Grace to you The Church Has No Fellowship with the Worldより翻訳しました。
説教者:ジョン・マッカーサー
Mar 3, 2021
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皆さん、おはようございます。ご一緒に教会の現状について話し合うことができるのは感謝です。私達自身の教会だけでなく、より規模の大きな教会を分析し、教会が神の御言葉と教会の頭(かしら)である主キリストの御心にもっと沿うように試みているのです。教会の現状を語るという仕事は、あらゆる可能性を秘めた仕事です。焦点を絞り込まなければならなかったのですが、ある特定の聖句の部分に絞り込みましたので、これからお話します。
ここ数週間、いや数ヶ月、私はこの説教壇から「目に見えない王国」について説教してきました。私たちの信徒の皆さんや世界中で(メッセージを)聞いている人たちのために、光の王国と暗闇の王国の違いを区別しようとしてきました。明らかに、それらは互いに正反対です。 私たちは、教会に新しく来た多くの人々に、天の王国、神の王国、光の王国が何であるかという基礎的な現実を理解してもらおうと努力してきました。そして、それは二つの決定的な声明に集約されると思います。一つはヨハネ18章で、イエス様が「わたしの国はこの世のものではありません。もし、この世のものであったなら、私のしもべたちが、私をユダヤ人に渡さないように戦ったことでしょう。しかし、事実、私の国はこの世のものではありません。」 つまり、この世の王国、闇の王国と並行して存在する王国ですが、混ざり合うことはないのです。
もう一つは、ルカの17章で主が「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われたことです。つまり、王がここにいるから王国があるのであり、王が支配するところに王国は存在します。個々の信者の心に、また、教会という集団の信者の心にもある、ということになります。ですから、私たちはいわばこの世界にある王国ですが、この世のものではなく、この世とは異質のものであり、この世が気づくことのできないパラレルワールドに存在しているのです。
使徒パウロは「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。」と言いました。世の人々は私たちを見て、私たちが永遠に神の民であること、つまり私たちが贖われたこと、王が内在していること、そして永遠の王国に属していることを理解しません。その区別がつかないのです。生まれながらの感覚では、区別することは不可能なのです。彼らが可能なことは、私たちのすべてを、光の王国のすべてを憎むことです。
ですから、私はこの数週間、人々が自分たちのアイデンティティという点で、土台となっている世から自分たちを切り離すことができるよう手助けしてきました。なぜなら私の考えでは、教会における唯一最大の誤りは世との協力関係です。これは何も新しいことではなく、歴史のどの時代にも異なる形で存在していました。ですから、私は、教会が本当の意味で世とパートナーになることはできないということを理解する、その必要性について話したいと思います。そのことについて、いくつかの箇所からお話しします。
それでは、まず、マタイによる福音書16章を見てみましょう。13節にあるペテロの告白という、とても身近な話を取り上げます。「さて、イエスがカイザリア・ピリピの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、『人々は、人の子は誰だと言っていますか。』すると彼らは、『ある人はバプテスマのヨハネ、ある人はエリヤ、さらにある人はエレミヤ、あるいは預言者の一人だとも言っています』イエスは彼らに言った、『しかし、あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。』シモン・ペテロは答えた、『あなたこそ、生ける神の子、キリストです。』するとイエスは彼に言われた、『ヨナの子シモン、あなたは幸いです。人間があなたにこれを明らかに示したのではなく、天におられる私の父です。』」これがペテロの人生の最高の瞬間です。私たちの誰もが、主から 「あなたの話してることは、天からの言葉です。」と、言われたいと願うのではないでしょうか。
「あなたは幸いです。人間があなたにこれを明らかに示したのではなく、天におられる私の父です。」 これがペテロの最高なポイントになりました。「あなたはペテロです。この岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われました。
つまり、これらはペテロに与えられた驚くべき、驚くべき身分証明なのです。彼は教会の基礎の一部です。彼は王国への鍵を与えられています。つまり、どのようにしたら王国に入れるか、何が原因で王国から締め出されるかを教えることができるのです。そのような権威が神から与えられているのです。これがペテロにとって最高の瞬間であり、彼は神によって語っているのであり、それは神自身の証しと言えるのです。
そして正反対なことが、21節に起こります。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺されなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」これはペテロの人生における究極のどん底であり、隣接する2つの箇所で最高点から最低点へと変化しているのです。
「下がれ。サタン!」 イエスが使徒に言った言葉です。代表的な使徒で、復活の目撃者となる使徒、ペンテコステの日に教会設立の最初の説教をする使徒、使徒の働きにおける前半を通して説教している使徒、に対してイエスはこのように言ったのです。「下がれ。サタン!」 これは強い言葉です。そして主はhupagōという動詞を使って、”去れ “と言っています。激しい叱責です。マタイ伝の第4章10節に、サタンがイエスを誘惑しに来たとき、イエスが悪魔に同じことを言われました。イエス様はペテロに、サタンに言われたことと全く同じことを言われたのです。そして、その後に、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われるのはそのためです。最も激しい叱責です。「あなたは悪魔の策略にはまった。」
