聖書の『ヨブ記』の1章を開いてください。今夜、このテーマを取り上げることにしたのは、多くの方々から質問を受けたり、このことについての本を読んでいる方もいると聞いており、とても重要な話題だと思ったからです。ですから、今夜は「サタン」という人物について一緒に考えたいと思います。

以前にも言いましたが、私は普段、ある特定のテーマを扱う「トピカルな説教」よりも、聖書の箇所を順に解き明かしていく「釈義的(しゃくぎてき)な説教」を好みます。しかし、時には特定のテーマに絞った説教も必要だと思っています。そして今夜は、神が私たちを導いてくださって、この「サタン」について語るという決断に至ったと信じています。

私たちの多くは、サタンという存在について、あまり深く考えずに見過ごしているのではないでしょうか。サタンが人格を持ち、私たちの生活に深く関わっていること、教会に深く関わっていること、そして世界に対して個人的な攻撃的な方法で深く関わっていることに、私たちは気づかないことがあります。神の御霊がクリスチャンであるあなたがイエス・キリストのために生きられるように努めているように、悪魔サタンはあなたの証を破壊し、あなたを惑わし、キリストに仕えるあらゆる効果的な方法からあなたを遠ざけようとしています。サタンは現実のものです。今夜は、少なくともサタンの戦略について知っていただきたいと思います。相手の戦略を知ることは非常に重要です。フットボールで言えば、相手のプレーを知っていれば、かなり有利な状況になります。もしそれが実現すれば、試合は終わってしまいます。サタンは実に明白な人物であり、聖書の中で明確に描かれています。ですから、私たちはサタンについて無知である必要はありません。

サタンが初めて登場するのはヨブ記です。ヨブ記は、年代順に言えば聖書の中で最も古い書ですが、聖書の冒頭ではありません。ヨブは族長時代、つまり創世記に登場する族長たちが生きていた時代に生きた人物です。年代順に言えば最初の書であるヨブ記は、義人とサタンの闘いを描いた書です。神は人類の歴史のまさに始まりから、決して時間を無駄にすることなく、悪魔との闘いを始め、キリストが御国においてサタンを縛り、そしてしばらくの間解放し、そして穴に投げ込むまで、決して終わることはありませんでした。人類の歴史は神とサタンの闘いの歴史であり、その戦場はまさに人間の人生です。真の戦いはそこで繰り広げられるのです。

ですから、年代順に書かれた最初の書であるヨブ記は、族長時代に生きた、神とサタンの闘いにおける真の戦場である人物の物語なのです。それは、それ以来ずっと続いていることの始まりに過ぎません。そして、この戦い、この葛藤の最中、ヨブは神に忠実であり続けました。そして、そのすべてを要約すると、ヨブはこう言いました。「たとえ神が私を殺しても、私は神を信頼する。」ヨブは、たとえ神が私を殺しても、私は神を信頼し続けると言いました。彼の信仰は決して揺るぎませんでした。背景を説明するために、ヨブ記1章6節を見てください。これは、本文というよりも、序文です。

「ある日、神の子たちが主の前に現れた。サタンも彼らの中に現れた。」天から追放されたサタンでさえ、依然として侵入する力を持っていることは明らかです。「主はサタンに言われた。『あなたはどこから来たのか』。サタンは主に答えた。『地をあちこち歩き回り、そこを歩き回ってきたのだ。』」これで、サタンが地上で活動している領域がお分かりいただけたでしょう。 「主はサタンに言われた。『あなたはわたしのしもべヨブに気づいたか。この地上には彼のような人はいない。彼は全く正しく、神を畏れ、悪を避ける者だ。』するとサタンは主に答えて言った。『ヨブが神を恐れるのは、いたずらではないか。あなたは彼と彼の家と、彼のすべての持ち物の周囲に垣を築かれたではないか。彼の手のわざは祝福され、彼の財産は国中で増えたではないか。』」つまり、神様、ヨブがあなたをとても愛しているのは当然です。彼がとても忠実なのも当然です。あなたが彼に与えてくださったすべてのものを見てください。

そして11節には、「今、あなたの手を伸ばして、彼のすべての持ち物に触れてください。そうすれば、彼はあなたの顔に向かってあなたを呪うでしょう。」とあります。神様、彼の状況を少しでも混乱させれば、あなたは彼があなたが思っていたほど忠実ではないことをお分かりになるでしょう。 「主はサタンに言われた。『見よ、彼の持つすべてのものは汝の手に委ねられている。ただ、彼自身に手を下してはならない。』」サタンを殺すためではない。「こうしてサタンは主の前から出て行った。」そして、ヨブの人生における神とサタンの闘争の始まりです。この闘争は、人類の始まりから今日まで続いてきた歴史であり、エデンの園でエバがサタンに誘惑されて神に背いた時に実際に始まった闘争です。そしてこの闘争は終焉を迎えることなく、キリストでさえもこの闘争を終わらせるために来られました。聖書には、キリストは悪魔の業を滅ぼすために来られたと記されているからです。

サタンは究極の敵です。私たちが警戒すべき究極の敵です。聖書は決してサタンの力を過小評価しておらず、サタンの意図を誤解することもありません。サタンについて興味深い点があります。

