なぜ私たちは教会を愛さなければならないのか

Grace to you「Why We Should Love the Church」より翻訳しました。

Sep 16, 1991

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今朝は、マスターズ・カレッジの大切なハートとも言える「地域教会」についてお話してください、と依頼されました。もちろん、私の情熱が地域教会にあることは、ほとんどの方がご存じでしょう。私は地域教会を愛しています。昨日は、多くの方が私たちと一緒に参加してくださいました。グレースチャーチの35年間の働きを主に感謝し、信じられないような、忘れられない日を過ごしてきました。

なぜ牧師をやっているのかとよく聞かれます。昨日の The Signal の記事をご覧になった方はいらっしゃいますか?見逃すわけがないですよね。その記事を書いたライターからインタビューを受けた時も、2週間前タイムズの記事を書いたライターからインタビューを受けた時も、みんな私がなぜミニストリーをしているのか知りたがります。中には、「どうして弁護士じゃないんですか、議論するのが好きみたいですし。どうしてまだ牧師をやっているのでしょうか?飽きないですか?」と聞かれることもあります。学校の理事長でもいいし、普通の人ならそれで十分な仕事ではないでしょうか?あるいは、ラジオの伝道師や教師になって、何冊か本を書くこともできるでしょう。なぜ、教会の牧師を続けるのですか?教会って、いろいろと問題があるところじゃないですか?ボランティアで付き合いするも大変じゃないですか? 神が与えてくださる人たちと一緒に働かなければなりません。毎週2回、説教の準備をして、それを伝えるのは大変ではないですか?金魚鉢のような中で生活し、すべての責任を負い、人々の罪、汚れた結婚、めちゃくちゃな家庭、行き場のない子供たち、それらすべての問題に対処しようとするのは大変ではないですか?なぜそんなことをするのでしょうか。なぜ教会はあなたにとってそれほど貴重なのでしょうか?なぜあなたは自分の人生でできることの中でそんなことをするのでしょうか?

それで、今朝、「教会」というテーマに近づき、それを皆さんと共有するだけでも、いろいろなことが言えるのです。私はこのテーマについて何冊も本を書きました。昨夜、私は小さなブルーチェアーに座り、古い本やノートなどに目を通しました。「今朝、30分間で子供たちに教会について何を話せば、忘れがたい印象を与えることができるだろうか?」と。使徒の働きやエペソ人への手紙を全部読んで、原理原則のいくつかを展開することもできます。教会のリーダーシップ、教会運営、形式、ミニストリーなどの問題について話すこともできます。昨晩は、何を話すべきか思いつかなかったので、本当に何も考えずに寝ました。今朝 事務所に来て座って考えたのです。 「なぜ教会にいるんだろう?それは正しい質問です。この紙に書き留めた答えはこうです。私が牧師としてだけでなく、一人のクリスチャンとして教会を愛する理由はいくつかあります。もし私がグレースチャーチにいなくても、アメリカのどこかにいれば、主の日に教会を探します。そして、もし私が説教をしていないなら、それは稀なことですが、私はただ行くだけでいられる教会を見つけます。私は教会にいたいのです。私は教会が大好きです。その理由をいくつか挙げます。

私が教会を愛する第一の理由は、イエス様が建て、祝福すると約束された唯一の場所だからです。イエスがこの世でできたこと、できたかもしれないこと、できる力をすべて持っていたのに、たった一つの場所しか建てあげなかったのです。それは教会です。マタイによる福音書16章で、イエスは「わたしの教会を建てます」と言われました。これは素晴らしい言葉です。イエス様は他のものを建てると言ったことはありません。大学でもラジオ局でもなく、教会を建てるとだけ言われたのです。大学でもラジオ局でもなく、ただ教会を建てるだけなのです。ある時、記者から「あなたは教会を建てたいという願望があるのですか」と言われた。つまり、あなたには急成長している教会があります。「あなたはこのことに対して駆られている衝動があるのですか?教会を建てたいという大きな願望があるのでしょう?」 と言われました。私は「教会を建てたいとは思っていません」と答えました。彼は 「なぜ?」と聞きました。イエスが教会を建てるって言っていたからです。私は本当に教会を建てたいとは思っていません。グレースチャーチの人数を今以上に増やしてほしいと主にお願いしたことはありません。これ以上の責任を負わずに、今あるもので十分なのです。ヘブライ人への手紙13章に、私は自分の行いについて神に説明しなければならないと書かれています。