誘惑の方法は同じでした。サタンの誘惑は何だったですか? 十字架のない世界の王国を主に与えることでしたね? 十字架のない王冠、十字架のない王国。「私にひれ伏すなら、すべて与えよう」とね。 悪魔は、いまだにそれを言い続けているのです。福音主義の皆さんに言っています。不快感を避け、敵意を避け、迫害を避け、メッセージを調整し、十字架なしに王国を手に入れることができます、と。十字架がなくても王冠を手に入れることができる。主の唇から弟子に向かって発せられた最も破壊的な叱責でした。十字架なしに王冠が得られると考えるなら、苦しみなしに福音を通してキリストの御名を広めていくという目的を達成できると考えるなら、あなたは悪魔と手を組んでいることになるのです。
実利主義(*現実的な利益を追求するものの考え方)という言葉で特定できるものはすべて、苦しみを排除するように仕組まれています。そして主は「あなたは私のつまずきの石である。」(*新改訳第二版:あなたはわたしの邪魔をするものだ。)と言われました。ペテロは 「石 」という意味です。「この岩の上に私の教会を建てよう」 ペテロは石から岩、そしてつまずきの石になりました。
神の目的の邪魔をしたいならば、悪魔の大義名分を掲げ、争いなしで王国を前進させ、苦しみなしで王国を前進させ、十字架なしで王国を進めればよいのです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 もちろん、イエスを助けたいだけの愛すべき弟子にとっては、最悪の叱責でした。そうですよね?イエスを助けたい、苦しみを避けたいのです。 悪魔のやり方はいつもそうです。クリスチャンに考えさせ、光の王国は苦しまずに前進できる、と、闇の王国と譲歩し妥協させるのです。
ペテロの犯した罪は、教会の歴史の中で絶え間なく繰り返され、今日も行われているのです。クリスチャンは悪魔と取引することによって、イエスの御国建設を行おうとしてきました。この世的な計画によって王国を前進させようとするあらゆる努力が、悪魔の仕事をしていることになります。
イエス様は、「しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。」ヨハネ7:7と言われました。ヨハネ15:18-23では、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」と言っておられます。これは当たり前のことです。しかし、弱いリーダーには、それら敵意を排除しようとする傾向があります。善意とキリストへの愛が、政治的なロビー活動、実利主義、社会変革、浅薄な福音、娯楽、感情操作、罪の受容などによって、王国を前進させようとするでしょう。そのすべてが、闇を渡り歩き、悪魔の仕事をすることなのです。
私たちの主の方法は、光の王国の側に留まることです。そして、暗闇の王国と光の王国の間には厳しい境界線があります。第二コリント人への手紙10章に決定的な一節がありますので、少し見てみましょう。第二コリント人への手紙第10章(皆さんよくご存じでしょう)3節から5節までで、使徒パウロは3節で、私たちは人間(肉)ですが、人間(肉)の武器は使いません、と言っています。私たちは人間の武器や戦略で霊的な戦いをすることはできません。私たちの戦いの武器は人間的なものではなく、「肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」ます。
神の知識に逆らって立てられたものと同盟を結ぶのではなく、それらを打ち砕き、すべての思いをキリストの服従に捕らえ、すべての不従順を罰する用意があるのです。これは、キリストへの完全な従順である王国での生活を単純化するものです。そして、神の知識に逆らって、キリストへの服従に逆らって持ち出されたものは、あたかも神の知識に逆らって持ち出された思弁や高尚なものと呼ばれる観念的な要塞を打ち砕くかのように、真理をその上に押しつけるのです。私たちの仕事は、あたかもサタンがキリストの教会建設に協力するためにキリストのそばに来るように、世と同盟関係を結び、そうすることによって王国を前進させることができると考えることではありません。
この世にあるものは、すべて過ぎ去ろうとしているのです。「世をも、世にあるものをも愛してはなりません。」 この世のものはすべて、非常に短い賞味期限なのです。ヤコブ4章4節 「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
光の王国は、悪魔の王国からの助けを必要としません。ワシントンのロビー団体(*ロビー活動:特定の主張を有する個人または団体が政府の政策に影響を及ぼすことを目的として行う私的な政治活動)が、どういうわけか政治家がイエス・キリストの名を広める手助けをしてくれるという奇妙な考えをもってロビー活動をする必要はないのです。この国でも他の国でも、どの国の法律がどのようであるかは全く関係なく、光の王国とは何の関係もないのです。どんな法律が作られようと作られまいと、どんな法律が少なくとも一時的な意味で王国に利益をもたらし、どんな法律がクリスチャンであることを難しくするかは重要ではありません。それらは教会を建てることには何の影響もありません。イエス様は、「わたしはわたしの教会を建て、ハデスの門はこれに打ち勝つことはできない」と言われました。「父がわたしにくださるものはみな、わたしのもとに来ます。わたしは彼らを一人も失わず、終わりの日に彼らをよみがえらせます。」と言われました。キリストは勝利されるのです。パウロはコリントの信徒への手紙第二で 「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え」 と言っていますね?
