霊的な安定 Part.1 イントロダクション

Grace to you「Spiritual Stability Part 1 Introduction」より翻訳。
ピリピ4:1 Aug 13, 1989

それでは、ピリピ人への手紙4章を開きましょう。 私たちは、この偉大な章の最初の9節を学ぶ素晴らしい学びに着手します。これから数週間にわたる私たちの学びのタイトルは「霊的な安定」です。

私たちが数ヶ月間学んだこの豊かな手紙の最後の章には、私たちにとって既に馴染みのあることがたくさんあります。 この特別な章には、おそらく皆さんが記憶に留めている部分がたくさんあります。 非常に馴染みのある部分もあります。 しかし、ある特定の節やフレーズに精通している聖書の章や節によくあることですが、時々、全体の意図を見落とすことがあります。 木は見えても、森は見えないのです。 部分的には理解できても、全体は理解できないのです。 いくつかの基本的な原則は理解できても、その理由となるものを理解できないでいるです。

この偉大な章を見るに当たって、大きな主題とその構成要素を見たいと思います。 そのためには、1節から9節までを一つの単位としてとらえる必要がありますが、この節のテーマは、「霊的な安定」です。 この章は、私たちに非常に重要なテーマを紹介していると思います。 私は、今日のわが国のイエス・キリストの教会は、非常に不安定な状態にあると言ってもよいと確信しています。 指導者以下、不安定な教会となっている傾向があります。 その不安定さとは、自分たちの指導者が悪魔の策略に対抗できない、つまり不安定であるようだという意味です。 今朝、私はある有名な福音主義の方から手紙を受け取り、机の上でそれを読みました。「私の大切な友人たちが昨年7人も聖職から退いたので、私の心は傷つきました」と書かれており、この大きな不安定、霊的指導者の転落に示されるこの大きな弱さに対処する方法を何とか見つけてほしいと、いわば私の前で、神に向かって嘆願していました。

不安定な教会なのです。 問題や不安や心配に満ちている教会。 この教会は、常に、自分自身を修復し、修正し、数え切れないほどの問題を解決しようとしているようです。 私の判断では、教会は実際、不安定となっており、不安定であるのは、聖書の安定性の原則を理解していないからです。 教会は、自分がいる場所ではない、存在していない領域で安定性を追求する傾向があります。 そこにない答えや、せいぜい短期的な解決策を求める傾向があるのです。

さて、教会が攻撃を受けるという前提を認めることができます。 イエス様はヨハネ16章で「あなたがたは、世にあっては患難があります。」と言われました。また、「しかし、これらすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」敵対する世界があり、敵対する肉があり、敵対する悪魔があり、あなたは対立することになります。 聖書は、私たちが警戒しなければならないことを警告しています。 イエス様は、「目を覚まして祈りなさい」と言われました。 ペテロとパウロの言葉には、警戒しなさい、注意しなさいというテーマが鳴り響いています。 悪魔はほえたける獅子のように動き回って、食い尽くすべき者を探します。 肉は、贖われた自己を衰弱させ、注意をそらすためにつきまとっています。 信仰者を誘惑しようとするあらゆる誘惑に満ちたこの世があります。 私たちはいつでも攻撃を受けているのです。

私たちの個人的な生活の中で、迫害や試練の時があります。厳しい試練です。 私たちの社会では、微妙な迫害の方が、そうでないものよりも難しい場合があると思います。 クリスチャンであることが命の代償となり、クリスチャンであることが囚人となり、クリスチャンであることが社会から完全に遮断される社会では、一度クリスチャンであると宣言してしまえば、もうその証しを維持することは容易でしょう。その証しを維持することは、世の中にクリスチャンが受け入れられている社会よりも、ある意味簡単かもしれません。私たちは、世の中に受け入れられたいと思い、キリスト教信者であることを問題にはしたくなくて、妥協していきます。それは、私たちが、異なっていることと、一部となっていることの間に挟まれているからです。 ある意味、私達への迫害というのは、より難しいかもしれませんね。