私はただ主が教会を建ててくださるのを待つしかないのですが、それが私にとってとてつもない喜びなのです。私は人が建てる作業に参加しているわけではありません。人生の終わりになって振り返って、「これは私がやったのか、それとも神様がやったのか」なんて思いたくないのです。だから、仕掛けや脅し、公式、マーケティング戦略など、どんな種類のものにも抵抗があるんです。私が教会について知っているのは、イエス様がご自分の教会を建てると言われたことと、聖書には御言葉と御霊の力によってご自分の教会を建てられると書かれていることだけです。それ以外は人が造った施設に終わるかもしれません。私は、自分のミニストリーが終わったときに、振り返って、「これは神がされたのか、それとも私だったのか」と言いたくありません。一部神、一部私?振り返って、「私は御言葉を伝えただけだ」と言いたいのです。私が伝えたいのはそれだけです。そし「聖霊の力に頼ったので、イエスの教会なのです」と。神が築かないものには、関わりたくありません。

一度、他の組織の社長にならないかと言われたことがありますが、「私は教会の牧師をしなければならないので、それはできません」と言いました。私は教会にいなければならないのです。イエスが築こうとしているものの一部でなければならないのです。私は教会を助け、強化するために、大学など他のものと一緒になることができますが、私は自分の人生を教会に注がなければなりません。若い人たち、神学校を卒業しても、ほとんどの人が教会でミニストリーをしませんよね?一体、どういうことなのでしょうか。そのため、マスターズ・セミナリーでは、教会でのライフ・コミットメントとして、神の言葉を説教できる牧師・教師を輩出することに力を注いでいるのです。キリストが教会を、デニスさんが歌ったように、キリストの王国が築かれるときに一緒にそれをなして行くことは、誰にとっても最もエキサイティングで、創造的で、スリリングな冒険なのです。

第二に、私が教会を愛しているのは、教会が最終的に勝つからです。私は勝者の一員なのです。多くの人がビジネスを始めても失敗します。ご存知ですか?多くの人がキャリアに人生を捧げますが、結局ほとんど何も得られません。金融や投資の道に進むと決めたのに、すべてを失ってしまう人もいます。ビジネスを始めると決めたのに、それが失敗に終わる人もいます。キャリアを積んでも、数年後には退屈で味気ないものになってしまう人もいます。冒険でもなければ、どうでもよいことなのです。誰がそんなこと気にするのでしょうか?永続的な価値もないし、社会を変えるような大きな影響を与える保証もありません。

でもこれだけは言えます。あなたの人生のすべてを教会に注ぎなさい、あなたは勝者側の一部になることがます。イエスはこうも言われました「わたしの教会を建てます。ハデスの門もこれに打ち勝てません。」ハデスの門とは、ユダヤ人の言葉で、死を指しています。ハデスの門は、ユダヤ人にとっては単に死の象徴なのです。そしてイエスはこう言っています。「わたしは教会を建てます。死の力は私を止めることができない」とね。