世とパートナーシップを結ぶことはありません。私たちは、世の注意を引こうとする必要はありません。選民を救いに導くために必要なことは、福音を宣べ伝えることだけなのに、世の注意を引こうとすることであたかも人々が救われる道が開けるかのように、世の関心を買う必要はないのです。私たちの主の方法は、光の側にとどまることです。福音主義はペテロがやってしまったように、大胆で、妥協のない、しかし(真の意味で)思いやりのある、愛に満ちた、罪人を怒らせてしまうような福音の宣教よりも、もっと良い方法を提供するようになりました。
福音主義者たちはペテロのようになってしまいました。彼らはサタンと同盟を結び、何とかして王国を助けることができないかと考えているのです。私は数週間前、信徒の皆さんに、私は宗教の自由には決して関心が持てません。私は宗教の自由のために戦うことはありません、と言いました。なぜなら、私が偶像崇拝のために戦うことはないからです。悪魔ができるだけ多くの偽りの宗教を持ち、そのすべてを誰もが利用できるようにするために、なぜ私は戦わなければならないのでしょうか?まあ、人々は「それはひどいことを言ういますね。」と言うでしょう。「キリスト教はどうなんだ?」と。宗教の自由があろうがなかろうが、キリスト教は前進します。すべての嘘のために宗教の自由は常にあります。あらゆる偽りの宗教は、この世で活動している暗闇の王国と結びついているので、自由であり続けるのです。そして、クリスチャンは、広い意味での信教の自由というラベルがどうであれ、信教の自由があったとしても、罪人たちの敵意の的であることに変わりはありません。
使徒たちは、世的な助けを借りず、社会的な活動もせず、同盟もせず、世界をひっくり返しました。邪悪な闇の王国は、神が愛するものを憎み、神が憎むものをすべて愛しており、闇の王国は決して光の味方になるこなどありません。邪悪な支配者は、神の真理を嘘と取り換え、究極の嘘つきの下で機能しています。サタン自身、嘘つきであり、嘘の父です。私たちがサタンと同盟を結ぶ理由など、どこにもありません。神をも恐れぬ支配者はすべて、反キリストの予告です。神を信じていない支配者はすべて、反キリストの予告なのです。
つまり、神の国、真理の国、キリストの国、もう一つはサタンの国、嘘の国、反キリストの国という二つの王国があるのです。では、世における教会の使命とは一体何でしょうか。いくつかの箇所を見ることができます。エペソ人への手紙5章にそのことが書かれているので、5節から見てみましょう。
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、むさぼる者 - これが偶像礼拝者です、- こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。-光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。-」 7節で「彼らの仲間になってはいけません。」とあり、あなたは世と同盟を結んではならないのです。「だまされてはいけない。」 6節「むなしいことばに」 いかなる同盟も暗やみの王国と結んではならないのです。
コロサイ人への手紙2章6節に 「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。あのむなしい、だましごとの哲学によってだれかのとりこにならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
3章では、なじみのある箇所です。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」 そして、12節には「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは、
深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そしてこれらすべての上に愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」 これがあなたの人生の要約です。神とキリストに関係するものなのです。あなたの人生のすべては、光の国に君臨するお方に関係しているのです。
これらの聖句についてさらにお話することもできますが、もう一つ、ぜひ一緒に見てほしい聖句があります。第二コリント人への手紙6章です。とてもよく知られている箇所ですが、今のこの時代、教会は見落としていると思います。第二コリント人への手紙6章14節です。言いたいことはたくさんありますが、この場では、できる限り要約したいと思います。
14節の冒頭の文は、多くを説明する必要はないでしょう。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」 難しいでしょうか。理解できないでしょうか。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」無条件にそうなのです。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。と全能の主が言われる。』」 そして、7章の1節「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」 とあります。そして、その汚れは、それらの同盟(同盟関係)という汚れなのです。
一つは、正義、光、キリスト、信者、神によって示されたもので、もう一つは、無法、闇、ベリアル、未信者、偶像によって示されたものです。この二つの王国が、協力、交わり、調和、相互利益において一緒になる可能性はない。一方は古く、他方は新しい。一方は地上のものであり、他方は天上のものです。一方は死を意味し、他方は活力を与える。一方は物質的で、他方は霊的です。一方は嘘に満ちているが、他方は真実です。