あるロシア人牧師が、その最前列で通訳を介して私にこう言ったのを覚えています。私が「教会の牧師をするのはどうですか? 難しいですか?」と聞きますと、彼は「簡単だよ。 みんなの立場がいつもわかっているからね。」 彼は「むしろ私が理解できないのは、妥協が一般的となっているような微妙な状態のアメリカの教会で、いったいどうやって牧師をやるのだろうか、ということです。」

私たちはそのような種類の迫害を受けているのです。 また、個人的な試練や問題に直面し、信頼関係が崩れ、神経質になり、不安になり、心配し、あせり、報復し、復讐心を抱き、苦い思いをし、悲しみを背負うようになるのです。 そして、私たちはどこに行けばこれらを修正してもらえるでしょうか。 私たちは、結婚や家庭の問題、葛藤やジレンマを抱え、解決策や解決を追い求めます。 私たちは、自分自身の生活の中でも、罪への強い誘惑と戦っています。世の中の誘惑は非常に巧妙で、肉体は非常に傷つきやすく、悪魔は非常に攻撃的で、安定性を保つための戦いが非常に増しています。

そして、それこそが、ここでパウロが心に抱いている本当の意味なのです。 ピリピ教会に幻想を抱いてはいけません。 ピリピの人々がパウロと特別な愛の絆で結ばれていたことは事実です。 それは間違いありません。 後述の4章にあるように、彼等だけが、彼の困窮のただ中で、彼と分かち合っていたことは事実です。 パウロは、もしかしたら他の人たちを上回るよような愛情をピリピの人たちに持っていたことは事実であり、それはおそらく唯一無二の絆であり、相互に長年にわたって培われてきたものであったでしょう。 彼らと交わりたいという熱烈な願いがあったことは事実です。 彼らの間には深い思いやりがあった。 しかし、だからといって、ピリピ教会がすべての面であるべき姿を備えていたわけではなく、不安定なところがなかったわけでもありません。 実際、ピリピ人への手紙をここまで読んできて、最後の章になると、その教会には利己主義があり、霊的安定性からつまずき、うぬぼれと高慢に陥り、他人のことよりも自分の人生のことを気にする人々がいたことをはっきりと指摘してきました。 彼らはキリストの心を持っていなかったのです。

また、この章の2節と3節で扱われるように、その教会では大きな規模の争いがあったことも分かっています。 教会を分裂させるような派閥を率いることができたかもしれない二人の女性が、激しい不一致を起こし、他の人々もその争いに巻き込まれたことは間違いないでしょう。 しかし、この二人の女性は卓越した女性であり、パウロが2節でこの二人の女性の名前を挙げているほど、重要な問題でした。 3節で、パウロが誰かにこの問題に対処してくれるように頼んでいるのは、教会の指導者がこの問題に対処するためにすべきことをしていなかったことを意味しています。 これもまた一つの失敗でした。

ですから、指導者にも信徒にもつまずきがあり、不安定さがあったのです。 また、その教会には、落ち込んだり、根拠のない悲しみや、難しい精神状態、不安でいっぱいになり、祈りに真剣に取り組まなかったのは明らかです。 心を悩ませている人がいました。 正しいことを考えなければならないのに、間違ったことで頭がいっぱいになっている人たちがいました。 神を信頼していない人たちがいました。 感謝していない人もいました。 言い換えれば、そこは普通の教会であり、他の教会と同じように、あらゆるレベルの霊的不安定さ、霊的弱さがありました。

パウロはこの会衆の不安定さを深く憂慮しています。 しかし、それはパウロだけではありません。 これは新約聖書全体を通して示されているということです。 イエスは教会の安定性を心配されてました。 ヨハネの福音書の最後の章にあるペテロの回復の箇所で思うのですが、イエス様はペテロを回復させた後、その直後にペテロが別の弱さを見せ始めると「そこでやめておきなさい。わたしに従いなさい。あなたは命をささげることになります。強くなりなさい」これは、単なる言葉のあやではなく、本当にそのような意図でおっしゃったのです。イエスは弟子たちの強さを気に留めておられたのです。