死はサタンの最も強力な武器です。彼は最初にキリストに対してその武器を使いました。教会の建設者を殺せば教会も殺せると考えたのです。しかし、建築主は墓から出てきたのです。それだけではなく、教会の歴史の中で、彼は教会を一掃しようとしました。彼は教会を虐殺し、教会を殺しました。人々は殉教者として死に、今日に至っても、イエス・キリストの大義のために殉教者たちが死んでいるのです。しかし、サタンが持っている最強の武器では、教会を踏みつぶすことはできないのです。そして、教会の歴史を学ぶ人なら誰でも、殉教者の血が教会をより拡大させる種になっていることを教えてくれるでしょう。イエスは言われました「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」 「わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく」 サタンは私の手から誰も奪えない。父が贖うと決めたものはすべて贖われ、誰もその過程で失われることはないのです。そして、イエスはヨハネ6章で、「わたしは終わりの日に彼をよみがえらせます」と言われました。父が手をかけた者は皆、私のもとに来ます。私のところに来る者はみな、私がつかんでいます。そして、私がつかんでいる者はみな、終わりの日によみがえらせます。教会は勝利するのです。

ですから、ヘブル人への手紙12章を読むと、教会、長子たちが天の御国で勝利し、栄光の中で全面的に勝利しているのが見えてきます。黙示録の4章を見ると、24人の長老に代表される教会が、子羊に向かって賛美しています。「屠られた小羊は、価値あるお方」とね 彼らは栄光の中にいる 私は永遠のものの一部なのです。私は、永遠という意味で勝者である何かの一部なのです。イエスが建てる教会に、私の人生のすべてを注ぎます。サタンの最強の武器である死さえも、それを止めることはできないのです。そしていつの日か、誰も失わないそのこなうことのできない教会となり、来る者はすべて父が引き上げられたキリストによって守られ、何ものもその愛から引き離すことはなく、栄光と勝利に満ちた教会として、永遠に父と共に住まうのです。そして私も、キリストを愛するあなたも、そこにいて、私たちは勝者となり、永遠に栄光を受け継ぐのです。私はいつも勝利する側にいたいと思っていました。いつもそうだったわけじゃないですが、たしかに今はそうです。

私が教会を愛する第三の理由は、教会が最も尊いもの、つまり神がこの地上にあって最も貴重な所有とされているものだからです。どうしてそんなことがわかるのでしょうか、と言われるかもしれません。使徒20章28節にこう書かれています。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」教会の価値は?教会はどれほど尊いか?ペテロは「あなたがたは、銀や金のような朽ちるもので贖われたのではなく、汚れのない、傷のない子羊の尊い血によって贖われたのです」と言いました。神は無限の代価を支払われたのです。パウロは肉欲に溺れるコリントの人々にこう言っています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」 イエス・キリストご自身もその代価をご存知でした。そして、その夜、弟子たちが眠っている庭にひざまずき、それを感じられたのです。彼は言いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 これは私が耐えられる以上のことです。自分の命が世の中の罪の重さに押しつぶされ、血を流すのです。

私は教会を愛しています。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分の血を捧げるほど教会を愛されたからです。私は、人々が教会を悪く言ったり、教会を貶めたりすることが好きではありません。教会はイエスが建てた唯一の場所であり、祝福すると約束された唯一の場所であり、それが勝者なのです。それは勝者なのです。他のすべての組織や団体は終わり、勝利した教会は永遠の天国の栄光を手に入れるのです。その代価は計り知れず、想像を絶する。それくらい教会は尊いものなのです。

私が教会を好きな理由は4つあります。教会は天の御国の地上の表現であるからです。最も近くにあるものです。- 地上において天国に最も近い場所です。そうです マタイの福音書でイエスが山上の説教を述べられたのを覚えていますか?「こう祈りなさい」と言われました。覚えているでしょうか?どう祈ればいいんですか?