悪魔はめったに現実を描写しません。いつも甘く包み隠しています。現代の広告業界では、酒類の広告を見ると、酔っ払いによくあるように、溝に吐いた自分の吐瀉物にまみれて横たわる貧しい人などは描かれず、常に上流社会の状況を描きます。決して現実を描写しません。映画やテレビなどで宣伝される、誘惑的な恋愛はどれもとても美しいものです。決して現実を描写しません。しかし、イエスはヨハネによる福音書10章10節で、悪魔は殺し、盗み、滅ぼすために来る盗人であると言っています。それが悪魔の仕事であり、悪魔がしようとしていることです。悪魔の思う壺に陥る者は誰でも、サタンが殺し、盗み、滅ぼす以外の何ものでもない状況に陥っているのです。サタンはキリストでさえも、その行為を止めませんでした。キリストの宣教活動の始まりの頂点であった洗礼の直後、神の霊はキリストを荒野へと導き、サタンと対峙させました。キリストの最初の30年間の頂点、天からの声が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と告げられた洗礼の後、神の霊は鳩のようにキリストの上にとどまり、キリストは神のメッセージを伝える使命を託されました。その直後、キリストはサタンと直ちに対峙しました。皆さんも覚えているでしょうが、サタンはキリストを誘惑した際に、十字架から引き離そうとしました。サタンは、自分が世界の王国を欲しているから、もし私にひれ伏すなら、それをあなたに与えよう。そうすれば、あなたは死ぬ必要はない、と考えました。サタンは最初からキリストの邪魔をしようとしたのです。

サタンは神に敵対する存在です。イエス・キリストの生涯を通して、彼はキリストにも敵対し続けました。ある時には、なんとペテロ自身の口を通して語ったことさえありました。サタンは、悪意に満ちた現実の存在です。常に神と神の子どもたちに敵意を持っており、常に不潔なものや悪徳、罪を促しています。時々、私たちは「悪魔」のことを冗談のように扱ってしまいます。ちょうどこの時期(ハロウィンの頃)になると、100円ショップなどで「小さな悪魔のコスチューム」を見かけますよね。まあ、ある意味では、そういう衣装が子どもたちの性格にぴったりな場合もあるかもしれませんが(笑)、本質的には、サタンは非常に賢い存在です。サタンは、自分という存在について冗談めかして語らせるような「雰囲気」を作り出すことができれば、長い目で見て、自分にとって大きな得になると知っているのです。今では、私たちは「小さなツノとしっぽのついた悪魔」のイメージを冗談のように語るようになりました。でも、それはサタンの策略です。私たちが彼の本当の姿から目をそらすようにするための「嘘」なのです。サタンは冗談の種ではありません。彼は人格を持たない単なる「影響力」や「象徴」などではありません。彼は実在する、生きて働き、暴力的で、神に敵対する人格的存在です。
そして、もしご存じなかったならお伝えしますが、彼はいま、この世界を支配しています。彼は「この世の君(きみ)」であり、「この世の神」であり、「今の時代の支配者」なのです。この世界全体は、まるで眠っている赤ん坊のように、悪しき者の手の中にあるのです。神が人格を持つ神であり、イエス・キリストが人格を持つキリストであり、聖霊が人格を持つ聖霊であるように、サタンもまた「人格的な現実」です。そして、神があなたの味方であるように、サタンはあなたの敵なのです――それが彼の役割なのです。

聖書の冒頭、創世記1章と2章、そして聖書の終わりの黙示録20章と21章の2章だけがサタンとは全く関係がありません。それらはサタンの出現以前と以後について書かれています。聖書の中でサタンが不在、あるいは追放されている章はたった4章だけで、どちらの場合も楽園です。聖書の他の章はすべて、神とサタン、そして人間との終わりのない闘争、争いが描かれています。人類の歴史を通して、サタンは実在の人物、悪の化身として認識され、言及されてきました。サタンはサタンに与えられた数多くの呼び名の一つに過ぎず、サタンとは敵対者を意味します。まさにその通りであり、サタンの正体です。

さて今夜、私たちは「サタン」という存在について、3つの側面から見ていきたいと思います。それは、聖書におけるサタンの啓示(正体)、教会との関係、そして世界との関係です。まず最初に、サタンの性質について、聖書は非常に丁寧かつ詳細に啓示しています。数多くの聖書箇所が、まず第一に「彼が人格的存在である」ということを示しています。サタンは、ただの「もや」や「漠然とした悪の雰囲気」ではありません。彼は**実在する“人格”**なのです。ただし、私が「実在する」と言っても、それは肉体を持っているという意味ではありません。彼は霊的な存在です。神が霊であるように、サタンもまた霊なのです。彼は人間ではありません。霊的な被造物としての存在なのです。

大学時代、私の家の向かいに住んでいた男の人がいました。彼は本当に変わった人でした。ある日、彼がやって来て、ずる賢い顔をして私のところに歩み寄ってきて、「君がいつも祈りを捧げているのを見たことがない」と言ったんです。私は「君の部屋には捧げ物がない」と言いました。すると彼は「きっと君も祈りを捧げていないんだろうな」と言いました。私は「まあ、たまには捧げない時もあるよ」と答えました。彼は「やっぱりそうだな」と言いました。「君は霊的じゃないな」と。そしてこう続けました。私は「これは本当に奇妙だ」と思いました。

ちょっと…まあ、とにかく、祈祷会から帰るところだったんです。私が通っていた大学では祈祷会は任意参加だったんですが、今回は任意の祈祷会だったので、ちょっと新鮮でした。それで行って戻ってきたら、彼は行っていませんでした。我慢できませんでした。彼の部屋のドアの前を通り、中を覗いて「祈祷会に行ってないじゃないか。どうしたんだ?」と言いました。すると彼はものすごく変な顔をして、部屋を横切って壁に向かってこうやって飛び上がってきました…冗談じゃないんです。彼は私を指差して「お前はジョン・マッカーサーじゃない、悪魔だ」と言いました。もちろん、私は「うわあ!」って叫びましたよ(笑)。彼は本当に怖がって、本当に怯えて、飛び退いてしまいました。私は…ええと…本当に、今まで経験した中で最も奇妙な出来事でした。部屋を出て、「こんなのありえない」と思いました。翌日、学部長に報告するように言われ、学部長のところ​​へ行きました。すると学部長は「あなたが悪魔だという報告を受けています」と言いました。私は「もしそうなら、もっとずっと前に…もっと早く、私の話を聞いていたはずですよ」と言いました。そして、私は自分が悪魔ではない、悪魔は人間ではない、人格を持った霊であり、人間ではないと学部長を説得しました。