マタイによる福音書10章では、困難に備え、試練に備えよと明確に述べています。 このことは、新約聖書における不変のテーマであり、私たちが今生きている教会においても、取り組むべきテーマだと思います。 非常に不安定な教会が数多くあります。 不安定な指導者、不安定な会衆、そして悲しいかな、すべての間違ったもので自分たちを支えようとしているのです。 そこで、この数週間は、霊的な安定についてお話したいと思います。

私はある意味、使徒たちの後継者という立場にいます。 ペテロの第二の手紙2章14節を覚えていますか? ペテロは偽教師とサタンの手先について書きましたが、その人たちはいつも「心の定まらない者たちを誘惑し」という表現をしています。 牧師の義務の一つは、不安定な魂を守ろうとすることだとわかりますか? パウロがエペソでの宣教において、なぜ3年間も涙を流して警告したのか、わかりますか? ペテロが「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」と繰り返し言ったのはなぜでしょうか? それは、彼らが不安定な魂の安定性を、いつも気にかけていたからです。

ペテロは第2ペテロ3:16で、パウロの手紙、つまり霊感を受けた偉大なパウロの書簡が、学ばない不安定な人々によって取り上げられ、彼らはパウロの書いたものを歪めて自分たちを破滅させたとさえ言っています。 なんということでしょう。皆さん、彼らは一人ではないのです。 彼らだけではありません。 今日、パウロの教えを歪め、聖書の教えを歪め、人々を混乱させ、神の言葉を誤って伝え、誤って解釈している、不勉強で不安定な人々が大勢いるのです。

ヤコブも同じようなことを警告しています。 ヤコブは、霊的に不安定な人とは、二心ある人、物事に対して揺れ動く人だと言いました。 彼らは自分が何を信じているのか分からず、何が正しいのか分からず、決断ができません。 彼らは疑いと信仰の間で揺れ動きます。 彼らは霊的に不安定な人たちです。 彼らは一つの心ではなく、正しい真理に堅く立っていません。 神のご性質に焦点を合わせていなません。神を理解し、神の啓示を理解する程度に、一心になるのです。

しかし、それは新約聖書にとって新しいことではありません。 ヤコブもペテロもパウロも、そしてヨハネもユダも、「神だけがあなたを安定させ、倒れないようにすることができる」と言っていますが、彼らだけがこのことを語っているわけではありません。 旧約聖書をさかのぼると、このような不安定さへの懸念が見て取れます。 聖書の歴史の中で、創世記の第49章という非常に素晴らしい章を思い出してください。 その章では、ヤコブが息子たちを集め、遺産を与えるのですが、その49章では、長男のルベンと言う名前から始まっているのを覚えているでしょうか。

「ルベンよ、あなたはわが長子、わが勢い、わが力のはじめ、威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。」 なんという言葉でしょうか。 なんという特権でしょうか?なんという機会を彼は与えられたのでしょうか。そしてこうも言っています。「しかし、沸き立つ水のようだから、もはや、すぐれた者ではあり得ない。」 悲しいことですね? 何がルベンの欠点なのでしょうか? 彼の霊的なものでしょうか? 不安定さです。彼だけではありません。新しい問題ではなく 古くからある問題なのです。ルベンは無比の特権、無比の可能性、無比の機会を持っていましたが、水のように不安定であったため、そのすべてを失いました。 具体的に言うと、彼は父の寝床で、父の家で、父の妾と姦淫を行ったのです(創世記35:22)。 彼は姦淫者であり、霊的に不安定であったので、彼は不適格とされ、彼の父は「お前は卓越した者とはならい」と言いました。

霊的な不安定さは、いろいろなことに失格者となります。霊的な不安定さは、皆を失望させるものです。誰もそんなことは好きではありません。誰も不安定になりたいとは思いませんし、真のクリスチャンではなく、偽りの教義に堕ちたいとも思いません。私たちは、試練の下に落ちて、文字通り押しつぶされて、落ち込みが、もちろん現実的でないほどにはなりたくありません。 誘惑に負けたくはないのです。もし、私たちが霊的に正気である時、私たちは霊的に安定していたいのだと断言すると思います。