そこで、14節の「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」という命令です。それは、未信者と離婚しなさいということではありません。パウロはそのことを述べていますよね。コリント人への手紙第一9章に書いてあります。パウロ自身が 「すべての人に、すべてのものとなりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです。 」と言っているので、孤立を意味するのではありません。イエス様はヨハネによる福音書17章の大祭司的な祈りで「父よ、彼らをこの世から追い出してくださいというのではなく、彼らを悪から遠ざけてください。」と言われました。つまり、私たちは「孤立する」ということを話しているのではなく、「共につながれてしまう」ことを話しているのです。
これは非常に重要なことです。なぜなら、このコメント、つまり「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」という命令は、申命記22:10に基づく禁止事項だからです。申命記22章10節には「牛とろばとを組にして耕してはならない。」とあります。2つの異なる性質、2つの異なる歩幅、2つの異なる気質を持つ、2つの異なる種類の動物が一緒に、まっすぐな溝を耕すことはできないのです。
共通の大義名分ではつながれることはない、それが発想の原点です。共通の理由をもって、つながることができないのです。これは新しいことではありません。エレミヤはエレミヤ書の中で最も素晴らしい一節でこのことを取り上げています。第2章、聞いてください。
「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。-主の御告げ- 」
「ヤコブの家と、イスラエルの家とすべてのやからよ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。『あなたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。彼らは尋ねもしなかった。』「主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は」と。しかしわたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌むべきものにした。祭司たちは、『主はどこにおられるのか』と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、」ここに具体的な告発があります。「預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。」 真の神との関係からの逸脱です。「そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。-主の御告げ- また、あなたがたの子孫と争う。」
そして、その章の終わりには、このように言っておられます。「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」 神の民はなぜそのようなことをするのでしょうか?なぜ、彼らは世に堕落したのでしょうか。これは何も新しいことではなく、イスラエルの話しであり、教会の悲しい歴史でもありました。
サタンは常に神の働きを妨げようとし、教会を暗闇の王国に結びつけることによってそれを行うのです。マタイ13章のたとえ話にあるように、悪魔がやって来て、麦の中に毒麦を蒔く、あるいは誘惑する、とイエスは言われています。悪魔が教会に不信仰な者を蒔くか、教会を誘惑してこの世と同盟を結ばせるか、どちらかです。
現在、欠けのある教会での支配的な関心は、人種差別、フェミニズム、同性愛の領域にあり、これは福音主義に大規模な混乱を生み出しています。神を憎み、キリストを拒絶し、異様な性的情熱に駆られた、反家族、反キリスト教の無神論者によって300年前に啓蒙主義から生み出されたCRT(Critical Race Theory:批判的人種理論)、交差性(intersectionality)、構造的人種差別(systemic racism)、フェミニズム、人種差別といった、苦い、復讐的で恩知らずな哲学に、光の王国が参加しています。フィリップ・ジョンソンの著書『知識人(The Intellectuals)』を読めば、これらの哲学者たちが、これまでに知的権威として上り詰めた人々の中で、最も逸脱した人々であったことがわかるでしょう。
しかし、彼らが社会レベルで発生させたすべての問題は、今や教会の関心事となっています。教会は、この地上で正しくないことを解決するために、世とパートナーになろうと努力しているのです。そして、私たちは皆、間違っていることがたくさんあることを知っています。それは新しいことではありません。創世記6章、主が地上をご覧になったとき、主がご覧になったのは「いつも悪い」でしたね。そして「いつも悪いことだけに傾く 」でした。
ですから、もしあなたが地上を修正しようとするならば、かなり巨大な仕事が待っています。もし、すべての社会悪を正そうとするなら、もし、すべての虐待を正そうとするなら、それは非常に困難な問題です。あるカテゴリーで罪を防ぐためにバリアを張っても、彼らは罪が生きのびるための、別のカテゴリーに逸脱するだけです。
では、真理と現実を歪曲し、神を憎み、キリストを拒絶する態度の世と、共通の大義名分をもって、教会は何をしているのでしょうか。パウロのこの箇所は非常に力強いので、少し掘り下げてみましょう。過去、現在、未来という最も分かりやすい3つの視点から見てほしいと思います。14節の冒頭で、「不信仰と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」と、強調していますが、過去の事柄に言及されています。これは申命記22章10節から引用したもので、旧約聖書の中に出てくる言葉です。過去の事例をほかにも見てみましょう。
