マタイ25:14-19
それでは、神の御言葉、マタイの福音書25章をご一緒にお開きください。今日から、全聖書の中でも極めて重要なたとえ話の一つ、「タラントのたとえ」を見ていきましょう。これは「無駄にされた機会の悲劇」についての物語です。
ご存じの通り、聖書は私たち全員に対し、霊的な機会を最大限に生かすよう求めています。聖書の最初から最後まで、私たちは自分に与えられた特権を最大化するようにと召されているのです。
伝道者の書(伝道の書)では、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後になって、あなたはそれを見いだすからだ」と思い起こさせてくれます。つまり、外へ投げ出せば、それは戻ってくるということです。また、朝には種を蒔き、夕方にも手を休めてはならない、どちらが成功するか分からないからだ、とも教えられています。言い換えれば、あらゆる機会を利用すべきだということです。一つでも逃せば、それは無駄になってしまうかもしれないからです。
また、箴言10章5節にはこうあります。「夏のうちに集める者は知恵のある子であり、刈り入れ時に眠る者は恥をもたらす子である」。できるうちに蓄えなさい、収穫できるうちに収穫しなさい、ということです。詩篇69篇13節には「しかし主よ、私は、受け入れられる時に、あなたに祈ります」とあり、イザヤ書55章6節には「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられる間に」とあります。
エレミヤ書8章7節にはこう記されています。「空のこうのとりもその季節を知り、山鳩も、つばめも、鶴も、その来るべき時を守る。しかし、わたしの民は主のさばきを知らない」。エレミヤが言いたいのは、動物や鳥たちでさえ、然るべき時にどこにいるべきか、どう自分たちをケアすべきかを知っているのに、人間の中にはそれ以下の者たちがいる、ということです。詩篇95篇6節から8節にはこうあります。「さあ、私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は私たちの神、私たちはその牧場の民、その御手の羊なのだから。今日、もしあなたがたが御声を聞くなら、……あなたがたの心を頑なにしてはならない」。今日、定められた時に、受け入れられる時に、絶好の時に、特権を与えられた時にです。これと同じ思想がヘブル人への手紙3章でも繰り返されています。「今日、もし御声を聞くなら、……心を頑なにしてはならない」。
第二コリント6章2節で、パウロは言います。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です」。私たちの主イエスでさえも、その瞬間を最大限に生かし、霊的な特権と機会を最大限に活用するよう呼びかけられました。ヨハネ12章35節から36節で、主は言われました。「光があなたがたといっしょにあるのは、ほんのしばらくの間です。暗やみに追いつかれないように、光がある間に歩きなさい。……光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」。ここでも、霊的な機会を捉えるよう呼びかけておられます。
世俗的な詩を引用するなら、ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアは有名な『モード・マラー』の中で、私たちの多くが記憶している二行詩を綴りました。「語られたり書かれたりしたすべての悲しい言葉の中で、最も悲しいのはこれだ。『そうであったかもしれないのに(It might have been)』」。
「失われた機会」――それこそが、今日私たちが開いている箇所のテーマです。それでは、聖書を追いながら、このメッセージを見ていきましょう。
「天の御国は、旅に出るにあたって、自分のしもべたちを呼び、自分の財産を預ける人のようです。彼は、それぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、一人には一タラントを与えて、旅に出ました。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をし、ほかに五タラント儲けました。同じように、二タラント預かった者も、ほかに二タラント儲けました。ところが、一タラント預かった者は行って地を掘り、主人の金を隠しました。さて、長い月日の後、それらのしもべたちの主人が帰って来て、彼らと精算をしました。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラントを持って言いました。『主人よ。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに五タラント儲けました。』主人は彼に言いました。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラント預かった者も来て言いました。『主人よ。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラント儲けました。』主人は彼に言いました。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かった者も来て言いました。『主人よ。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める、ひどい人だと分かっていました。それで私は怖くなり、行って、あなたのタラントを地に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのものです。』しかし、主人は彼に答えて言いました。『悪い怠け者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、利息とともに返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられて豊かになり、持っていない者は、持っているものまでも取り上げられるのだ。この役に立たないしもべは、外の暗やみに追い出せ。そこで泣き叫び、歯ぎしりすることになる。』」