しかし、問題は、「どうやって?」 これは大きな問題ですね。 ある意味で、霊的な安定は神性、キリスト性、聖性、成熟と同一視することができます。 しかし、それはクリスチャンの生活にとって非常に基本的なことで、神が今日の教会をご覧になるとき、その心の傷は、このとてつもない不安定さにあるに違いないのです。 私たちは神学的にも、試練の中でも、誘惑の中でも、指導者以下、いたるところで揺さぶられています。 では、どうすれば安定するのでしょうか? どうすれば、しっかりと立つことができるのでしょうか。 どうすれば浮き沈みを乗り越えて平穏な生活を送ることができるのでしょうか? これから数週間、それを学んでいきます。

1節に注目してください。 今朝はこれを序文として見るだけです。 1節の “主にあって堅く立つ “という言葉に気づきましたか? 丸で囲んでください。 これはこの9節の中で最も重要な動詞でありテーマです。 主にあって堅く立つ、霊的な安定です。 彼はピリピの人々がどのような状況に置かれているかを知っていました。 1章の28節で、彼は彼らにこう言いました。「敵対する者どもにろうばいさせられないで」 彼らは迫害されていたのです。 29節では、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」と述べています。 彼らは苦しんでいました。 実際、30節では、彼らが自パウロの中に見たのと同じ葛藤を経験していると言っているほど、厳しいものだったのです。 つまり、彼らは非常に厳しい迫害を受けていましたので、不安定になりやすい状態だったのです。

2章は、彼らがみな同じ考えではなかったことを示しているように思います。 2章2節では、”どうか同じ思いとなり”と命じています。 1章27節では、”あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち”と彼らに言っているのです。 その教会には、本当に意見の相違があり、不和があったことは明らかです。 そのため、彼らは迫害を受けるだけでなく、誘惑に負けていたのです。 いわば、猛攻撃を受けていたのです。 2章14節を見ると、15節で「曲った邪悪な時代」と呼ばれている中で、彼らが生き残ろうとするために、不平不満や論争が起こっていたことがわかります。 彼らは、敵対的で倒錯し、曲がった世代の中で、いのちのことばを明確に伝えることに苦労していたのです。 すべてが思い通りにいかず、不平や不満が渦巻いていたのです。 2章18節によると、彼らは喜びのバッテリーを充電し、悩むのではなく、喜び始める必要があったのです。

3章18節には、彼らが十字架の敵に遭遇していたことが書かれています。 私たちは、彼らが、2節で犬、悪の働き人、偽りの刈り込みと呼ばれたユダヤ人たちに遭遇していたことを知りました。 また、19節に登場する、欲望を神とし、栄光を恥とし、地上のものに心を置く自由主義者にも遭遇しており、十字架を攻撃する者がいたのです。 ユダヤ人たちは、救われるためには十字架に行いを加えなければならないと言い、自由主義者たちは、救われた後は十字架に行いを加える必要はないと言ったのです。 十字架の敵たちは、いろいろな方面から攻撃してきたのです。

4章に入ると、二人の女性との討論があり、そこに問題があります。 6節に入ると、彼らの中には心配や不安を抱えている人がいることがわかります。 そこでパウロは、個人的な誘惑、組織的な攻撃、迫害の犠牲になっている彼らに、主にあって堅く立つように命じています。 パウロは、主にあって堅く立つようにと命じているのです。 1章27節”一つの霊によって堅く立ち” これは、彼が彼らに堅く立つようにと呼びかける2回目の言葉です。