かつて、神は民と世との同盟に対してどのような態度をとられたのでしょうか。旧約聖書には、禁止事項がたくさん書かれています。全体像を把握するために、そのいくつかを振り返って見ましょう。たくさんありますが、まずは出エジプト記の23章31節から見てみましょう。「わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。」
今、私たちは、神がイスラエルに対して、「あなたは彼らの中にいて、生きることはできないから、彼らをこの地から追い出す必要がある。 」と神が言っている事実を見たのです。それは、神の民にとってさえ、不敬虔な世界がいかに強力で、誘惑的であるかということです。彼らを征服する必要があります。滅ぼす必要があります。彼らがまだそこにいる場合、あなたは生き残ることができないので、あなたはそれらを追い出す必要があります。それくらい、世は強力で魅惑的なのです。
出エジプト記第34章12節に「あなたは注意して、あなたが入っていくその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。いや、あなたがたは彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。~ 彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々のいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。」つまり、この偶像崇拝者の存在そのものが、あなたを誘い、吸い込むほどに、強力で魅惑的なのです。
申命記7章では、約束の地に入る直前に、この警告が繰り返し述べられています。「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。容赦してはならない。」これは、神の側が、闇の王国の強力な誘惑の影響から、神の民を守るための極端なアクションです。
「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の民とされた。」
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」 そして、この驚くべき言葉は「主があなたがたを愛されたから」なのです。主はあなたを愛しています。あなたを愛しているからこそ、あなたを守りたい、つまりあなたを暗闇に誘惑する可能性のある周りの人たちをすべて滅ぼそうとされているのです。それは、あなたが守られるようにという、あなたに対する主の意志です。明らかに、私たちはイスラエルの民がそうしなかったことを知っています。彼らは異邦の民たちを隔離せず、滅ぼさず、その土地から追い出さなかったのです。そして、もちろん、彼らは偶像崇拝者になりました。
イザヤ書30章「ああ、反逆の子ら。-主の御告げ- 彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。」 エジプトとの同盟から得られるのは恥と非難だけであり、見ている世に対して、自分の神を信頼していないことを明らかにすることになるのです。
そこで31章では、「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助けるとを攻めたてられる。エジプトは人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。」 世との同盟からは何も得られません。この世の指導者、政治家を信じても何も得られないのです。
つまり、14節に暗示されているのは過去の見解です。第2コリント人への手紙に戻りましょう。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」 これは旧約聖書の禁止事項を思い出させます。神様はイスラエルを孤立させるためにいろいろなことをされました。食事に関する法律、衣服に関する法律、暦に関する法律などです。それらはすべて、彼らを闇から守るための努力でしたが、悲しいことに、最終的には闇が彼らを飲み込んでしまったのです。
では、現在形に移りましょう。よろしいでしょうか? パウロは今、私たち、教会に語りかけているのです。「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」 現在形で、5つの比較がされています。「わかったよ」と言いたくなるような内容ですね。
5つ目に入る前に、5つの比較で、教会での生活の問題を語っています。「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。」“つながり(パートナーシップ)“はmetochēです。新約聖書ではここでしか使われていませんが、ルカ5章ではペテロの漁のビジネスパートナーについて語られ、ヘブル3章ではキリストとの結びつきについて語られている言葉に関連しています。つまり、これは、共通の努力、共同の努力のための本物のパートナーなのです。誰かの隣に座って何かを見ているようなものではなく、共通の努力におけるパートナーシップです。正義は無法とパートナーシップ(つながり)を持つことはできません。マタイによる福音書7章23節、イエスはこう言われました。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
ヨハネの手紙第一3章には、闇の民と光の民との決定的な区別が次のように書かれています。「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」 相互に排他的です。