つまり、私が言っているのは人間のことではなく、悪魔が神、キリスト、聖霊と同じように現実に存在する霊的な存在であるということです。そして、先ほども言ったように、聖書には悪魔が人格を持っていることを示す記述が数多くあります。まず第一に、創世記3章で悪魔はエバを個人的に誘惑しました。第二に、サタンはマタイ伝4章でキリストを個人的に誘惑しました。マタイ伝4章では神の言葉を歪曲しました。ゼカリヤ書3章では神の働きに反対しました。テサロニケ第一2章では神の僕たちを個人的に妨害しました。マタイ伝13章とコリント第二4章、そして聖書の多くの箇所で福音を妨害しました。テモテ第一3章とテモテ第二2章では、サタンは悪人を罠にかけます。サタンは国々を滅ぼすことを望み、罠にかけます。列王記上22章と黙示録16章と20章にはこのことが記されています。テモテ第一3章では、サタンは悪人を罠にかけます。パウロはコリント人への手紙の中で、サタンは光の天使であると述べています。ユダの手紙6節では、イエスはミカエルと自ら闘いました。創世記3章では、イエスは自ら罪を世に招き入れました。ヨブ記1章では、イエスは自ら神の前に現れました。ペテロの手紙一5章では、イエスはほえる獅子のように自ら歩き回り、食い尽くすべきものを探し求めています。この箇所については数週間後に取り上げます。黙示録12章では、イエスは信者たちを告発するために自ら天に現れます。ヘブル人への手紙2章では、イエスは死の力を持つと述べられています。そして、ヨハネの手紙一5章で、ヨハネはこう言っています。「全世界はあの邪悪な者の腕の中にあります。彼は人格を持った実体です。サタンの人格と性格は、イエス・キリストの人格と性格と同じくらい明確に聖書に示されています。どちらかを否定することは、もう一方を否定することです。

例えば、悪霊を追い出す際、キリストご自身が悪霊たちに、あたかも彼らが明確な人格を持っているかのように、常に語りかけられました。キリストは彼らを人格として具体的に語りかけ、私たちは悪のかすかな影響力に過ぎないのです。実際、キリストはガダラの狂人から悪霊の一団を遣わし、豚の群れの中に入り込ませると、豚の群れ全体が崖から落ちました。彼らは人格を持った実体であり、今もそうです。サタンもその中の一人です。キリストが彼らを非難した時、キリストは同じようにサタンを実在の人物として非難したのです。」

さて、聖書はこの「サタン」という存在について、何を教えているでしょうか?まず第一に、彼は自存(じそん)する存在ではないということです。聖書は、「自ら存在している」存在はただ神だけであると教えています。つまり、サタンは創造された存在だということになります。
「じゃあ、誰が彼を創ったのか?」と思うかもしれませんが、答えは明確です。神が彼を創られたのです。「でも、神が“悪”を創るなんてことがあるのか?」
――確かに、あなたの言う通りです。神は悪を創ることはありません。
ということは、明らかに、サタンは創造された時点では悪ではなかったということになります。神が創られるものは、すべて良いものです。ヨハネの福音書1章では、「すべてのものはみことばによって創られた」と書かれています。つまり、神が創られたすべてのものは「良いものであり」、サタンも当初は「良い存在」として創られたのです。それが後に堕落して悪となった――これが実際に起きたことです。もし今、サタンが「悪」であるとしたら、それは彼自身が神の与えた本来の善なる性質から堕ちたからです。これが、聖書が示している真実です。
サタン――悪の軍勢の君、罪の帝国の支配者は、今や高い座に就いているわけではなく、地位を追われた堕落者なのです。彼は天から堕ち、自分の従える天使たちと共に地に落とされたのです。
この「堕落」については、ペテロとユダの書においても詳しく語られています。それは、彼と共に堕ちた「御使いたち」の堕落のことです。そして、イエスご自身もこのことを語られました。
ルカの福音書10章18節で、イエスはこう言われます。
「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た。」
これはつまり、サタンがもともと神のもとにいた高い立場から堕ちてしまったということを、キリストご自身が証言されているのです。