さて、ここでのギリシャ語の動詞はstketeです。 これは命令形であり、軍事用語で、戦いの真っ最中に自分の立場を貫くという意味である。 という意味です。 攻撃を受けているときに自分の位置を保つという意味です。 パウロがエペソ人への手紙6章で、「悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」と述べているのと同じ意味です。 「悪魔の策略に立ち向かえ」 どんなことがあっても、しっかりと立っていなさい。 あなたは、迫害や妥協の中で崩れてはならない。 あなたは、試練や不平不満の中で崩れおちてはならない。 誘惑に負けて罪を犯しても、崩れ落ちてはいけない。 あなたは、霊的に安定した状態で、しっかりと立つのです。

どんな牧師でもそのことを望むのは理解できますよね? これは命令であることをもう一度思い出していただけますでしょうか? そして、私たちの神に対する見方がいつの間にかソフトになり、命令が命令らしくなくなっていることに気づきますか? これは、生ける神が、使徒パウロによって聖霊を通して下された命令なのです。 神様は、”あなたにはしっかりと立っていてほしい “と言っているのです。 これは命令なのです。 私たちが命令を真摯に受け止めない事実は、非常に心が痛むことです。 私たちが神様のことを真剣に考えないことも、私の心を痛めるでしょう。 数十年前にA.W.トーザーが聖書会議で説教したテープを聴いていました。 そのテープの中で、彼は「私は長い間、教会を評価してきた」と言い、「私の結論は、基本的に教会は神様に丁重に退屈しているということだ」と言いました。 それは、今日の教会に対するかなり適切な分析であり、神に対して礼儀正しく退屈しているということです。

そして、「あなたは、楽しませてもらうことを期待しています。 なぜなら、率直に言いますが、私が神について話すだけなら、あなたは退屈してしまうからです。」 もし神に退屈しているとしたら、それは神を冒涜する態度であり、おそらく神の命令を、まるで何かの提案かのような、そんな近いレベルに引き下げてしまい、無関心へとつながっていくのです。 私たちは、主権者である神が、1節の命令文で私たちに「堅く立ちなさい」と命じている現実を、どうにかして捉え直すことができないでしょうか。 そして、その命令には、その命令に従う固有の能力があり、それはもちろん、私たちを立たせることのできる神の霊によってもたらされるのです。 これは命令なのです。 今朝、私がしたいことは、その命令をあなたの心に植え付けることです。 それは神から来たものです。 神はそれを要求されるのです。 私たちの聖なる、全能の、主権を持つ、栄光の神から来るものです。

さて、その背景を少し説明しましょう。 この霊的安定の基本原則を紹介するため、1節に進みますが、ここにはいくつかのことが書かれています。 最初の単語は「それゆえ」です。 つまり、これから言われることは、今言われたことに基づいている、あるいは、その上に成り立っているということを前提としているのです。 なぜなら~、それゆえ~といった感じです。 先行する事実がこれを導き、実際それは何なのか? 第3章に戻ればよいのです。第3章を要約するとすれば、次のようになります–覚えていますでっしょうか。 私たちは、クリスチャン生活の目標であり報酬である「キリストらしさ」を追い求め、キリスト・イエスにある神の天からの「召し」を待ち望んでいるのです。 私たちは、天国の市民として、主イエス・キリストに出会い、そして-21節-、主の栄光の体に一致する、そのように変えられるその日を待ち望んでいるのです。

つまり、私たちはキリストのご性質を追い求め、天国の市民であり、私たちをご自分のようにしてくださる救い主を待ち望んでいるのです。 私たちは天国の市民であり、私たちの人生の目標であり、人生の報酬とは「キリストのご性質」なのです。

キリストは堅く立っていたでしょうか? 揺らいだことはないでしょうか? いいえ、ありません。 妥協したことがあるでしょうか? いいえ、罪を犯したことがありますか? いいえ、罪を知らない方と聖書は言っています。 罪のない方、完全な大祭司です。 イエス・キリストがそのモデルであり、彼はすべてのことに立ち向かい、神に背くことはなかった。 迫害された? はい、そうです。 堕落しましたか? いいえ。妥協しましたか?いいえ。 誘惑されましたか? はい。 堕落したでしょうか? いいえ。罪を犯したでしょうか?いいえ。 人生のあらゆる試練にさらされ、崩れ落ち、神への信頼を失い、人間的な解決策を求めてさまよったのでしょうか。いいえ。 私たちは天国の市民であり、いつの日か彼のようになり、それが私たちの現在の望みであり、それゆえ、彼のなされたようにすべきであり、堅く立たなければならないのです。

