完全な堕落(全的堕落)

多くの人が、世の中の悪を見ても「人間は基本的に善い」と主張することがあります。政治家や心理学者、さらには一部の宗教指導者もこの考えを支持し、「誰もが最悪ではないのだから、人間には生まれつき善や自制心があるはずだ」と考えます。この考えは、人間性を安心させるものとして機能し、特に暴力的な異常者を除けば、ほとんどの人が社会的に受け入れられる行動規範に従っていると見なされます。人間の善性を前提とすることで、普通の人は異常な人々と距離を置き、自分たちがより良く見えるようになります。

しかし、マッカーサー牧師は、実際にはすべての人が生まれつき罪と腐敗に傾く性質を持っていると指摘します。では、一部の人々が教えるように、人間一人ひとりに罪の性質や原罪の影響を打ち消す「神聖な純粋な火花」が存在するのでしょうか?

マッカーサー牧師は、人間に生まれつき善があるという考えを否定し、以下のように述べています。

 

「偽りの信仰体系は、人間の堕落を軽く扱う傾向があります。
中には、堕落そのものを完全に否定して『人間は本来、善良だ』と主張するものさえあります。こうした傾向は、キリスト教を装った異端思想、人間中心の哲学、そして世俗的な世界観のほぼすべてに共通しています。そういった宗教や哲学の提唱者たちは、人間の本性を前向きで明るい言葉で語ることで、自分たちの考え方がより高尚に見えると信じているようです。しかし、まさにその考え方自体が、不信仰と偽りの宗教にありがちな“盲目的で筋の通らない思考”を如実に表しています。そもそも、『人間の道徳的な問題』は、少しでも真剣に“悪の存在”について考える人なら、誰にでも明らかになるはずです。G.K.チェスタートンが有名な言葉で言ったように、『原罪は、経験的に簡単に証明できるキリスト教教理のひとつだ』、なのです。人類の堕落は、非常に深刻で破壊的、しかも全人類に及ぶ普遍的な問題です。これは自然主義的な説明ではとても解き明かせませんが、その現実は誰の目にも明らかです。人間が存在するところには、必ず『罪の腐敗の力に支配されている証拠』が見られるのです。」

 

私たちに生まれつきある“罪の性質”は、単なる一部の汚れではありません。聖書は、悔い改めない人々について『罪過と罪の中に死んでいる』と語っています(エペソ2:1)。

人の心の中に、“神の聖らかなかけら”や、“罪の影響を受けていない善良な部分” が残っている、というようなことはないのです。ヨハネはこう説明しています――人間の堕落は、その力が破壊的で、人の存在全体を支配している。つまり、堕落は完全で徹底的なものなのです。

 

「罪とは、非常に残酷な暴君のようなものです。
人類を苦しめてきたあらゆる力の中で、最も破壊的で、最も人を堕落させる力です。
その影響はあまりにも深刻で、全被造物が『今に至るまでうめき、共に産みの苦しみをしている』(ローマ8:22)と聖書が語るほどです。罪は人間のすべてを腐らせます――
魂をむしばみ、
思考を汚し、
良心をけがし、
愛情をねじ曲げ、
意志を毒します。
罪は、人生を壊し、魂を滅びに至らせる“がん”のようなものであり、救われていない人間の心の中で、治ることのない壊疽(えそ)のように腐りながら広がっていくのです。

人間の完全な堕落:全的堕落(トータル・ディプラビティ)という教理が、人間中心の思想(ヒューマニズム)の人々には受け入れがたいのも、よくわかりますそういう人たちは反論として、『善良な例』をいろいろ挙げてきます。

たとえば、慈善活動に励む億万長者、自己犠牲的なボランティア、リサイクルを忠実に守る人々――
『こういう人たちを見て、“人間の本性は善ではない”なんて言えるのか?』と問いかけてくるのです。

しかし、ジョン・マッカーサー牧師が説明しているように、「トータル・ディプラビティ(全的堕落)」という言葉は――

 

「“人間の完全な堕落(Total Depravity)”という教理が、人間中心の考え方を持つ人々に受け入れられにくい理由はよくわかります。
彼らは、『未信者だって親切な行いをするじゃないか』と反論してきます。
慈善家の大富豪、献身的なボランティア、リサイクルを真面目にする市民たちを例に挙げ、
『どうして“人間は本質的に悪だ”なんて言えるの?』と問い返してくるのです。
しかし、“完全な堕落(全的堕落)”という言葉の意味は、「すべての罪人がいつでも最悪の状態だ」ということではありません。(ルカ6:33、ローマ2:14参照)
また、「人間の罪の性質が、常に最大限に表れている」という意味でもありません。
それに、「信仰を持たない人には親切や思いやり、善意の行動、人道的な助け合いがまったくできない」という意味でもありません。
もちろん、「クリスチャンでない人が、美しさ、正直さ、善良さ、優れたものに感動したり、価値を見出したりすることができない」という意味でもありません。
ただし、それらの“良い行い”や“善意”には、神の前では救いに関して何の功績もないということです。
「完全な堕落」とは、罪人には“霊的に善を行う力”や“自力で罪から救われる力”がまったくない、ということを意味します。
人は本質的に、義を愛そうとする心を持っておらず、罪の中に完全に“死んでいる”ために、
自分自身を救うことはおろか、“救われるにふさわしい状態”に自分を整えることすらできないのです。
信仰のない人間には、霊的な真理を“求める力”、“理解する力”、“信じる力”、“適用する力”がまったくありません。
聖書もこう言っています:
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。彼にとってそれは愚かなことだからです。そのことは御霊によって判断すべきことであるため、彼には理解できないのです。」
(コリント人への手紙第一 214節)

「悔い改めない人間は、“善と悪の間で心の中で戦っている”わけではありません。そうではなく、生まれつき持っている“罪の性質”によって完全に無力な状態にあるのです。たとえ善いことをしているように見えても、その動機は罪に汚れており、自己中心的な思惑が混じっています。その人自身には、神の恵みやあわれみを受けるにふさわしい点は、何ひとつありません。

彼は“完全に堕落している”のです。


しかし――そんな私たちが、頭の先からつま先まで腐っているような状態にもかかわらず、神は救いの道を備えてくださいました。

では、霊的に“死んでいる”人間がどうやって救われるのでしょうか?
どうすれば、堕落した本性を持つ者が“神の子”になることができるのでしょうか?

その答えについては、次回お話ししましょう。

 

Grace to you “The totality of depravityより翻訳しました。

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