私たちはこのたとえ話を2回に分けて扱います。なぜなら、この深遠なメッセージを注意深く学ぶ必要があるからです。シンプルで包括的なメッセージは、「無駄にされた機会の悲劇」です。
ご存じの通り、主はこれまで弟子たちからの「あなたの来臨の時はいつですか?」という質問に答えてこられました。主は24章36節、42節、44節、50節、そして25章13節と、すでに5回もこう繰り返されました。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」。言い換えれば、「わたしの再臨の正確な日時は明かされていない」ということです。
主は24章で、ご自身の再臨の前に起こる「産みの苦しみ」や、天に現れる「人の子のしるし」について述べ、大患難時代の危険や欺瞞、悪についても語られました。そして、それが始まればあっという間に、その世代の生存者が終わりを見る暇もないほど速く進むと言われました。主は再臨直前の出来事については詳細に語られましたが、「正確な瞬間」と「正確な日」については語られませんでした。
主は、それがどの世代に、どの世紀に、どの時代に起こるかを教えようとはなさいません。しるしが始まったのを目撃している生存者にさえも、正確な瞬間は教えられません。なぜなら、すべての人が主の来臨を待ち望んで生き、「絶えず誰もが準備できている状態」であってほしいと願っておられるからです。
もし「キリストの再臨」という重大な出来事が起こることは分かっていても、それが「いつ」なのか分からないとしたら、私たちは常に準備を整えておかざるをえませんね? ですから、主の来臨がいつか分からない、突然で予期せぬ、驚くべき現実であるという事実こそが、すべての人に「自分の世代に起こるかもしれない」という覚悟と備えを促すのです。主は正確な日と時をあえて伏せることで、私たちが常に準備を整えていなければならないようにし、すべての人が備えるよう呼びかけておられるのです。
ここで主が弟子たち、そして私たちに突きつけておられる理解は、ただ一つ。「準備ができていなければならない」ということです。主は、私たちが思いもしない時に来られます。誰も知らないその時に来られるからこそ、私たちは皆、備えておく必要があるのです。ですから25章では、再臨の時がいつであるかは不明であると5回も告げた後、絶え間ない準備を呼びかけておられます。そのために用いられているのが、二つのたとえ話です。一つは1節から12節の「十人の娘のたとえ」、そしてもう一つが14節から30節の「タラントのたとえ」です。この二つは、根本的に同じ意図、同じポイントを持っています。どちらも同じメッセージを明確に伝えています。それは、「準備せよ、備えておけ」ということです。これらは極めて重要な二つのたとえ話です。そして、13節がこれら二つを結びつけていることに注目してください。「十人の娘のたとえ」は準備についての話でした。その結末で主は、「だから(Watch therefore)」と言われました。この「だから」が前のたとえ話を受けています。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」。
そして14節は「天の御国は、……旅に出る人のようです(For it is like a man traveling)」と始まります。この「というのは(For)」によって、前のたとえ話と13節の要約が、そのまま次のたとえ話へと引き継がれていくのです。つまり、13節は二つのたとえ話の「架け橋」のような役割を果たしています。「だから」が前の話から導き、14節の「というのは」が後ろの話を繋いでいます。主が来られるその瞬間は誰にも分からない。だからこそ、私たちは常に準備を整えておく必要があるのです。
準備の二つの側面:待ち望むことと働くこと
「十人の娘のたとえ」と「タラントのたとえ」には、ある重要な違いがあります。どちらも「準備(備え)」についてのたとえですが、前者は**「待ち望むこと」に、後者は「働くこと」**に焦点が当てられています。
十人の娘のうち、五人は花婿が来たときに準備ができていました。彼女たちは灯に油を持っていたからです。このたとえは、王の到来を待ち焦がれ、主の再臨を心待ちにする「内面的な心の態度」を強調しています。
一方で「タラントのたとえ」は、待っている間に私たちが何をすべきか、つまり「奉仕」を強調しています。私たちは、ただ着飾ってじっと座っている花嫁の付き添い人のようであってはなりません。待ち望みながらも、神から与えられた機会と責任(スチュワードシップ)を最大限に活用し、主に仕える。この「待ち望むこと」と「働くこと」のバランスこそが、健全なキリスト教生活の鍵なのです。
もし「働くこと」だけに没頭して再臨を待ち望む視点を失えば、バランスを欠きます。逆に、ただ「待ち望む」だけで何もしないのも、テサロニケの教会でパウロが戒めたような「怠惰」に陥る危険があります。
「御国」の二つの意味:目に見える国と目に見えない国
このたとえ話を正しく理解するために、新約聖書で使われる「天の御国」という言葉の二つの側面を知っておく必要があります。
目に見えない御国(真の御国):
これは、本当に新しく生まれた、救われた人々だけで構成される霊的な領域です。神が人の心の内側を支配している真の教会の姿です。
目に見える御国(外側の御国):
これは、自らをキリスト者と称する人々が集まる外的な組織や集団です。ここには「本物」と「偽物」が混じり合っています。マタイ13章の「毒麦と麦」や「網に掛かった良い魚と悪い魚」のたとえがこれに当たります。