ここで気づくのは、第3章との関連だけでなく、2番目に気づくのは、1節にあるパウロの牧会精神です。 これは強い命令であり、彼が言おうとしていることは、この一つの命令に関連する短い、直接的な命令を彼らに与えるので、一種のスタッカートのような勧めです。 しかし、この軍国主義的な用語と非常に直接的なアプローチの中にあって、パウロがこの人たちに対して持っている優しさと愛の精神に気づきますでしょうか? 1節をもう一度見てください。”わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。”、そして、”愛する者たちよ”と締めくくられています。 大袈裟な表現に聞こえますか。 しかし、そうではなく、これは現実なのです。 作為的でもなく、操作的でもなく、不誠実なのでもなく、お世辞でもない。 それが彼の心なのです。

見てください。 “わたしの愛し慕っている兄弟たち” そして、彼は愛を表す強い言葉、豊かで深い愛を表す言葉を使っています。 パウロは彼らをとても特別でユニークな方法で愛しているのです、1章でそのことを述べました。 1章でも述べたように、彼は彼らのことをとても感謝しています。 彼らのことをとても感謝していますし、彼の心から深い愛情を引き出す何かがあります。 1章8節で、彼はそう言っています。 実際、1章23節から25節にかけては、「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。」と、とてつもない絆を表現しています。 15節では「あなたがたのほかには全く無かった。」とあります。パウロは彼らを愛しているのです。 深く愛しているし、絆がある。

よくお聞きください。 愛の絆があるからこそ、そのような命令が避けられることはありません。 愛の絆があるからこそ、そのような命令がなされます、そうですよね? 私たちは、何度も子供たちにそう言ってきたのではないでしょうか? “あなたを愛しているから、あなたのことを気にかけているから、こう言っているのです “と。 そして、1節で「愛し慕っている」と付け加えていますが、この言葉は、愛する人との別離の深い痛みを感じていたことを表現しているのです。 パウロは、明らかに知的能力の模範でありました。 彼は体系的思考の達人でありました。 比類なき論理学者でした。 最高の神学者でした。 しかし、彼はまた、深い情熱の人であり、人々を愛する能力を持っていました、そして、彼が保持していた能力パッケージは最高のものでした。 ここに彼の心の情熱が表れています。”愛し慕っている”。 彼は人間関係を大切にする人でした。 それがなくてもうまくやっていける人もいますが、彼は違います。 彼は、別れの痛みを深く感じていました。 ピリピの人達は彼の愛そのものでした。 彼らはパウロの愛だったのです。

そして、あなたは私の愛であるだけでなく、 – 1節 – “わたしの喜びであり”と言っています。 これも同じような意味ですね。 “あなたは私の喜び “とはどういう意味ですか? 「あなたは私に喜びを与えてくれる。 私の心の喜びは、あなたの上にある、ということです。彼は自分自身の状況から喜びを得たわけではないのです。 彼はこの時点で、ローマの民家でローマの囚人としてローマ兵によって鎖でつながれた状態で、この手紙を書いていたのですから、難しい状況でした。 彼は個人的な喜びを境遇から得ることはありませんでした。 それは、肉体的なことだけでなく、彼の周りで起こっていること、たとえば、1章で語っている、彼の束縛に苦難を加えようとするような、容赦なく彼を批判する人々などのためにさえ、非常に困難をおぼえていただろうと思います。 パウロは非常に困難な状況にありました。 しかし、彼は人々の中に喜びを見出し、パウロを愛し、パウロ自身が愛した人々の中に喜びを見出しました。 彼は群れの中に喜びを見出したのです。”あなたは私の喜びです”。