「では、サタンが堕落させた罪とは何だったのでしょうか?」と疑問に思われるかもしれません。その答えを見つけるために、二つの聖句をお見せしたいと思います。イザヤ書14章、14章は聖書の中でも非常に重要な箇所です。14章12節です。では、少し戻って、4節を見てください。イザヤはここでバビロン王に語りかけています。バビロンは言うまでもなく世界最初の帝国であり、メディア・ペルシャ人、ダリウスとメディア・ペルシャ人の手に落ちようとしていました。イザヤとイスラエルは、バビロンが崩壊しようとしていたことを心から喜びました。
偉大な帝国、世界帝国バビロン、ダニエルの像の黄金の頭が崩壊しようとしていたからです。ですから、14章のこの預言において、イザヤはバビロン王に対して預言しています。預言と言うべきではないかもしれません。まあ、そう言う人もいるかもしれませんが、バビロン王に裁きを宣告しているのです。 4節を見てください。「バビロン王に対して、あなたはこのことわざを取り上げ、『どうして抑圧者は絶え、黄金の都は滅びたのか』と言うであろう。」つまり、すべてが終わるということです。そして11節には、「あなたの栄華は陰府、すなわちハデスに落とされ、あなたの琴の音は、あなたの上に広がり、あなたの上に蛆虫が覆いつくされた。」つまり、バビロンの王よ、あなたとあなたの都市はもう終わりです。そして12節で突然、素晴らしい変化が起こります。「ああ、暁の子ルシファーよ、どうしてあなたは天から落ちたのか。どうしてあなたは地に打ち倒されたのか。諸国の民を弱めるとは。」そしてあなたは、「では、ルシファーはバビロンの王について語るときに、どうしてこのことにこだわるのだろう?」と言うでしょう。答えはとても簡単です。この箇所はもともとバビロンの王に向けられたものです。イザヤから、彼が裁きを受けるという宣言を受けます。しかし同時に、イザヤはこの王を超えて、彼の悪の根源であるサタン自身へと向かいます。バビロンの王に直接裁きを宣告しながらも、彼は彼を通り抜けて、彼の問題の根源であるサタンへと向かいます。ですから、彼はサタンを通り過ぎてこう言います。「ああ、暁の子ルシファーよ、どうしてあなたは天から落ちたのか。諸国の民を弱めたあなたが、どうして地に倒されたのか…13節…あなたは心の中でこう言った。『わたしは天に昇り、わたしの王座を神の星々よりも高く上げ、北の果てにある会衆の山に座し、雲の頂よりも高く昇り、いと高き者のようになる。』しかし、あなたは陰府の穴の端に落とされるであろう。」まさにこれが、神の国の終わりに起こることです。

さて、ここで何が起こったかお分かりでしょう。イザヤは人間像に語りかけていましたが、その人物像を超えて、彼の問題の根源であるサタン自身の実体に語りかけました。これは、サタンがこの男の人生に及ぼした影響を示しています。「ちょっと奇妙じゃない?」と思うかもしれませんね。でも、そうではありません。これは聖書では非常によくあることです。良い面としては、あなたはメシア的な詩篇を読んだことがあるでしょう?詩篇22篇が代表例でしょうし、詩篇118篇もそうです。しかし、詩篇22篇はメシア的な詩篇です。そこでダビデは自分自身について語っていますが、実際には、彼が語ったことはキリストにおいてより大きく成就するのです。先ほどお話ししたペテロの例を考えてみましょう。キリストが「私は十字架に行く」などと言われたとき、ペテロはこう言いました。 「主よ、そうであってはなりません。」では、キリストは彼に何と言いましたか?「ペテロよ、わたしの後ろに下がれ。」わたしの後ろに下がれ…それはサタンです。イエスはペテロに直接語りかけていましたが、問題の核心に迫り、ペテロをサタンの手に渡しました。まさにイザヤがここで言っていることです。ここで私たちはバビロンの王に語りかけられ、同時に彼の悪の源であるサタンに語りかけられ、裁かれています。そしてこの文脈の中で、彼を堕落させたサタンの罪が明らかにされます。13節から始まる5つの「わたしは…する」という言葉に気づきます。そして、これが彼の問題なのです。まず、「わたしは天に昇る」。そして、「わたしはわたしの王座を神の星々よりも高く上げ、会衆の山に座する」。14節、「わたしは雲の高みよりも高く昇る」。 「いと高き方のようになる」。彼が何を抱えていたか分かりますか?自尊心の問題でした。彼の問題は何だったか分かりますか?プライドです。「私はこうなる、ああなる」。彼は…頂点に達して…いと高き神のようになることを望んでいました。これは深刻な問題です。だからこそ彼は堕落したのです…プライドのせいです。

エゼキエル書28章を見てみましょう。ここにはサタンの堕落についての、もう一つの重要な記述があります。エゼキエル書28章11節以降に注目してください。実はこの章も、イザヤ書と同じ構造になっています。イザヤがバビロンの王に対して預言したように、エゼキエルもツロの王に対して預言しているのです。この章の最初の10節までは、ツロの王子について述べられています。たとえば2節を見てください(1節から読むとよく分かります):
「主のことばが私に臨んだ、『人の子よ、ツロの君に言え…』」
ここでまずはツロの王子に対する裁きの言葉が始まります。
ところが、11節からは様子が変わります。ここでは、表面的には「ツロの王」に語っているように見えますが、実際にはその背後にいるサタンそのものに語りかけているのです。これは、イザヤ書14章で「バビロンの王」を語りながら、その背後にいるルシファー(サタン)に言及していたのとまったく同じ手法です。
11節にはこうあります:
「主のことばが私に臨んだ、『人の子よ、ツロの王について哀歌を唱え、彼に言え。神である主はこう仰せられる──あなたは完全な模型、知恵に満ち、美の極みであった。』」
この後にこう続きます:
「『あなたは神の園、エデンにいた』」
この時点で明らかにわかります。ツロの王がエデンにいたはずがありません。
さらにこうも言われています:
「『あなたをおおうケルブ(守護の天使)として、わたしはあなたを任じた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。あなたは創られたその日から、あなたの道において完全であったが、ついに不義があなたのうちに見出された。』」
ここでも明白です。これは人間の王ではなく、霊的な存在──サタンについて語っているのです。
聖書はここではっきりとこう語っています:
• サタンは神によって完全に良い存在として創造された
• けれども後に、不義(罪)が彼のうちに見出された
つまり、神は悪なる存在を創られたのではないのです。彼はもともと「完全」だったのです。
この「不義」とは何か?それは高慢(プライド)です。この傲慢さが、サタンを天から堕とした原因だったのです。

そして11節にはこうあります。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、ツロの王のために哀歌を歌い、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたは知恵に満ち、美しさの極みにある。あなたはエデンにいたのだ。』」今、ツロの王が