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」神の意志は天と同じように地でも行われると思いますか?どこで?政府で?教育制度で?道徳的な価値観の中で?いいえ、天における神様の御心が地上になされる場所はただ一つです。それはどこですか?教会です。

マタイによる福音書18章に、教会に関する非常に重要な一節があります。そのすべてを展開するのに時間をかけたくありません。マタイによる福音書18章の15節には、こう書かれています。これはとても簡単なことですね。時々、「クリスチャンが罪を犯しているのを見たらどうしたらいいのでしょうか?」と言う人がいます。彼のところに行って、彼が罪を犯していることを告げなさい。それはとても明確なことです。個人的に彼のところに行って、「あなたは罪を犯しています」と言えばいいのです。あなたは “本当に?”と言う ええ、その通りです。そして彼があなたの言うことを聞けば、あなたは兄弟を獲得したことになります。本当です。あなたが個人的に彼のところに行って彼の罪に立ち向かえば、あなたは本当にあなたの兄弟を獲得することができます。あなたはあなたの兄弟を得るのです。

最近、大切な友人から電話があり、こう言われました。「私には友人がいます。あなたは彼にバプテスマを授けました。彼は奥さんと別れて、他の女性と一緒に暮らしています。どうしたらいいでしょうか?」私は、「じゃあ、土曜日の朝9時に教会で会いましょう」-翌日-「一緒に行って、彼と対決してきましょう」と言いました。だって、自分が行くべきところへ行かなきゃならないのですから……そう書いてあるのです。そう解釈するのは難しいことじゃないでしょう?それで私たちは彼の家へ行きました。彼は他の人と一緒になるために出て行っていましたが、元の奥さんの家に戻って来ていたのです。見慣れた車を見たら逃げるかもしれないと思い、角を曲がったところに車を停めたのです。それで、私たちがリビングに座っていると、彼が荷物を取りに入ってきたんです。不道徳な行為をしているときに、ジョン・マッカーサーがリビングに座っているなんて、そりゃあショックですよね。彼が入ってきて、”なんだ、なんだ “って。彼は話すことができませんでした。”ここで何してるんだ?”って。私たちは彼に立ち向かいました 彼は泣いて、「悔い改めたいのです。正しいことをしたいのです。」と言ったのです。彼とはあまり親しくなかったのですが、今は週に3回電話してきます。なぜなら私が彼に「週に3回、私に電話をし、聖い人生を送っています、と伝えてください。」と言ったからです。彼の妻は救われておらず、彼を取り戻そうとはしませんでした。彼は1年間クリスチャンとして生きようとしていたのに、その証しを打ち砕いてしまったのです。しかし、今、私たち2人の間には、以前にはなかったような絆があるのです。

さて、もし兄弟が言うことを聞き入れなかったらどうなるでしょうか?もし彼がこう言ったら?「俺の前から消えろ」 そして、二人か三人の証人を連れて、その兄弟に詰め寄ります。それでも聞き入れない場合は、17節にあるように、教会全体に言い聞かせるのです。教会全体に言うのです。なぜ教会に言うのかって?そうすれば、全員が彼の上に乗り出すことができるのです。それでも聞き入れなければ、不信仰者のように追い出すのです。それは大変です。教会を走り回って、「あなたは罪を犯している。悔い改めた方がいい。教会中に言いふらすぞ 」なんてね。マタイによる福音書18章に従い始めたとき(20年ほど前)、ある牧師が私にこう言ったのを覚えています。「教会を空っぽにするつもりですか。人々はそんなことに耐えられないでしょう。」と言いました。それは500人のときの話です。空っぽにはなりませんでした。ただ命令に従ったら、神が祝福してくださったのです。本当のクリスチャンは自分の罪を憎み、そのようなぶつかり合いの中で説明責任を果たすことで、自分を純粋に保つことができると私は信じています。でも、それは難しいことなんです。そんなこと、私にできるわけないじゃないですか。自分には自分の問題さえあるのです。それなら、自分の問題を解決すればいいのです。あなたは、「私は誰かのところに行くことなんてできない」と言います。自分の目の中に梁があるんだ。そうです、それを取り除き、そうすれば、兄弟のために働けます。つまり、自浄作用のようなものです。