テサロニケ人への手紙第一を書いたとき、同じことをテサロニケの信徒達に言っています。 2:19では「実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。」 そして20節では「あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。」と言っています。 そして、再臨と関連付けています。 「実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。」 私の喜びは、あなたの救いを見ることです。 私の喜びは、あなたが成長するのを見ることです。 だから、こう言っているのです。「私はあなたを脅しているのではありません。」そして、”あなたは私の冠です “と言っています。 これは素晴らしい言葉です。ディアドマ、王冠という意味ではなく、ステファノス、月桂樹の花輪です。

基本的にその文化では、2人の人が月桂冠をもらっていました。 ひとつは競技に勝った選手で、その選手に月桂冠を与えて身につけさせました。 それが、パウロが第1コリント9章で、走者が手にする「朽ちる冠」だと言っているものです。 しかし、月桂冠をもらう人はもう一人いて、それは仲間から栄誉を与えられた人でしょう。 大きな宴会が開かれ、この人が主賓として連れてこられ、主賓として月桂冠をもらうのです。

そして、パウロがピリピの人々やテサロニケの人々に「あなたがたは私の冠です」と言ったのはどういう意味でしょうか。 “あなたがたは私の報酬です”という意味なのです。 花輪はトロフィーでした。 実りある人生を歩んだというトロフィーということになるのです。 陸上競技のトロフィーは、この人は素晴らしいレースをしたんだ、ということを表しています。 パウロは、「あなたは私のトロフィーです。 あなたは、私が効果的に奉仕したことの証明です。 あなたは私の王冠です。 あなたは、この人生が効果的であったことを示す報酬です。 なんと、豊かな賞賛でしょう。 パウロはこの親愛なる人々に対して、なんと肯定的な言葉をかけていることでしょう。 コリントの信徒に言ったのと同じことです 「あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。」 1コリント9:2。 “あなたは、私の人生を検証するものです。 あなたは私の愛です。 あなたは私の喜びです。 あなたは私の働きの証明です” そして、最後にもう一度「私の愛する人」といって締めくくっています。 それは豊かな肯定的メッセージです。 私はあなたを愛しています、とても愛しています、あなたと一緒にいることを切望しています。 あなたは私の喜びの源であり、私の報酬だからです。”

どの牧師も心が正しければ、そう言うことができるでしょう。 私は、あなた方を、私に与えられた神の民として愛していると言うことができます。あなた方が私に与えてくれた愛と、この年月を通して分かち合ってきた愛によって、私はあなた方を慕い、あなた方と長く離れていると、私の心はあなた方と共にいることを切望するのです。 私の喜びは、私の状況ではなく、ミニストリーの実りの中に見出されるからであり、それが月桂冠になるという意味でもあります。 時々、人々は何かについて私に盾を送ります。 時には、人々が何らかの形で私を称えることもあります。 しかし、真実は、どんな人の人生でも、その検証、肯定は、神が用いて(その心に)触れさせた人々なのです。 あなたは私の王冠です。 私はパウロの言っていることがよく理解できます。

この深く感動的な愛を一身に浴びて、そして、とてつもない命令が下されるわけです。「立ち上がりなさい、主にあって堅く立ちなさい。」 その周囲にある言葉のように、繊細で、暖かく、柔らかく、優しいものであるのに対して、それは正反対です。 堅く、強く、毅然としているのです。 私は、あなたの霊的な安定を望んでいます。

問題は、「どのように」なのか、ということです。 そして、1節にある小さな言葉、私が言及していない唯一の言葉に引き寄せられるのです。 “だから “です。だから、私は聖書の一語一句を大切にしながら、聖書を読み解くのが好きなのです。 一字一句見逃すわけにはいかないのです。 これはギリシャ語でハウトです。 “こうして “とか “このように “という意味です。 これがすべてを解き明かします。 あなたは私の愛する人だから、このように主にあって堅く立つようにと願っているのです。 それが「こうして」という意味で、「このように」、そして「どのように」と説明されています。 そして、2節から9節までは、霊的安定のための極めて基本的で実践的な原則です。 そして、愛する人よ、聖霊による天才とも言うべきパウロは、霊的な闘いのすべての解決策をここに集めました。 それは、すべてまとめられているのです。