エデンでは決してそうではありませんでした。「神の園よ、あらゆる宝石があなたの覆いであった。紅玉、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、エメラルド、カーバンクル、そして金。あなたのタンバリンと笛の細工は、あなたが創造された日にあなたの中に備えられていた。あなたは、覆う油そそがれたケルビムである。」今、私たちはそれがティルスの王ではないことを知っています。彼は天使ではありませんでした。「そして、わたしはこれらをこのように定めた。あなたは神の聖なる山にいた。」も、ティルスの王を指すことは決してありません。「あなたは火の石の間を歩き回り、創造された日から、あなたの中に罪が見出されるまで、あなたの道は完全であった。」神は邪悪な存在を創造した責任はありません。神は完全でした。そして再びツロの王に語りかけ、彼はサタンの本質である全体的問題へと突き進みます。サタンは、罪が見出されるまでは完全でしたが、その罪とは傲慢さであり、それが彼を天から堕落させました。

ですから、サタンは自存していません。善なる存在として創造されましたが、堕落しました。そして、神に対する最初の反逆以来、サタンは神に対して終わりのない反逆を続けています。

第二に、サタンは自存していないだけでなく、主権者でもありません。サタンは神の統治を放棄していません。依然としてそれに従属しています。サタンは神が許した狭い領域の中で、依然として動き回っており、そこから抜け出すことはできません。サタンは依然として反逆状態にあり、神の主権に対して公然と反逆していますが、依然としてその支配に捕らわれています。サタンは神からこの世で許された活動範囲を持っていますが、それでも神の主権に服しています。もし信じられないなら、黙示録を読んで、サタンに何が起こるのか確かめてください。サタンは神とは違います。全知ではありません。すべてを見通すことも、すべてを知ることもできません。サタンはすべてを知っているわけではありません。すべてを見ることもできません。全知ではありません。初めから終わりまで見通すこともできません。サタンは全能ではありません。それでも神の力に服しています。そして、サタンは遍在していません。地上をあちこち歩き回っています。どこにでも行き来し、速く、本当に速く動きますが、遍在しているわけではありません。これは神のみに許されたことです。聖天使であれ堕天使であれ、どんな天使も遍在しているわけではありません。

あなたは「私が罪を犯すたびに、それはサタンの仕業なのですか?」と言います。いいえ。サタンは、悪魔があなたを誘惑するように、時々あなたを誘惑することがあります。そして、時には誰も必要としないこともあります。あなたは堕落した罪深い性質を持っているだけで、その役割を果たしてくれるのです。しかし、サタンは全知でも全能でも遍在でもありません。それらは神の属性であり、サタンは主権者ではありません。

悪魔は自存も主権も持たないだけでなく、強力で巧妙です。本当に巧妙です。先ほど言ったように、露骨ではなく、極めて巧妙です。こっそりと動き回ります。「私は悪魔だ。お前の人生を破滅させたい。こうしろ」などと近づいては来ません。決して…決して。悪魔はいつも、私たちが夢中になるような、とても美しい絵を描きますが、結局は破滅を意味することに気づきます。そして、悪魔は世界のシステムを操っています。悪魔は強力です…本当に強力です。世界のメディアを掌握しています…すべてが悪魔の所有物です…映画、新聞、ほとんど、学校、教育システム、書籍、あらゆる…この世のあらゆる体系化されたものは、イエス・キリストに捧げられたものを除いて、実際にはサタンの手中にあります。中立地帯などありません。基本的に、中立的な活動に耽ることはできません。もちろん、健康や肉体、魂の喜びのためにあっても道徳的な意味を持たないものもあり、神はそれらを私たちの喜びのために与えてくださったのです。しかし、道徳的な結論を導き出すものはすべて、神に味方するか神に反するかのどちらかです。パウロはこう言っています。「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、支配と権威、この暗黒の世界の支配者たち、天にいる悪の霊に対する戦いなのです。」サタンは力強く、そして狡猾です。

このように、聖書の中でサタンの啓示を見てきましたが、私たちはほんの少し触れただけです。では、次に、サタンと教会の関係について見てみましょう。サタンは教会とどのように関係しているのでしょうか?先ほど述べたように、サタンは反キリストであり、反神であり、反キリスト教です。しかし、教会と宗教を支持しています。もしサタンが教会にしがみつき、神が決して意図しなかったものに変えてなお存在し続けることができれば、サタンは目的を果たしたことになります。サタンは教会の真ん中に潜り込み、イエス・キリストの働き、神の言葉の真理を破壊しようとしており、いくつかの分野ではなかなかの成功を収めています。サタンはすでに世界を掌握しているので、そこに多くの時間を費やす必要はありません。ですから、サタンはイエス・キリストの証を台無しにしようと時間を費やしています。そして、彼は成功しています。今日、多くの教会は、事実上サタンによって支配されています。彼らはイエス・キリスト、その実在、神の言葉、神の存在、さらには神の死さえも否定しているのに、自分たちを教会と呼んでいます。あなたは、それらはリベラルで現代的だと言うでしょう。
それは確かにそうですが、ご存知のとおり、サタンは福音派教会にも働いています。本当にそうです。サタンは教会を分裂させ、会員の間に罪を持ち出して会衆全体を分裂させ、汚すことを何よりも好んでいるのです。サタンは、教会で重要な地位にある人物を罪によって深刻な破滅に陥れ、教会の交わりを破壊し、教会の名を汚すことを何よりも好んでいます。サタンはまさにそれを好みます。争いを引き起こし、教会を滅ぼすような、あからさまな罪を犯させることを好みます。だからこそ私たちは、神がこの教会でサタンを叱責し、教会を清く保ってくださるように、毎日絶えず祈っているのです。キリストがこの教会で何をしようとしておられるとしても、サタンはそれとは全く逆のことをしようと躍起になっています。決して忘れないでください。サタンがサタンの首を狙っていることも忘れないでください。サタンは聖書も読めます。どうなるかは分かっていますが、ただ座って待っているつもりはありません。神が人を愛するなら、サタンは人を憎みます。神がキリストが人の中に存在することを愛するなら、サタンはキリストが人の中に存在することを憎み、あらゆる手段を使ってキリストのような生き方を妨げようとします。

