしそれは無意味なことです、なぜなら、これは脳の肉や組織にあるものではなく、選択の問題なのです。

なぜ人々はそれを選ぶのでしょうか?もしかしたら、幼い頃に何らかの痴漢や、初期の同性愛のような経験をしたのかもしれません。そして、それは簡単で、手に入るものなのです。親密さが必要だったのかもしれず、異性とつながる能力に欠けているのかもしれません。発展途上のサブカルチャーは、確かにそれを許容し、多くの人を惹きつけています。すべての理由を知っているわけではありません。なぜ人々は不倫に引き込まれるのでしょうか?なぜ人々はポルノに引き込まれるのか?選択肢は、1つだけでなく、たくさんあります。

最後に見なければならない一節があります。神はこの罪を、いつも裁いてこられたように、裁かれるのです。 ローマ人への手紙1章です。ローマ人への手紙1章は、それだけで勉強になります。しかし、この憂鬱なテーマを長引かせないために、もう少しだけ紹介させてください。

ローマ人への手紙1章18節、”神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。”

タイトルをつけましょう「真の神への拒絶と偶像崇拝」いいですか?偶像崇拝。取り換える者たちに対して、神の怒りが示されます。彼らは取り替えました。 23節 “不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。” 25節 “彼らは神の真理を変えて虚偽とし” そして、26節、”彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、 27男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。”

神を拒否し、真の神を拒否し、偶像崇拝者となり、自分にあったスタイルの神を拝むことで、朽ちない神の栄光を他の神と交換し、そして、偶像崇拝は常に不道徳をもたらします。偶像崇拝は必ず不道徳に帰結するのです。”それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。~ そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。”

偶像崇拝は不道徳につながります。すべての歴史を通じて、この2つを対にすることができます。偶像崇拝は不道徳につながります。神は彼らを欲望のままにさせるのです。その欲望はどこに向かうのでしょうか。女性たちは、真の神の栄光と神の真理を嘘と交換し、自然の機能を不自然なものと交換したのです。そして、男性も全く同じことをするのです。

そして、彼らは何を得るのでしょうか。27節の終わりです ”そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。”とあります。これは主に肉体的な死と、神の裁きを指していると思います。彼らはあらゆる種類の性感染症にかかり、中には私が言及していないようなものもあります。寿命が短くなります。希望も未来もなく、大きな罪悪感にさいなまれて生きています。悲劇的な人生、悲しい悲劇的な人生です。神を拒否し、真の神を偶像と交換し、神の真理を嘘と交換すれば、自然な行動を不自然なものと交換することになります。

27節、小さなフレーズですが、”互にその情欲の炎を燃やし” これを言うだけで、もうすべてが語られています。これは文字通り、ekkaiōで、「燃え尽きる」、「欲望に飲み込まれる」、「荒れ狂う欲望」という意味です。彼らは苦痛を伴うようなことに従事するのです。

多くの大量殺人犯は同性愛者でした。一つの例があります。 ニューヨークタイムズによると、アメリカの誰よりも暴力的な死について知っている人で、『死の喜びの場所(Where Death Delights)』という伝記を書いたのですが、ハルパーン博士はキリスト教徒ではありませんでした。彼はこう言ったのです「同性愛を非難するのは私の役割ではないし、人がなぜ同性愛を実践するのかを解明するのは、精神科医や心理学者に任せている。しかし、6万人の検死を行ったものですから」–「規範から逸脱した人たちは、そのリスクを理解すべき時が来ました。なぜかわかりませんが、同性愛者の嫉妬の激しい爆発は、男の女に対する嫉妬、女の男に対する嫉妬をはるかに超えているようです。同性愛の関係で溜まった電荷やエネルギーは、単純に抑えることができないのです。爆発点に達したとき、その結果は残酷なほど暴力的です。しかし、これはこれらの同性愛者による攻撃の普通でよくあるパターンなのです。-彼は次のようにも書いています- ”複数の刺し傷、被害者が死んだ後も明らかに長く続けられた無意味な殴打、一人の被害者にこれらの残忍な複数の傷のケースを見たとき、我々は自動的に我々が考えさせられるのは、同性愛の被害者と、同性愛の攻撃者に向き合っている” とね。この欲望に蝕まれています。