霊的に強いクリスチャンになりたい? 安定したいですか? それなら、ここにある原則を学ばなければなりません。 私は答えはすべて神の御言葉にあると信じています。 神の御言葉の中にすべてがあります。 あらゆる困難、あらゆるストレスに対して、その答えはすべてここにあるのです。 なぜなら、霊的な安定という問題において、すべての解決は、あなたが神についてどう考えているか、に帰着すると私は確信しているからです。 おわかりいただけたでしょうか。 あなたが神についてどう考えるか、そしてパウロが言うことはすべて、それに関連しているのです。 ですから、これから数週間、私たちは霊的な安定について学び、私たちが霊的に安定するためにパウロが与えている原則を実践していくつもりです。 これは、牧会者の心です。 これは、教会で行わなければならないことです。

脚注として申し上げたいのは、私たちの教会は他の教会よりも安定していると思いますし、そのことを神に感謝しますが、私たちはあるべき姿のすべてではありません。私たちの誰もがそうであり、それが私たちの働きの目的であるべきです。 使徒言行録の11章22節、23節には、こう書かれています「このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。 23彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。」 それは、すべての牧師がすべきことです。 毅然とした心で人々を励まし、主に忠実であり続けること、それが霊的安定であり、バルナバがしたことです。

バルナバだけではありません。 ペテロはそれを目標としていました。 ペテロ第二の手紙3章17節に「愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。」と書かれています。 ペテロは「信仰から脱落せず、しっかり立ちなさい」と言っているのです。 使徒言行録の14章に入りましたね。 22節「子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し」 つまり、彼らを強め、励まし、患難を予期するように言っていたのです。 それはまさに聖職者として機能すべきことです。 パウロはガラテヤの信徒に宛てて「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」-5章1節-「だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」と書いています。 ユダヤ教的な律法主義に逆戻りしないように。 コロサイ4章で、エパフラスは「あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。」 それは、新約聖書全体を通しての叫びです。

私も考えていたのですが、テサロニケ人への手紙の1章ですよね? 3章8節? 「なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。」と言っています。 ここに、牧師の心があります。 あなたは私の人生を楽しいものにさせたいでしょうか? それなら、主にあって堅く立ち、揺らぐことなく、倒れることもなくいてください。 第二テサロニケ2:15「そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。」真理から揺らいではいけない、これが命令です。 最も身近な表現としては、「ですから、愛する兄弟たちよ、あなたがたは堅く立ちなさい」、次の言葉は何でしょう。- 第一コリント15:58「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」 私たちが霊的に安定するかどうかは、ペテロの懸念事項であり、パウロの心配であり、ヤコブの心配であり、イエスの懸念でもあり、ユダとヨハネの懸念であり、聖霊と神ご自身の懸念であったのです。 そのためには、どのようにすればよいのでしょうか。 その方法を教えてくれるこの章の事柄に、私たちは深く入っていくように努めたいと思います。 それは、次回のお楽しみです。

主よ、今朝もこの交わりの中で祝福され、感謝しています。 私たちが歌った歌の美しさと、祈りと聖句の心の励まし、そして今、尊い御言葉の清々しさが私たちを豊かにしてくれました。 あなたに感謝します。 そして今、主よ、私たちは決意に至りたいと思います。 私たちの心に働きかけてください。

頭を下げ、祈りの時に、あなた自身が神に祈るようにお願いしてもいいですか? こう言ってください。「主よ、私は霊的に安定したいのです。この数日、数週間の間に、安定性の原則を学び、それを適用できるように助けてください。 私の心を整えてください。」 この祈りをして下さいますか? 「主よ、私は霊的に安定したいのです。 これらの原則を学び、それを適用するのを助けてください。」

父よ、これが私たちの祈りです。この教会が、やって来るものすべてに対して堅く立ち、私たちにではなく、あなたの御名が栄光を受けるようにと願います。 アーメン。

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