聖霊が義の事柄で人々を導こうとするなら、サタンは人々を不義の事柄へと導こうとします。だからこそ、キリストの使命は悪魔の業を滅ぼすことでした。悪魔はキリストの体現するすべてのものと正反対だからです。クリスチャンの皆さん、もしまだ学んでいないなら、ぜひ学んでください。イエス・キリストに完全に身を捧げて生きようと決意した瞬間、サタンは戦いを始めます。もしあなたが「ああ、すべてが順調だ」とただ座っているなら、それは何もしていないからです。ある人が私にこう言いました。「実は最近、証しの仕方を学んだばかりなんです。証しをすればするほど、それが楽になるんです。」本当に!証しをすればするほど、それが難しくなるのです。なぜでしょうか?それは、証しが上手になり、より献身的になればなるほど、サタンの働きが激しくなるからです。そして、イエス・キリストの再臨が近づくほど、人々の心はますます硬くなります。決して楽になることはありません。

信者の人生において、サタンは何をするでしょうか。使徒言行録第5章では、サタンが私たちを罪に誘惑すると記されています。コリント人への手紙第二第2章では、サタンが私たちを妨害すると記されています。黙示録第12章では、サタンは神の前で私たちを告発します。エペソ人への手紙第6章では、サタンは私たちを倒すために悪霊を駆使します。献身的な信者の人生において、サタンは忙しく活動しています。教会についても同じことが言えます。教会がイエス・キリストのために動き始め、神の言葉とキリストの御人格に基づいて教会が立ち上がって動き始めるとき、サタンが私たちの前に立ちはだかることは間違いありません。

サタンはそこに入り込み、できるだけ多くの不和を撒き散らし、できるだけ多くの卑劣な罪を持ち出して、その教会の証を破壊しようとします。あなたがイエス・キリストのために立ち上がった瞬間、サタンはあなたに戦いを挑みます。だからこそ、パウロは人生の終わりに際し、大きく息を呑んで「私は良い戦いを戦い抜いた」と言いました。彼は自分の経験を楽観的に流したのではなく、常に戦い続けました…常に。これは、クリスチャンが未信者が心配する必要のない、期待できるものの一つです。未信者は戦うことなく、常に悪事を働きます。戦いは全くありません。戦いが始まるのは、信者になった時です。

「ああ」とあなたは言うでしょう。「それは恐ろしいことのように聞こえます」。しかし、そうではありません。パウロはコリント人への手紙の中で、人間に共通する誘惑以外に、あなたが受ける誘惑はないと言いました。神は忠実な方です。あなたが耐えられないほどの試練に遭わせることはありません。むしろ、試練と共に、あなたが耐えられるように…何を?…逃れる道も備えてくださいます。必ず逃げ道はあります。

「サタンが私を襲ってきたら、どうすれば倒せるだろうか?」とあなたは言うでしょう。中には、「とにかく戦えばいい」などと考える人もいます。私はいつも城壁の番兵を思い浮かべます。敵が襲ってきたら、彼は自ら戦おうとはせず、司令官に報告します。サタンがあなたを攻撃し始めたら、一人で戦おうとせず、主に「主よ、彼を私の背後から追い払ってください」と祈ってください。サタンが私を誘惑し始めたら、私はいつもイエス・キリストのことを思い浮かべます。すると、シュッと…彼は去ってしまいます。あなたは、自分が何となく楽しんでいる罪に陥り、それに耽りたいあまり、キリストのことを思い浮かべることを頭から追い出してしまったことはありませんか?サタンが誘惑し始めたら、ただキリストを現実に、キリストに意識を向けてください。サタンはイエス・キリストの存在に耐えられません。ですから、クリスチャンは自分の力で抵抗しようとはせず、祈り始め、イエス・キリストを呼び求めます。

一つ、言っておきます。誘惑の状況に陥ったら、ただ立ち止まり、イエス・キリストに助けを求めてください。そうすれば、きっと勝利を得られるでしょう。しかし、自分で戦おうとしても、決して勝利は得られません。サタンの最大の戦いは、信者に対して戦われるのです。クリスチャンの人生は決して楽ではありませんが、必ず勝利があります。常に、常に、常に勝利があります。「勝利はどこにあるのですか?」とあなたは言うでしょう。ペテロは言います。「勝利は小羊の血によって私たちのために備えられました」。そこに勝利があります。カルバリの丘で既に勝利は得られており、私たちがすべきことは、それにしがみつくだけです。それで終わりです。ヘブル人への手紙の筆者は、キリストは屠られた小羊であり、死によって死の力を持つ者、悪魔さえも滅ぼすと述べています。勝利をもたらしたのは、キリストの死と流された血でした。

罪は私たちに何の権利も主張しません。もはや。なぜでしょうか?それは、私たちがキリストにあって死んだからです。ローマ人への手紙6章を覚えていますか?ガラテヤ人への手紙2章20節には、「私はキリストと共に十字架につけられた」とあります。罪は死を要求し、私は死にました。そして、皆さんに申し上げたように、私が死からよみがえり、新しい命に生きているのは、罪の不運によるものです。私は罪に少しも注意を払っていません。1900年と少し前にキリストが十字架上で亡くなった時、私もそこにいました。罪は私の死を要求し、私は確かに死にました。そして、罪はもはや私に何の権利も主張しません。律法は私が死ぬことを要求しました。私はキリストにあって死にます。私は律法に何の義務も負いませんし、罪にも何の義務もありません。イエス・キリストの死は、私がそこにいたからこそ、私の勝利なのです。