本当にそんなことをするのでか? と思いますよね。そうですよね、どうして?と思いますよね。 18節、その理由はこうです。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」さて、縛ったり解いたりするとはどういうことでしょう?これは古いラビの用語です。縛られるというのは、その人がまだ罪によって縛られているという意味です。彼らは悔い改めていないのです。彼らはそれを解放していないのです。解放されたとは、悔い改めて、降伏して、その罪を手放したという意味です。だから、あなたがその人のところに行って、その人と向き合い、その人が「私は自分の罪を犯し続けるつもりです。あなたが何を言おうが関係ない」と言ったとします。あなたは言うのです「あなたはまだ罪に縛られています。」 それはすでに天で言われていることです。天ではすでにその裁きを下しているのです。それを理解してるでしょうか?あなたが縛り、「あなたはまだその中に縛られている」と言うものは、すでに天で縛られているのです。だから、あなたは天がすでに行ったことを地上で行っているに過ぎないのです。

もしあなたがその人のところに行って、その人が悔い改めて告白して、その罪を手放したら、「あなたは悔い改めて告白したのですから、その罪から解放されました。」と言うのなら、その人が解放されたということは、すでに天で言われていることなのです。あなたは何をしているか分かりますか?あなたは、天でなされたことを地上で行っているのです。それが王国が地上で機能する方法となります。それが御国がこの地上で働く方法なのです。私たちは教会の生活の中で王国を再現しようとしているのです。19節でこう言っています。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」神は、天で行われるのと同じように、地でも行われることを望んでおられるのです。天の教会で罪が許されると思いますか?そうでしょうか? 神様が地上の教会でこれ以上罪を許せると思いますか?いいえ、ここでも罪は許されません。だから、あなたが行って対処するなら、私も一緒に行くと言われたのです。

20節では、さらに一歩踏み込んでいます。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とイエスは言われるのです。あなたは神の承認、キリストの臨在を持っているのです。あなたが地上の教会で罪を取扱うとき、あなたは天がすでに行ったことを地上で行っているのです。教会を天国のようにするのです。天国が純粋であるように、教会を純粋にするのです。教会は天の王国の地上での表現なのです。私は教会に住みたいのです。教会の一員になりたい。ドアを開けるたびにそこにいたいと思いますし、ここが私の場所だからです。私は、天国において、たまにくる参加者にはなりたくないのです。あなたはどうですか?私は天国を訪れたいのではありません。私はそこに行って滞在したいのです。王国で暮らしたいのです。だから教会が好きなのです。あなたは、まあ、教会はそこまで素晴らしいわけではありません、と言うかもしれません。天国がそこにあるわけではありませんが、他の人間の施設よりはずっと良いのです。私は自分の人生を捧げてでも教会を天国に近づけたいのです。

私が教会を愛している理由はもう一つあります。イエスが築き上げ、祝福を約束された唯一の場所であり、最終的に勝利者となり、地上で最も尊いもの、天の御国の地上的表現であるからだけでなく、礼拝の場であるからです。礼拝の場なのです。私は自分の霊で神を礼拝できることを知っています。ピリピ人への手紙3章3節には、「神の御霊によって礼拝をし」と書かれています。私はそれを知っています。自分の心の中で一人で神を礼拝することもできますが、集まりでの礼拝には私を自分から引き離す何かがあるのです。そうでしょう?今朝、デニスさんが「私の魂の願いは、用いられること」と歌ったとき、私は目に涙を浮かべました。あなたはどうですか?なぜなら、私たちは皆、自分の人生をキリストに全面的に捧げ、キリストに仕えなければならないという責任感を、皆さんと一緒に感じていたいからです。私たちがここに集まるとき、このような交わりのダイナミズムが生まれますが、それは寮の部屋に一人で座っていては得られないものなのです。このようなダイナミズムがあるのです。だからへブル人への手紙10章には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで」と書かれています。なぜですか?礼拝のダイナミズムの中で、互いに刺激し合って、愛と良い行いをするようになるからです。私にはそれが必要なのです。私のことをよく知っている人が隣に座って、神の御言葉が説かれるのを聞く必要があります。そうでしょう?