最初の声明で「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。」となっています。第二に「光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」です。最初の声明は特徴に関することです。特徴は正義や不法によって表されます。この箇所はもう少し深く、特徴と関係があります。「光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」です これらは定義上、相反するものです。「光」は真理と美徳の比喩で、「闇」は嘘と不義の比喩です。
光の子供と闇の子供が何かの理由で一緒になる?ありえません。王国を前進させるという観点からは不可能です。一緒にビジネスをすることも、チームに入ることも、一緒に仕事をすることもできます。しかし王国を前進させるという観点からは 共通の同盟を結ぶことはできないのです。
つまり、まず行動(正義と不法)に言及しているのです。そして、特徴(光と闇)に戻っていきます。そして、力について述べています。2つの力の違いは何でしょうか?「調和」とは何でしょうか? そしてそれは、実はsumphōnēsisという言葉で、そこからsymphonyが来ています。
「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。」力に関する話をしているのです。キリストの力が悪魔の力とどのような同盟を結ぶ必要があるのでしょうか?ベリアルとはサタンの古い名です。「無価値」という意味です。旧約聖書の中で12回使われています。サタンとキリストを結びつけることは考えられません。福音を伝える信仰者として 「無神論者、神なし、キリストなし、復讐心、憎しみ、人種差別のイデオロギーと同盟を結ぶ必要がある」 と考えることは、ありえません。この2つが一緒になっていると考えている人達がいるのです。そして「それも福音の一部だ」とまで言うのです。
それは不可能です。世の中のどんな共通の大義名分と同盟しても、たとえそれが人の興味をひくのに有効な要素を持っていたとしても、神の国を前進させることはできないのです。世界が変わるには、人の心が変わるしかないのです。主は、世との協力関係をこのように捉えてほしいのです。それは、キリストをサタンに合流させることです。
そして、「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」と言っています。つまり、行動(正義と不法)から、特徴(光と闇)、力(キリストとベリアル)、そして手段へと進んでいくのです。この世は目に見えるものによって行動しますが、私たちは信仰で行動します。信仰者が不信仰者と共通する点というのは一体何なのでしょうか。彼らは純粋に世的なレベルで活動し、私たちは霊的なレベルで活動するのです。主への信仰によって生きるクリスチャンにとって、私たちの信頼は主にあり、信仰は主にあって、だからこそ、私たちは生ける水の泉を割れた壺に入れ替えたりしません。それは私たちに何も提供しません。私たちは、神の力、キリストの力、聖霊の力によって超自然的に機能するのです。この世の人々ができることは、自然界のレベルで機能することだけです。私たちは神を信頼していますが、彼らは自分自身を信頼しています。私たちは御霊を信頼し、彼らは肉を信頼しています。彼らは政治的な力、軍事的な力、イデオロギー的な力、財政的な力を信頼しますが、私たちは神を信頼します。
そして最後に、正反対のアイデンティティがあります。これは大変意義深い言葉です、「アイデンティティー」。16節で 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」と言っています。これはエゼキエル書8章のようなものです。エゼキエルが神殿の幻を見たとき、神殿に偶像が彫られてあり、神殿に偽りの神々がいるのを見たことを思い起こします。第一サムエル記4章から6章にあるように、ペリシテ人が契約の箱を捕らえ、それをダゴンの家に置きました。神は偶像と並ぶことはないでしょう。この話を覚えているでしょうか。翌朝、偶像は倒されました。翌朝彼らが戻ってきて、それをまた設置しますが、その翌朝には再度倒され、その頭は切り落とされ、バラバラにされてしまったのです。
私たちには、何の合意もありません。「私たちは生ける神の宮なのです。」 なんて素晴らしい言葉なんでしょう。「生ける神の神殿」。 生ける神の宮と偶像に何の関係があるのか?何の一致があるのか? この箇所は一致を意味しています。「神の宮(神殿)」は 「ナオス 」で、聖なる場所という意味です。私たちは神殿なのですよね?神の霊が私たちのうちに宿っています。ヨハネの福音書14章20節、イエス様は素晴らしい言葉をおっしゃいました。「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」
“アイデンティティ”は、今日、流行語になっていますね。誰もが人種のアイデンティティー、セクシュアルアイデンティティー、ジェンダーアイデンティティーについて話したがります。私たちにもアイデンティティがあり、それは、私たちが生ける神の神殿であるということです。確かに、私は見かけによらない存在なのです。私は一人の人として見えてますが、それは私の物質的なアイデンティティです。私の真の目に見えない、実際のアイデンティティは、私が生ける神の神殿であることです。キリストは私のうちにおられ、キリストは私のうちに生きておられます。そして、私はキリストを偶像に結びつけることはできません。パウロは、キリストを遊女と一緒にしてはいけないとさえ言っていますね。
だから、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」なのです。正義と無法のように一緒に縛られてはいけません。光と闇が相容れないように、一緒にしてはいけません。キリストとサタンのように一緒にしてはいけません。生ける神の神殿であるのはずなのに、偶像崇拝者と一緒にしてはいけません。そのようなことをしても、神の御国を前進させることはできないのです。