「タラントのたとえ」に登場するしもべたちは、みな主人の持ち物を預かった「しもべ」と自称していますが、その中には機会を活かす者と無駄にする者がいます。これは、目に見える教会の枠組みの中にいる、本物と偽物の姿を映し出しているのです。
私たちが受ける責任:タラントと能力
物語は、ある主人が遠い国へ旅に出る際、自分のしもべたちを呼んで財産を預けるところから始まります。
「一人には五タラント、一人には二タラント、一人には一タラントを、それぞれその能力(ability)に応じて与えて、旅に出ました。」(マタイ25:15)
ここで注目すべき点がいくつかあります。
しもべ(ドゥロス):
ここでのしもべは、単なる未熟な労働者ではありません。知性があり、商売や農業、計算に長けた、信頼に値する「専門職」や「従業員」に近い存在です。主人は彼らの能力を熟知していました。
能力に応じた配分:
主人は不公平に扱ったのではなく、それぞれのキャパシティ(受容力)に合わせて、最も適切に運用できる量を預けました。
タラントの意味:
現代英語で「タラント(talent)」は「才能」を意味しますが、当時は「重量」の単位でした。金や銀の重さを表し、一タラントは非常に高額な資産価値を持っていました。
主人は彼らに「資産」を託しました。それは彼らが自分のために使うためではなく、主人が不在の間、主人の利益のために運用するためのものでした。これこそが、神が私たち一人ひとりに託された**「霊的な機会と責任」なのです。
銀か、金か:委ねられた資産の重み
各タラントの価値がどれほどだったかは、それが金か、銀か、あるいは銅かによって決まります。金の5タラントとなれば、それは天文学的な金額になります。しかし、18節で「金」を指す際によく使われる言葉が「銀貨」を指す文脈で頻繁に登場するため、これは銀であったと考えるのが自然でしょう。
主人は旅に出る際、一定の重さの硬貨を袋に入れて彼らに手渡しました。ある者には5タラント分の重さがある袋、ある者には2タラント、そして最後の一人には1タラントです。「これを持っていけ。そして投資し、私のために利益を上げなさい。忠実な管理者であることを証明せよ」というわけです。
ここで最も重要なのは、通貨としての価値そのものではなく、15節にあるこの一言です。
「彼は、それぞれその能力(ability)に応じて……与えて、旅に出ました。」
主人は各しもべの能力を見極めていました。大量の資産を扱うキャパシティがある者には多くを、そうでない者にはそれ相応の量を分配したのです。
個性の尊重:神がデザインした「キャパシティ」
この主人は主イエス・キリストご自身であり、「旅」とは主が今おられる天に帰られたことを指します。そして現在、私たちはその「管理人」を務めています。私たちは皆、主が戻られるまでの間、主のために仕え、働かせるための「硬貨の袋」を預かっているのです。
ここで理解していただきたいのは、「私たちは全員同じではない」ということです。神は私たちを、それぞれ異なる知的能力、言語能力、スキル、才能を持って創造されました。さらに、それぞれが置かれた環境、受けた教育、受けてきた弟子の訓練も千差万別です。神学博士号をいくつも持っているような人もいれば、福音の基礎以外は何も知らない、文字も読めない文化圏のクリスチャンもいます。精神的、情緒的に制約を抱えている人もいるでしょう。
しかし、それで良いのです。あなたが「1」なら「1」で、 「2」なら「2」で良い。それが神のデザインだからです。神は「5」の能力がある人に「1」を与えて腐らせることはしませんし、「1」の人に「5」を与えてパニックにさせることもありません。ローマ12章にあるように、神は「信仰の量りに応じて」それぞれにふさわしいものを配分されるのです。
「あなたの袋」には何が入っていますか?
私たちが担いでいる「袋」の中身は、単なるお金ではありません。それは「霊的な特権と機会」です。
これまでにどれほど御言葉の教えを受けてきたか。どれほど真理を聞く機会があったか。どれほど霊的な洞察や、信徒同士の交わりの祝福にあずかってきたか。
例えば、このグレース教会(マッカーサー師の教会)に来ている皆さんは、非常に「重い袋」を背負っています。世界には、福音の断片しか知らない幼子のようなクリスチャンが数多くいます。そんな中で、これほど豊かに教えを受け、霊的な恩恵に浴している私たちは、それだけ大きな責任を預かっているのです。
反応の違い:即座の行動か、放置か
では、その責任に対してどのような反応をすべきでしょうか。
「5」と「2」のしもべ(16-17節):
彼らは「すぐに行って(immediately)」商売をしました。この「すぐに」という言葉が鍵です。これは内面的な救いの実です。主を愛するしもべは、主人に仕える特権に接したとき、即座に心が反応します。彼らは自分の時間を主人のために使い、預かったものを倍にしました。これは**「最大限の献身」**を象徴しています。
「1」のしもべ(18節):
彼は「地を掘り、主人の金を隠しました」。当時、地面を金庫代わりに使うのは一般的でしたが、彼は預かったもので「何もしなかった」のです。彼は機会を完全に無駄にしました。
誤解しないでください。これは「能力が低い人は不忠実になりやすい」と言っているのではありません。そうではなく、「たとえ預かったものが『1』であっても、その分だけの責任がある」と言っているのです。
清算の時:主人は「帳簿」を調べに戻られる
19節をご覧ください。
「さて、長い月日の後、それらのしもべたちの主人が帰って来て、彼らと精算(reckon)をしました。」
「精算する」とは商業用語で、帳簿を照らし合わせることを意味します。主が戻られるとき、私たちに与えられた霊的特権をどう用いたのか、その帳簿が調べられます。また、ここで「長い月日の後」とあることに注目してください。主は「私が来るのは、あなたがたが思っているよりも遅くなるかもしれない」と示唆されています。だからこそ、「ただ空を見上げて待っているのではなく、忙しく働いていなさい」と言われるのです。
結論:あなたは「誰のもの」として生きていますか?