あなたは言うかもしれない「私は教会には行きません。ジョン・マッカーサーとチャック・スウィンドールのテープを買っています。だから、勘弁してくださいよ。」ジョン・マッカーサーとチャック・スウィンドールのテープを聴いたとしても、世界中の誰もあなたが聴いたことは知らないのですから、あなたが聴いたことに責任を持つとは限りません。そうでしょう?説明責任は人間関係の中にあるのです。マーティン・マーティが言ったように、「姿をあらわさない宗教」に従事する夫婦は、家に座ってテレビを見ていて、それが彼らの教会であると主張するのですが、非常に悪いといえます。あなたは、あなたを知っている人たちと一緒にそこに座っていたという連帯責任が必要なのです。そして彼らは、あなたが今聞いたことを理解し、それを実行する責任があることを知っているのです。教会に代わるものはないのです。それがチャペルがある理由の一つです。皆さんは、今語られたことを皆知っているのですから。だから、礼拝の場なのです。啓蒙の場でもあります。教えを受ける場所でもあります。私たちは礼拝と啓発のためにそこに来るのです。

現代人の中には、教会は未信者が来るためのところだと思っている人さえいます。私はそれを信じません。新約聖書には、教会の礼拝が未信者のために作られているとは、一言も書いてありません。私たちは、未信者のために教会の礼拝をデザインすることはありえません。私たちは伝道のために集まっているのではありません。私たちは、教化と礼拝のために集まり、伝道のために、出て行くのです。私たちは、未信者を楽しませる方法を考えるために、簡単な福音を何度も何度も繰り返し説教するために集まっているのではありません。それは教会の集まりの目的ではありません。教会が集まるのは、神を礼拝し、互いに刺激し合って愛と良い行いをするためです。そして、その真理を聞いて、教化され、責任を負い、世界に触れるために、出て行くのです。

コリント人への手紙第一の中で、使徒パウロが言っている非常に興味深いコメントがあります。そして、ほとんどの人はそのことに気づいていないと思います。ただ見過ごしてしまうのです。パウロはコリントの教会を見ていますが、そこは完全に混沌としています。23節を見てください、

「もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入ってきたとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」と言っています。これは興味深い発言だと思いませんか?教会でみんなが異言を話しているときに、もし未信者が入ってきたらどうなるのでしょうか? 私が最初に驚いたのは、そのことです。教会の目的は未信者のためにあるのではありません。しかし、想像してみてください、そのうちの一人は未信者が来るかもしれません。未信者は来るかもしれないのです。可能性はある、つまり、それは予定されていたことではないのです。そうですよね?未信心者が来たらどうするんでしょうか、と。変な話ですど、そうなるかもしれない、といったような話です。未信者のために教会にきているのではありませんが、「みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入ってきたとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」

「しかし、もしみなが預言をするなら」 – どういう意味でしょうか?それは、難解な恍惚体験という意味ではありません。つまり、あなたが神の真理を宣言しているなら、彼らが入って来て、誰かが御言葉を教え、御言葉を宣言しているなら、未信者が入って来て、皆が神の御言葉に献身していることによって有罪判決を受け、責任を問われることになるのです。「心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」未信者のために快適空間のようなものを作り、教会に引き込もうとする必要はないのです。しかし、もし彼らが来て、あなたの礼拝を立ち聞きし、御言葉が力強く教えられているのを聞き–何よりも強力な御言葉、どんな両刃の剣よりも鋭い–、あなたがたが皆、御言葉に服従し、皆が神を礼拝しているのを見て、彼は顔を伏せて言うでしょう、「神はここにおられる。なんてことだ」と言うでしょう。