もうひとつ、クライマックスとなる真理がありますが、それはここの最後のセクションになります。それは、「未来」に関することです。これは、今まで見落とされてきたことだと思いますので、皆さんにとって新鮮な洞察になるかもしれません。16節を見てみますと、「神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」これらは約束です。わたしは~する、わたしは~する、わたしは~する 、わたしは~する、と4回、4回です。これらは約束なのです。
旧約聖書からの引用であることにお気づきでしょうか。旧約聖書のモーセの律法です。わかりますか?御国に関連することです。キリストの千年王国です。エレミヤ書24章にあるような王国の箇所から引き出されたものです。「わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」とあり、引用されています。
住む所と、歩みについて語られるとき、神は未信者に語りかけ、救いを呼びかけているのではなく、すでに信者である私たち、キリストの一部である私達が、光と義であることを語っているのです。彼は信者に対して、神の約束は将来の王国であると語っているのです。エレミヤ31:33「『これは、その日以後、私がイスラエルの家と結ぶ契約である』と主は言われる。エゼキエル書37章のおなじみの言葉「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。-主の御告げ-わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」つまり、これらの王国の約束はすべて、イエス・キリストの地上での支配によって、神の目的が達成されることを意味しているのです。しかし、私たちが世と同盟を結んで努力しても、それは正されません。王の王が来られるときに、正されるのです。
「これらの約束を守り、それらの汚れた同盟からあなた自身を聖めよ」 それは王国の約束であり、再建と呼ばれるキリストの千年王国支配、聖めの時、復興の時、キリストの日と呼ばれるものです。黙示録19章では、キリストが19章で来られ、20章でその王国を確立し、最終的に新しい天と新しい地ができるように、キリストの千年間の支配が描かれています。
つまり、物事が正される日が来るのです。詩篇2篇のように、王が裁きに来て、支配に来るという約束は、新約聖書を頂点とするものです。イザヤ書では、その王国の要素が示されています。神を王とする世界におよぶ礼拝。すべての膝がヤハウェに屈する。すべての国民は神の栄光を見る。完璧な正義と公正、正しさと真実。人と人、人と動物との間の平和。経済的な祝福、豊かな雨、長寿。戦争がなく、安全で、喜びがある。そのすべてが王国であり、神が来てその民と共に住み、彼らの間を歩き、彼らの神となり、彼らは神の民となるのです。ゼカリヤ14章9節に「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。」とあるように、主は全地の王となり、その日、主は唯一の者です。「主はただひとり、御名もただ一つとなる。」、唯一の支配者です。
だから、私は「都市への働き」(urban mandate: 都市に調子を合わせて伝道)についてよく聞きます。そのような話を聞いたことがありますか?都市を再生するために、都市への働きを持っていると主張します。では、都市への働きとは何でしょうか。マタイの福音書11章にあるイエスの言葉で、都市への働きについて説明します。
「それから、イエスは、数々の地からあるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。』」そして、現代人は奇跡は見ていませんが、神の啓示は全ていただいています。そして、それを拒否しています。
都市への働きがあり、その都市への働きとは、主イエス・キリストを拒絶するすべての都市に裁きを言い渡し、警告すべきことを警告することです。黙示録18章には、「私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。彼は力強い声で叫んで言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。』
わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を合わせなさい。彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない』と言うからです。それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼きつくされます。彼女をさばく神である。」これが都市への働きです。現在活況を呈している世界経済全体が地獄に突き落とされたとき、神の裁きとして何が起こるかを都市に伝えるのです。
ですから、神が過去にご自分の民に語られた、世からの分離と、私たち教会に語られた世からの分離と、神が分離を行い、義と正義と平和と喜びの王国を建設される未来の計画のために、17節での私たちへの命令、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。」。これはイザヤ書52章11節、偉大な53章の前の章から引き出されたものです。
これは、分離への呼びかけです。そして、主が私たちを、永遠の御国で主とともに君臨する息子や娘として、ご自分の前に迎え入れてくださる日が来るのです。だから私たちは、7章1節、「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れてかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」、なのです。「聖き」とは何ですか?分離という意味ですよね?