悪魔と若者のチェスの試合を描いた大きな絵がありました。美術館に飾られていました。絵には、若者にチェックメイトした悪魔が描かれていました。そして、どうやら抜け出せそうな様子でした。悪魔は喜びの表情を浮かべ、若者は恐怖に震えました。ある時、ある優秀なチェスプレーヤーが美術館を訪れ、立ち止まってその絵を見つめました。彼はすっかり魅了され、チェス盤の状況を紙に書き写しました。そして家に帰って2日間かけて、若者が一手で形勢を逆転させられることを突き止めました。実に興味深い考えです。人生とはそういうものです。人間には勝ち目はありません。サタンにチェックメイトされています。しかし、カルバリの丘で、イエス・キリストは一手ですべてを覆しました。信じる者にとって、キリストの死は勝利なのです。

ナポレオンは世界征服を計画していました。そして、大きな地図を広げました。その地図にはイギリスが描かれていました。そして彼はイングランドに赤い点を描き、「もしあの赤い点がなければ、私は世界を征服できる」と言いました。そして、ご存知ですか?あなたの人生において、あの赤い点、つまりイエス・キリストの血こそが、サタンに勝利を与えないのです。

サタンと教会との関係を見たあとは、最後に簡潔に、サタンとこの世(世界)との関係について見ていきましょう。では、サタンは今この世界で何をしているのでしょうか?
答えはこうです:
この**世界そのものが、サタンが働くための媒体(メディア)なのです。サタンは「世を通して、肉へと働きかけてくる」**のです。
よく言う「世(the world)・肉(the flesh)・悪魔(the devil)」の三位一体の誘惑の流れですね。
つまり、サタンはまずこの「世」を用い、それを通して私たちの肉(欲望)に働きかけ、罪へと誘惑してくるのです。今日、サタンはこの世界に「隠れています」──しかし、実はそんなにうまく隠れているわけではありません。かなりはっきり見える形で存在しています。
彼はどこに隠れているのでしょうか?
それは私たちの「中途半端な神学」の中に、
私たちの「世の哲学」や「教育システム」の中に、
そしてあらゆる「メディア」の中に潜んでいます。
聖書のエペソ人への手紙2章ではこう言われています。救われていない人間は「この世の流れに従い」ますが、その理由は何か?それは彼らが空中の権を持つ者(=サタン)に支配されているからです。
つまり、この世界はサタンによって動かされているのです。そしてこの世にいるすべての救われていない人間も、サタンに支配されているのです。「それはちょっと受け入れがたい…」と感じるかもしれませんね。でも、それが聖書の語っている真実なのです。
パウロはエペソ2章でこう言っています:
「救われていない人は、世が売っているものをそのまま買ってしまう」
なぜなら、それしか選択肢がないからです。そしてその「世界の店」の店主は、サタンその人なのです。
だから彼はこの世界を運営している。私は何度もこう言っていますが、**この世の「豚小屋のような道徳」こそが、サタンの宣伝(プロパガンダ)**です。テレビ、映画、本などを通して私たちの目の前に提示される、極端な不道徳や罪への「寛容さ」──これこそがサタンの手口です。
彼はそれによって私たちの抵抗力をじわじわと壊していきます。
しかも、彼は非常に巧妙にそれを成功させています。私たちの多くは、聖書が明確に非難することに対して、とても寛容になってしまっています。いや、それどころか、そうしたものを**「娯楽」として楽しんでいる**ことすらあるのです。
それでは、敗北したようなクリスチャン生活になるのも当然です。私たちは自ら進んで、サタンにゴミ(汚れた価値観)を頭に注ぎ込ませているのです。この世は、彼の思いどおりに動いています。イエス様もヨハネの福音書8章44節で、ユダヤ人の指導者たちにこう言いました:
「あなたがたの父は…誰か?…悪魔だ」
使徒の働き13章10節ではパウロも言います:
「おまえは悪魔の子だ」
ヨハネの第一の手紙3章でも、はっきりとこう記されています:
「罪を犯し続ける者は、悪魔に属する者である」
つまり、この世で行われているすべての罪や不義の根本には、悪魔が関わっているということです。
3章10節にはこうあります:
「このことによって、神の子と悪魔の子が明らかになる。義を行わない者は神に属しておらず、兄弟を愛さない者も同じである。」
義を行わない者は、神に属していない。その人は、悪魔の子なのです。とても単純明快な話です。
イエス様もこうおっしゃいました:
「わたしと共にいない者は、わたしに敵対する者である」(マタイ12:30)

中立の立場などありません。真ん中に立って「まだ決めていない」と言うことはできません。あなたに知らせがあります。もしあなたがキリストと共にいないなら、あなたはキリストに敵対しているのです。もしあなたがキリストの王国の一部でないなら、あなたは悪魔の闇の一部なのです。

では、サタンとの決着はどのようになるのでしょうか。今夜はこれについては触れませんが、過去の預言の礼拝でお話ししたように、サタンは最終的に艱難時代に全権を掌握し、ハルマゲドンの大戦でキリストを打ち負かそうと決意します。サタンは勝利を収め、千年間縛られます。千年の終わりに、サタンはこの世で短期間、誘惑を受けるために解放されます。そして最後に、永遠の穴に投げ込まれます。そうです、ついにイエス・キリストがサタンの帝国を滅ぼし、サタンを完全に滅ぼし、この戦いは終わりを迎えます。始まり、そして終わります。今夜私たちが皆さんに問う質問、そして皆さんが答えなければならない質問は、皆さんは誰の王国に属しているのか、誰に従っているのか、誰の王なのか、誰の臣下なのかということです。