いくつか前の日曜日–日曜日の夜、そこにいた人もいると思います。学校が始まる前だったと思うのですが、一人の青年が洗礼堂に入ってきました。彼は同性愛者で、エイズで死にそうでした。彼は言いました「私は一人でこの教会の裏に迷い込んだのです」。そして彼は言った、「ジョン、あなたが最初にしたことは、立ち上がって詩篇を読むことでしたね」。彼は言いました 「私の人生で、あのようなことは初めて聞きました」 そして、その詩篇の中から暗記した10節をそのまま口にしたのです。「その詩篇は、鎖が解かれ、囚人が解放され、死の淵にいる者が新しい命を与えられるという内容でした。私はその礼拝に出席し、神を礼拝する人々を見てました。そして、神は救い、癒し、回復し、解放する神であることを聞いたのです。そして、その礼拝の終わりに、私は自分の人生をイエス・キリストに捧げました。」 3週間前、彼は言いました。「私は同性愛者との出会いがなくなっただけでなく」、彼らは時には1日に5回も出会いがあるそうです。「私はそういう願望がなくなり、私の人生をキリストに捧げた瞬間から、一度も起こりませんでした。」 私たちは同性愛者のために、同性愛者が愛され、心地よいと感じるようなサービスを作っていたわけではありません。同性愛者が神の言葉の力、神の民の集団の礼拝を立ち聞きして、神の前に顔を伏せてしまったのです。

だから私は教会が好きなのです。礼拝の場であり、啓発の場でもあるのです。そして最後のポイントは、世界伝道の出発点であることです。世界伝道の始まりの場所なのです。新約聖書の「使徒の働き」を読むと、時間をかけても読み切れませんが、すべての宣教師を送り出したのは教会であったことがわかります。そこには常に説明責任がありました。地元の教会と常につながっていたのです。使徒の13章を読んでください。パウロとバルナバ、そしてアンテオケの教会にいる3人の牧師がいました。彼らは5人いました。彼らはちょうどアンテオケの教会を牧会中でした。すると突然、神の霊が彼らの心を動かし始め、霊からのメッセージは、「パウロとバルナバの二人を分離して、世界に送り出しなさい」というものでした。そして、彼らはその地域教会からすぐに出て行き、世界伝道が行われたのです。

しかし、それはそのような特殊な人たちのためだけではなく、神の霊が宿るすべての人のためでした。イエス様は使徒1章8節で「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われましたが、どこでですか?教会で?玄関で?ロビーで?いいえ、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして、地の果てまで」と言われました。教会は世界伝道の出発点なのです。私は大学の学長であることを愛しています。あなた方を愛し、神があなた方の人生を変えるのを見るのがこの上なく好きだからです。喜びは尽きることがありません。そして、神様がこの大学を建設されることを見るスリル、興奮、冒険が大好きです。そして、私は教えることが好きなので、ラジオのミニストリーも大好きです。本を書くのも好きです。真理を書き記し、それを広めるのが好きだからです。しかし、もし私がそのようなものをすべて失ったとしても、教会を愛し、その輝かしい施設に私の人生を注ぐことで、完全に満たされることでしょう。

若い人たちよ、私の情熱を汲み取って、教会を愛してほしい。イエスはそのためにご自分の血を捧げるほど、教会を愛してくださいました。祈ってひれ伏しましょう。

父なる神よ、教会に感謝します。私たちをその一部にしてくれてありがとうございます。教会に属さないクリスチャンなどいません。ただ、あなたにとって教会がどれほど貴重なものであるかを理解していないクリスチャンがいるようです。私たちを教会の一員として その不完全さ弱さを 愛してください 教会は完璧ではありません それは分かっています でも、自分が病だと知り、癒す人が誰なのかを知っている人たちのための病院であることは確かです。私たちをその一部にしてくださって、ありがとうございます。イエスの名において アーメン

 

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