5タラントと2タラントのしもべは、主人から「よくやった。良い忠実なしもべだ」と称賛されました。彼らは機会を活かすことで、自分たちの救いが本物であることを証明したのです。
しかし、1タラントのしもべは「悪い怠け者のしもべ」と呼ばれました。彼は口では「しもべ」と言っていましたが、実際には主人の資産を無視し、自分の好きなように時間を使いました。
このたとえ話は、私たちに厳粛な問いを投げかけます。
「あなたは外面的に御国に関わっているだけですか? それとも、内面から本当に御国に属していますか?」
主よ、サタンという欺く者によって、あるいは自分自身への欺きによって、誰も惑わされることがありませんように。私たち一人ひとりが自分の人生を省み、自分が麦であるか毒麦であるか、良い地であるか悪い地であるかを見極めることができますように。土台のある家か、土台のない家か。油のある娘か、ない娘か。霊的な特権を最大限に生かして主に仕えるしもべか、あるいは霊的な機会を無視して自分自身に仕える者か。どうか、すべての心がお調べを受けますように。あなたの御霊が、偽りの中から真実を引き出すために必要なすべてのことをなしてくださいますように。
祈りを終える前に、皆様が頭を垂れている間、少しだけお話しさせてください。これは私たちの主が与えてくださった厳粛なメッセージです。主がこれほど頻繁にこのことを語られたのは、それが常に主の心にあったからに違いありません。
主の心を痛めていたのは、単に「教会か、教会でないか」という区別ではありませんでした。そうではなく、贖われた者と贖われていない者、救われた者と失われた者、真実な者と偽りの者、本物と形だけの者が、同じ「教会」の中に混ざり合っているという事実でした。もちろん、御国に関心があるふりすらしない、教会の外の人々のことも主の重荷でしたが、この「内側の混ざり合い」を主は深く憂慮しておられたのです。主が再臨されるその日、たとえ大患難時代であっても、外面的には御国の一員を自称しながら、内面では主を知らない人々が存在します。その時代にあっても、自分は「しもべ」だと言いながら、与えられた霊的な機会を全く用いない人々がいるのです。
聞いてください。今こそがあなたの「機会の日」です。今は「受け入れられる時」であり、「定められた時」です。今は「救いの日」なのです。その時間がいつまで続くのか、私には分かりません。死、教会の携挙、大患難の恐怖、そしてイエス・キリストの再臨――これらは私たち一人ひとりの地平線上に迫っています。あなたは準備を整え、自分の心を見つめ、そこに**「真実さ(本物であること)」**があるかどうかを確認しなければなりません。
先ほどの祈りの中で申し上げたように、自分の誠実さを判断する基準は、「主を悲しませることを恐れているか」という点にあります。何よりも主の御旨を知り、それを行いたいという願いがあるでしょうか。自分を捨て、主の栄光を愛する心があるでしょうか。主の戒めから決して離れたくない、他のクリスチャンを躓かせたくないという切実な願いがあるでしょうか。
もしそれがあなたの心の姿であるなら、それこそが誠実さと真実さの印です。あなたは与えられた機会と特権を捉え、神が授けてくださった機会に対して、神に十分な報いをお返ししていると言えるでしょう。
しかし、もしあなたの人生にそれらの印が見当たらないのであれば、「自分は大丈夫だ」と自分を欺かないでください。外面的な教会のつながりがどうであれ、内面が伴っていなければ、決して「大丈夫」ではないのです。今こそキリストのもとに来てください。自分の罪を告白し、主を救い主として、また主として信じてください。
Grace to you The Tragedy of Wasted Opportunity, Part 1 より翻訳