皆さんは「まだ決めていない」と言います。もし決めていないなら、あなたはサタンのものです。あなたはキリストのものか、サタンのものかのどちらかなのです。あなたは神の言葉の品々を買っているか、イエス・キリストの愛を通して神との関係の一部になっているか、それともサタンに属していて、サタンがあなたの人生を台無しにし、できる限り速くあなたを滅ぼしているかのどちらかです。もしあなたがもしそうなら、今夜、イエス・キリストに出会うことを信じています。ああ、キリストがそこに立って、すべてを変え、栄光に輝かせ、真の命を与えようと望んでおられるのに、どうして人々はサタンに導かれ、サタンに操られたいと思うのか、私には理解できません。クリスチャンの皆さん、自分の人生をよく考えてみてください。あなたは自分の王であるイエス・キリストを選びました。あなたはサタンに仕えるために逆戻りしていませんか?パウロはローマ人への手紙6章でこう言っています。「あなたは神の奴隷となることを選んだのです。あなたが誰に従うために身を委ねているのか、知らないのですか?」もしあなたがイエス・キリストに身を委ねているなら、サタンに仕える権利があなたにはあるでしょうか?自分の人生をよく考えてみてください。選択をしてください。もしあなたがクリスチャンでないなら、イエス・キリストを選んでください。もしクリスチャンなら、その選択に忠実であり続けてください。祈りましょう。

父なる神よ、今夜、私たちに与えられた御言葉に感謝します。サタンはサタンと戦っているので、サタンについての真理を伝えるのは容易ではありません。父なる神よ、今夜、これを成し遂げることができたことに感謝します。このメッセージを伝える機会を与えてくださった恵みに感謝します。もしかしたら私たちはあなたを過小評価していたのかもしれません。少しの困難を覚悟していたのかもしれません。主よ、もしかしたら予期せぬ妨害があったのかもしれません。サタンが反対して頭をもたげてくることを覚悟していたのかもしれません。もしかしたら、サタンは今まさに、人々の心の中でそうしているのかもしれません。神よ、サタンを叱責してください。今夜、あなたの力を示してくださいますよう、私たちは祈ります。そして神よ、もし今夜ここに、サタンに導かれ、動かされ、動かされている人がいたら、彼らがその事実に目覚めるよう助けてください。神よ、あなたの霊によって、彼らの心に、人生におけるサタンの現実を教え、イエス・キリストの血に心を向けさせてください。

神だけが罪を洗い流し、彼らを闇から光へと変え、彼らを闇の王国、サタンの王国から連れ出し、イエス・キリストの栄光の王国へと導くことができるのです。罪を取り除いて栄光に置き、律法主義を恵みに置き、人生に目的と意味を見出すことができるのです。神よ、今夜、イエス・キリストに立ち返り、サタンの道を捨て、彼らを愛し、彼らのために命を捧げ、その血によってのみ清めることができる方に従う人々がいるように祈ります。そして神よ、私たち信者のために祈ります。私たちはあなたの僕となることを選びました。あなたに服従した私たちはあなたの僕であり、約束を破ってサタンに仕える権利はないことを悟ることができますように。神よ、私たちが罪を犯した時をお赦しください。私たちは自分が罪人であることを認めます。しかし、神よ、何よりも、あなたの御心を愛し、あなたのものを楽しむ心を与えてください。私たちがサタンに仕えるように逆戻りすることのないようにしてください。私たちはあなたを私たちの神、私たちの王として選びました。私たちは代価を計算しました。真の弟子としての代価を喜んで払うことができるよう、私たちをお助けください。

礼拝を終える準備をしながら、皆さんが頭を垂れている間、もしイエス・キリストを救い主として知らないなら、ある意味で、そして張り裂けるような思いで言いますが、あなたは本当にサタンに縛られ、神のことに対してあなたの心を盲目にしているのです。そして、今夜、神が皆さんの目を開いてイエス・キリストの真実を見させてくださり、イエス・キリストがあなたのために死んでくださり、あなたを愛しておられ、あなたの人生に入って来てあなたを変え、あなたの罪を赦し、サタンと罪の支配から救い出し、神の栄光ある恵みへの畏れの中にあなたを置きたいと願っておられることを、皆さんが理解できるように祈ります。「どうすればイエス・キリストにそうしてもらえるだろうか?」と皆さんは言うでしょう。ただ、イエス・キリストをあなたの人生に招き入れるだけでいいのです。今、あなたが座っているその場所で、今、そうすることができるのです。あなたがすべきことはただ、「主イエス様、私の人生に来てください。私の罪を赦してください。私の人生を支配してください」と祈るだけです。今すぐ心の中でそう祈ってみませんか?もしイエス・キリストがあなたの人生に現実として現れていないなら、もしイエス・キリストがあなたの救い主ではないと分かっているなら、「主イエス様、私の人生に来てください。私の罪を赦してください。私の人生を支配してください」と祈るだけで、主は必ずそうしてくださいます。それが主の約束だからです。今すぐ主を招き入れ、暗闇から光へと移りましょう。神の栄光に満ちた御国の一員となりましょう。

そうした人もいるでしょう。クリスチャンの皆さん、あなたはどうですか?キリストの名を唱えながら、サタンに仕えていませんか?あなたの人生に罪がありますか?不従順ですか?もしあなたが献身的な立場から遠ざかっているなら、サタンに打ち負かされないでください。もしかしたら、あなたは自分の人生について、心の中で静かに神に語りかける必要があるのか​​もしれません。

説教者:ジョン・マッカーサー
Oct 25, 1969
Grace to you “Satan” より翻訳しました。

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