良心についての再考

薬物、セラピー、娯楽――これらはすべて、罪悪感にさいなまれる良心を黙らせるために使われています。しかしクリスチャンにとって、良心とは自由への鍵なのです。

1984年、アビアンカ航空のジェット機がスペインで墜落しました。事故を調査した捜査官たちは、ゾッとするような発見をしました。コクピットの「ブラックボックス」に残された記録から、激突の数分前、機体の自動警告システムから発せられたコンピュータ合成の鋭い声が、英語で繰り返し乗員にこう告げていたことが判明したのです。「機体をあげろ! 機体をあげろ!(Pull up!)」

パイロットは、明らかにシステムが故障していると思い込み、「黙れ、グリンゴ(よそ者)!」と吐き捨ててシステムのスイッチを切りました。その数分後、飛行機は山腹に激突し、乗員乗客全員が死亡しました。

事件後まもなくニュースでこの悲劇を知ったとき、私はこれが、現代人が「罪悪感」――すなわち良心の警告メッセージ――を扱う姿を見事に象徴する寓話であると感じました。

現代の知恵は、「罪の意識はほとんどの場合、誤りか有害なものである。だからスイッチを切るべきだ」と説きます。しかし、それは果たして良いアドバイスでしょうか。そもそも、私たち誰もが感じるこの「罪悪感」の正体――良心とは何なのでしょうか。

良心:魂の自動警告システム

現代社会において、良心は一般に「自尊心を奪う欠陥」と見なされがちです。しかし、自分の罪を感じ取る能力は欠陥や障害どころか、神から与えられた素晴らしい贈り物です。神は良心を、人間という魂の構造そのものに組み込まれました。それは、あなたが激突し燃え尽きる前に「引き上げろ! 引き上げろ!」と叫ぶ自動警告システムなのです。

17世紀の清教徒リチャード・シブスは、良心を「自らを省みる魂」と表現しました。良心は、人間を他の生物と区別する核心的な要素です。人間は動物と違い、自分の行動を熟考し、道徳的な自己評価を下すことができます。それこそが良心の機能です。

良心には、正誤を感じ取る先天的な能力が備わっています。霊性に乏しい異邦人でさえ、誰もが良心を持っています。

「律法を持たない異邦人が、本能的に律法の命じることを行うなら、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じるわざが自分の心に書かれていることを示しています。彼らの良心も共にあって証しし、彼らの思いは互いに責め合い、また弁明し合っています。」(ローマ人への手紙 2:14-15)

良心は、正しいと信じることを行うよう促し、間違っていると信じることを思いとどまらせようとします。ただし、良心を「神の声」や「神の律法」そのものと混同してはいけません。良心とは、自分が見なしている最高基準に照らして、自分の行動や考えを裁く「人間の機能」です。良心に背けば、恥、苦悩、後悔、狼狽、不安、不名誉、そして恐怖といった感情が引き起こされます。逆に良心に従えば、喜び、平穏、自尊心、幸福感、歓喜がもたらされます。

心の奥底を知るもの

「良心(Conscience)」という言葉は、ラテン語の scire(知る)と con(共に)の組み合わせに由来します。新約聖書で30回以上使われているギリシャ語の suneidesis も、直訳すれば「共知(co-knowledge)」という意味です。

良心とは、自分自身と共に持っている知識です。つまり、あなたの良心はあなたの内なる動機や本当の考えを知っているということです。それは理性や知性を超えたところにあります。理屈をこねて自分を正当化しようとしても、傷ついた良心を納得させるのは容易ではありません。

旧約聖書で良心にあたるヘブライ語は leb で、通常は「心(heart)」と訳されます。ヘブライ的な思考において、良心は魂の極めて中心的な部分であるため、内面的な人間性と良心を区別しませんでした。したがって、モーセが「パロは心を頑なにした(出エジプト 8:15)」と記したとき、それはパロが神の御旨に対して自分の「良心」を鋼のように固く閉ざしたことを意味していました。

聖書が「柔らかな心(歴代誌下 34:27参照)」について語るとき、それは敏感な良心を指しています。「心の直ぐな人(詩篇 7:10)」とは、きよい良心を持つ人のことです。そしてダビデが「神よ。私にきよい心を造ってください(詩篇 51:10)」と祈ったとき、彼は自分の人生と良心が清められることを求めていたのです。

「黙れ!」と叫ぶ現代人

今日、多くの人々が、良心を抑圧し、無視し、黙らせようとすることで反応しています。彼らは、自分の過ちの本当の原因は、幼少期のトラウマや親の育て方、社会の重圧など、自分ではコントロールできないところにあるのだと結論づけます。

時には、自分の罪は道徳的な問題ではなく臨床的な問題であると思い込もうとします。泥酔、性的倒錯、不道徳、その他の悪徳を「病気」や「状態」と定義し直すのです。こうした自己正当化の議論で良心に答えることは、良心に向かって「黙れ、グリンゴ!」と言うのと同じことです。