悪い知らせのように聞こえますが 私が語ってきたのは、本当に良いニュースなのです、変態にとっての良いニュースです。もしあなたがこれを罪と認識し、それが何であるかを見抜き、それをやめ、維持し、聖別し、正当化しようとするのをやめ、罪として告白し、神に叫ぶなら、神はあなたを許し、あなたを洗い、あなたを聖別して義としてくれるでしょう。そして親愛なる皆さん、これが私たちがこの人たちに与えなければならないメッセージです。

ある晩、ラリー・キングの番組で、俳優のチャド・アレンと、まさにこのことについて話したのを覚えています。私は、コリントの信徒への手紙の6章から、彼のようにこのような生活をしている人は、神の国に入ることはできないだろうと述べました。「しかし、あなたがたは洗われ、聖別され、義とされたのです」と言いました。そして、神は彼を赦し、彼を洗い、彼を義とし、彼を聖別してくださるのだと伝えました。それがメッセージです。それが私たちが持っている唯一のメッセージです。

最後は、次の話で締めくくります。長くなって申し訳ありませんが、この機会を与えてくださればもうこの話はしなくていいということになりますので。詩篇107篇、詩篇107篇です。ある朝、私は講壇にたち詩篇を読み進めました。”彼らは神の言葉にそむき、いと高き者の勧めを軽んじたので、主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、暗黒と深いやみから彼らを導き出して、そのかせをこわされた。どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。” そして、さらに詩篇の一部を読み進めていきました。

しかし、ある一節が際立っていました。6節です「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し、住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた。」 もしあなたが同性愛の世界に住んでいるなら、「まっすぐ」という言葉は重要な意味を持ちます。その後ろに座っていたのが、ロバート・ラガーストームという青年です。彼はロサンゼルスのゲイ・プライド・パレードのリーダーの一人でした。彼はエイズで死にかけていました。彼は友人の一人に「僕は死ぬんだ」と言っていました。”死ぬのが怖い、まだ死にたくない。どこに行けば助けてもらえるのだろう?”と。仲間の一人が、”グレース・コミュニティ・チャーチという教会があるから、そこへ行きなさい “と言いました。彼はここに来たのです。私はその詩篇を読みました。彼は悩みの中で主に泣いている人でした。彼は惨めさと鎖につながれた囚人でした。彼は暗闇と死の陰の中にいたのです。

その日のうちに、彼は私にこう言いました。「あなたがそれを読んで、私は正しい場所にいることを知りました。それを聞いて、私は自分に言い聞かせたんです。どうすれば救われることができるのか?どうすれば救われるだろう?どこに行けばいいんだ?どうしたらいいんだろう と。そして、あなたは立ち上がり、この本当に長い長い説教をしました。あなたが話せば話すほど、私はイライラしてきました。私は解放されたいのに、あなたは話し続け、私はあなたが言った言葉を聞いていませんでした。」

そこで彼は礼拝の終わりに来て、祈りの部屋に来て、神の前に顔を伏せ、悔い改めてイエス・キリストを主と受け入れ、見事に救われたので、私はこの水の中で彼に洗礼を授けました。その前に、彼は知り合いに証しをしました。ゲイ・プライド・パレードが来たとき、パレードのリーダーたちは皆、彼がパレードのルート上に住んでいたので、死にそうな彼の無事を祈るために彼の家に来ました。彼は皆に福音を伝え、天国へ行きました。私たちが罪の真実を語るのは、赦してくださる救い主の真実を語るためですよね?

父なる神様、御言葉に改めて感謝します。この言葉は、私たちに多くのことを教えてくれます。このような問題を明確に語れたことに感謝します。私たちは、この悪質な罪に捕らわれている人々を悔い改めに導き、罪を受け入れるのではなく、福音の希望を与えるために罪人を愛することに忠実でありますように。そして、このあらゆる種類の教会で、罪人を救い、洗い、聖別し、義とし続けてくださいますように。そして、赦された者として、あなたを喜ばせ、あなたを讃える生き方ができますように。キリストの御名によって、あなたに感謝します。アーメン。

Grace to you Thinking Biblically About Homosexuality より翻訳

説教者:ジョン・マッカーサー
聖書箇所:随所
Aug 12, 2007

 

 

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