だから、私たちは分離するのです。私たちは分離します。「全う(完成する)」、エピテリオ(epiteleō)です。これは終末論的な用語で、王国に来る完全性を示しており、完全に正しい神によって、すべての権利が確立されることを示しています。彼は教会に語っています。複数形で、「すべてのモルスモス(molusmos:汚れ)から自分を聖めよう」とあります。王国を前進させるためにサタンと同盟を結ぶ必要はありません。
私たちの使命は明確です。暗闇に光を照らし、暗闇と交わることはありません。マルコによる福音書1章15節には、とてもシンプルに書かれています。悔い改めよ、福音を信じよ。それが私たちの使命です。
さて、ペテロを恥ずかしい形で、そのままにしてますで、彼の名誉を回復できないか見てみましょう。ペテロの手紙第一 1章13節です。ペテロは多くを学びました。彼は私たちに書いています 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」と書いてあるのですから。いいですか、ペテロ、もう分かりましたね。分離しなさい。分離です。
なぜなら、あなたが父なる神に語りかけるとき、あなたを贖った方に語りかけることになるからです。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」最も偉大な代価があなたのために支払われました。あなた方は唯一無二の、分けられた、聖なる民なのです。
2章9節を見ましょう。ペテロは旧約聖書から多くのことを引用して、このように要約しています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」 訪れの日とは何ですか?キリストが裁きの座で人々と対面される日です。あなたは、人々が影響を受けて福音を信じるようになり、その人々があなたとともに神の裁きの訪問の日に神を讃えるように、そのように自分の人生を生きたいのです。
そこでペテロはメッセージを受け取ったのです。メッセージは「世から離れよ」です。世とつながると、すべてが完全に混乱します。そして、最後の手紙の最後にペテロが言った言葉があります。「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことのならないようにしなさい。」 それは、光の中に生き、光を宣べ伝える者として、自分の決意、自分の確信、自分の堅忍から落ちることを避けるために注意しなければならないことです。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」ペテロは最後に言いました。「ただキリストに焦点を合わせなさい キリストに集中するのです。」
今、ペテロのような状況があると思います。ある日、彼らは天から来たものを正しいと言い、次の日には地獄から来たものを正しいと言っています。福音によって、そして福音だけによって縛られるべき人々が、社会的な大義名分を掲げて、タイタニックのデッキチェアを並べ替えているに過ぎないからです(滅びゆく、沈みゆく世界と共に生きる、という意味)。タイタニックのデッキチェアを並べ替えているだけです。何が言いたいのでしょうか。私たちが世界を変えることができる唯一の方法は、福音を宣べ伝えることでしょう?心を変えるのことです。
父なる神様、今朝はこのようなことを考える時間をいただき、感謝します。私はこの忠実な人々の心を知っているので、多くの意義深さが私の心に溢れています。キリストと十字架につけられたキリストを宣べ伝えること、福音を宣べ伝えること、そして周りのもの、たとえそれが良いものであっても、それに振り回されないという彼らの決意に感謝します。私たちは、イエスが社会的な行為に関与しなかったことを知っていますし、パウロもそうでしたし、他の使徒たちもそうでした。彼らは、心を変えることが唯一の希望であることを知っていたのです。罪人を罪深い状態に並べ替えることは、何の役にも立たなかった。
主よ、私たちが福音と福音だけを宣べ伝えることに集中し、あなたの真理、あなたの言葉を宣べ伝え、神の全託宣を忠実に宣言するために、一度に一節ずつそれを解き放つことができるように助けてください。それが私たちの祈りです、私たちの救い主の名において祈ります。アーメン