繰り返し良心を虐待し続けると、実質的にその機能を無効化させてしまうことがあります。パウロは、良心がねじ曲がり「恥ずべきものを栄光とする(ピリピ 3:19)」人々について語りました。知性も良心も汚れ果て、きよいものと汚れたものの区別がつかなくなることがあるのです(テトス 1:15参照)。

度重なる違反の果てに、良心はついに沈黙します。道徳的に言えば、汚れた良心を持つ者は「計器飛行」ならぬ「盲目飛行」をしているようなものです。煩わしい警告信号は消えたかもしれませんが、危険が去ったわけではありません。むしろ、危険はかつてないほど高まっています。

さらに言えば、どれほど汚れた良心であっても、永遠に沈黙し続けることはありません。最後の審判の座に立つとき、すべての人の良心は、正しい審判者である神の側に立ちます。罪で固まった最悪の悪人でさえ、神の御座の前で、自分自身に対して証言する良心の存在に気づくことになるのです。

良心を整える:天窓としての機能

しかし、良心は「絶対無誤」ではありません。また、正誤に関する啓示の源でもありません。良心の役割は、あなたに道徳的な理想を教えることではなく、あなたが知っている「最高の基準」に対して、あなたに責任を持たせることです。

良心には伝統と真理の両方が情報を与えるため、良心が固執する基準が必ずしも聖書的であるとは限りません(第一コリント 8:6-9)。聖書的に問題のない領域で、良心が不必要にあなたを責めることもあります。実際、主があなたを自由にしようとしている事柄に対して、良心があなたを縛り付けようとすることさえあるのです(ローマ 14:14, 20-23)!

良心が真の聖潔に従って十分に機能するためには、神の御言葉によって情報が与えられなければなりません。ですから、たとえ罪悪感に聖書的な根拠がない場合でも、それは重要な「霊的な異変信号」です。もし良心が誤作動している(弱い良心が信号を送っている)のであれば、それを契機として、良心をより神の御言葉に調和させるための霊的な成長を追い求めるべきです。

良心は知性の確信に反応するため、神の御言葉によって励まされ、研ぎ澄まされます。賢明なクリスチャンは、聖書の真理に精通しようと努めます。それは、良心に完全な情報が与えられ、神の御言葉に反応して正しく判断できるようになるためです。御言葉を定期的に摂取することは、弱い良心を強め、過敏すぎる良心を抑制します。逆に、誤りや人間の知恵、誤った道徳的影響を心に詰め込めば、良心は腐敗し、麻痺してしまいます。

言い換えれば、良心は「電球」ではなく「天窓(スカイライト)」のように機能します。良心自体が光を放つのではなく、魂の中に光を採り入れるのです。その効果は、どれほど純粋な光にさらされているか、そしてその窓をどれほど清潔に保っているかによって決まります。覆い隠したり、完全な暗闇の中に置いたりすれば、機能しなくなります。だからこそ使徒パウロは、清い良心を保つことの重要性を説き(第一テモテ 3:9)、良心を汚したり濁らせたりするものに対して警告を発したのです(第一コリント 8:7、テトス 1:15)。

別の比喩を使うなら、良心は指先の神経終末のようなものです。外部の刺激に対する敏感さは、たこ(胼胝)ができることによって損なわれ、ひどく傷つくと感覚がなくなってしまいます。パウロは、たこができて鈍くなった良心(第一コリント 8:10)、傷ついた良心(第一コリント 8:12)、そして焼き印を押された(麻痺した)良心(第一テモテ 4:2)の危険性について書いています。

精神病質者(サイコパス)、連続殺人犯、虚言癖のある人など、道徳的感覚が欠如しているように見える人々は、良心を破壊し、麻痺させてしまった極端な例です。彼らは本当に、後悔も良心の呵責もなく罪を犯せるのでしょうか。もしそうなら、それは彼らが絶え間ない不道徳と不法によって、自分自身の良心を蹂躙し尽くしてしまったからです。

良心は、人間の魂から切り離すことができない部分です。たとえ頑なになり、焼き印を押され、休眠状態にあるように見えても、良心はいつか罪深い魂を断罪する証言として使われる証拠を蓄積し続けています。

しかしクリスチャンにとって、良心は霊的成長のための素晴らしい資産です。毎日、神の御言葉を読んで良心に正しい情報を与える時間を持ちましょう。良心を無視する癖をつけてはいけません。その警告には素早く反応してください。そして、神に対しても人に対しても、罪を犯した相手に赦しを乞い、一貫した告白を通じて良心を清め続けてください。そうすることで良心は強められ、神の御前で「きよい良心」を持つことの自由と祝福を享受できるようになるのです。

Grace to you The Conscience, Revisited より翻訳

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